見出し画像

森林ビジネス考察(2)        山林を基盤とする町に、如何にして産地形成を起こし、街にするか?

2.富山県・黒部市/立山町
 黒部市/立山町は、富山県北東部に位置し、北アルプスから富山湾まで約3,000mの高低差があり、高山帯から低山帯まで変化に富んだ森林地帯を形成しています。大正から昭和時代にかけて、急峻な地形と豊富な水源を発電利用することで栄えてきました。立山黒部アルペンルート、黒部峡谷鉄道、さらには黒部宇奈月キャニオンルート(宇奈月温泉と黒部ダム間の移動を一般開放する計画)により、特に観光産業を中心とした持続的な発展が期待されます。しかしながら、この秘境にビジネスを興すには、先人たちの並々ならぬ努力とドラマがありました。ここではその一端を紹介します。

(1)秘境の源泉の発見(黒薙温泉)
 黒薙温泉は、江戸時代(1645年)に、現在の黒部市音沢村の村人によって発見されたと言われています。黒部峡谷の奥まった山中にあり、険しい山道を歩いてようやく辿り着くことができる深山幽谷の「隠れ湯」でした。1868年、加賀藩によって開湯が許可され、大正中頃に黒部川の電源開発用の鉄道敷設により、一般に利用され始めました。
(2)発展のきっかけ
 明治から大正時代にかけて、日本は急速な産業化を遂げました。特に製鉄、紡績、化学工業などの重工業が発展し、それに伴い電力の需要が急増しました。また都市部の人口が増加し、家庭用電力の需要も増えました。これらにより、既存の電力供給だけでは需要を賄いきれなくなりました。
 黒部川は富山県を流れる急流で、落差が大きく、水量も豊富であったため、水力発電に適していました。そこで、1913年に、黒部川の電源開発に着目とした黒部川電力株式会社が設立され、調査研究が始まりました。1923年には、黒部川第四発電所の建設工事が開始され1936年に完成しています。この間、発電所の建設資材や労働者の輸送を目的として、黒部峡谷鉄道の起点である宇奈月駅から黒部川第二発電所(現在の欅平駅付近)までの鉄道が開通しました。
 この長きに渡る大工事の恩恵で、地域経済は活性化し、多くの雇用が生み出されました。また、発電所から供給される電力は、地域の産業発展の基盤となりました。
 森林地帯にビジネスを興すきっかけの一つは、エネルギー供給とその工事による雇用の発生であったことが判ります。

(3)誰が創り、どのように拡げたか?(宇奈月温泉誕生物語)
 黒部川電力社は、工事現場で働く人々のための福利施設として、黒薙温泉から山麓の宇奈月まで温泉を引き込む計画を立てました。しかし宇奈月は、黒薙温泉から約12キロメートルも離れていました。当時の技術を駆使して、黒薙温泉の豊富な温泉資源を宇奈月まで運ぶために、木管(写真)

引き湯のために造られた木製の管(アカマツ幹を刳り抜いている)

が使用されました。
 木管とは、地域に生育していた太いアカマツを伐り出し、ほぼ通直な数mの丸太の中心部を刳り抜いて円筒にし、両端を木組みで継がれます。それらを山の斜面や谷を越え、時には地面に長距離を送湯したというから驚きです。木管は自然素材であるため、腐りや割れが発生することがあり、その場合は部分的な修繕や交換が地元の職人の手によって、伝統的に行われたそうです。

 現在、黒部峡谷の観光と結びついた一大観光資源として発展を魅せている宇奈月温泉は1924年に開業しています。その歴史は、地域の自然資源を活かした開発に従事された多くの労働者の福利施設としての役割と、観光地としての発展の両面を持っている点で、他の観光地の発展とは一線を画していて、とても興味深いと思います。
(4)誰がどのように捉えて発展させているのか?

 これらのインフラをチャンスと捉え、1937年関西電力株式会社が、黒部川電力株式会社を吸収合併し、発電所や鉄道を所有します。関西電力は、黒部川電源開発の規模を拡大し、さらに上流に多くの発電所を次々と建設していきました。戦後には、日本最大のダムとして知られる黒部ダムが建設され、現在も大量の電力を供給しています。
 戦後の復興期には、新たな宿泊施設や観光施設が増え、宇奈月温泉街は賑わいを見せました。黒部峡谷鉄道(トロッコ列車)の開通により、観光地としての人気が高まり、多くの観光客が訪れるようになったのは、関西電力のビジネス戦略が的を得ていたおかげでしょう。
 現在、宇奈月温泉は国内外からの観光客を迎える一大温泉地として知られています。黒部峡谷の四季折々の景観美とともに、豊富な温泉資源を楽しむことができる場所として、今後益々発展していくことでしょう。黒部宇奈月キャニオンルートが整備されれば、益々その人気に拍車がかかることは間違いありません。
(5)余談
 民法で、「権利濫用の禁止」が想定されるきっかけとなったのは「宇奈月温泉木管事件」です。この事件は、法学生が最初に習う民事裁判史に残る重大な事件だそうです。
 源泉を運ぶために敷かれた引湯木管がわずか二坪だが所有者に無断で通っていたため、土地の所有者が、時価の数十倍という値段で温泉の経営会社に買収を迫り、拒否されると、所有権に対する侵害であると木管撤去を求めて提訴しましたが、1935(昭和十)年、最高裁に当たる当時の大審院は原告の訴えを、公益的な利益を大きく損なう場合に於いて不当に権利を濫用しているとして棄却しました。このとき、判決文で初めて「権利の濫用」という文言が使われたそうです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?