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宝石の国を読んだ
カバー写真はポケモン×工芸展にあったつららおとし(概念)。わたしの直近画像フォルダでいちばん宝石に近い存在。
1〜5巻の感想はこちら。
本当はこの時と同じように感想を書こうと思ったのだが、あまりにも感情が複雑すぎて、すべてを書き出すことは不可能だと判断した。
読み終わったのは12月の終わり頃だったのだけど、ようやく言葉に起こせるくらいの質量になった(つまり色々なことを忘れた)ので、ひとつだけ強烈に残っていることを書いておくことにする。これだけ読んでもどうにもならんかもしれないが、ネタバレはあります。
「祈り」と「願い」。この作品の中で描かれていることのひとつで、わたしの頭に残り続けたもの。
途中で判明した金剛の役割(プログラム)は、「祈る」=「その星(と月)(と海)に暮らすすべての魂を無に帰す」ことだった。けれど、彼はそれを拒絶するようになる。宝石たちと共存することを「願って」しまったから。それに対して、月人たちは、消えることを「願って」いる。
願いには欲がある。こう書くとなんだか良くないもののように感じるけれど(決して駄洒落では無いのだが)、欲することはひたむきだと思う。愚直とも言う。それを大前提として、欲には力がある。というか、力を付与することができる、と思う。
祈りは力を持たない。最後の最後、願う力を持つことさえできなくなった時に、祈りは残されている。縋るように。
願うは可愛い系、祈るというのは綺麗系って感じ。急に思考を放棄するな。無力なものは美しいと思う。
この作品では、「祈り」が力を持ち、無に帰りたいという「願い」がその祈りに敵わないという逆転現象が起きている。……と思ったけど、月人たちの願いと金剛の願いの衝突だと思うとどちらも力を持っていることになるのかも。結局どちらも成されてないからそうじゃないのか? 分からん。
このふたつがどちらも「祈り」だとして、この作品全体を「祈りに力を与える物語」とするならばここの辻褄は合いそう。
ほんでまあなんか色々あって主人公がその「祈りの力」を金剛の代わりに得るわけなんですけど。物語の開始当初から、「みんなの役に立ちたい」「力が欲しい」「変わりたい」という願い(この世界では無力なもの)を持っていた主人公が、最終的に何よりも強い「祈り」を得ることになるという。そもそも主人公のフォスフォフィライトというのは、種族の中で最も弱いとされる存在だったので……そことも繋がる。
これ、「みんなの役に立ちたい」ことから「みんなを無に帰す」ことになるのってスタートとゴールが矛盾しているのですが、その矛盾(エゴイズム的な変遷)もきちんと描かれていて、それがあったからこそ主人公は力を得ることになる、という綺麗な纏まりをしていてすごい。
この世界で無力な願いを持つ主人公→(かつての「人間」にとって願いは力を持つものだった)→宝石という美しい存在である自我を犠牲にして、欲の深い人間になる主人公→(「願い」が力を持つことになる)→この世界における神様になる(祈りという「力」を得る)の流れ。
「みんなの役に立ちたい」というのは、「無に帰りたい」と願う者たちにとって大いに成されたし、「変わりたい」というのも叶いました。ある意味。本当、すごい変わっちゃった……。
すごーく今更気がついたけど、これって逆ベクトルのメリバなのかも。
メリバ(メリーバッドエンド)とは、「主人公たちはなんか幸せそうだけど、外側からみたらそうでもなくない?」ということなのだが、この物語、「外側はなんか幸せそうだけど、主人公からみたらそうでもなくない?」ということが起きている。
それってつまりバッドエンドなのでは? とも思うが、主人公はみんなの幸せを願っていたから……一概にもそうとは言えないような気もする。むずかしいね。
もしかしてこれ、ものすごく綺麗なエヴァンゲリオンだったかもしれない。
アニメはかなり序盤の展開で止まっているけれど、このあいだ最終巻発売記念でやったドローンイベントに、主人公の声優さんがナレーションをあてたということもあったそうで、いつか続きも作られると良いなと思っています。