見出し画像

最終回「てる屋天ぷら店」

 あれはたしか、2019年の夏だった。オープン間もない仮設市場をぶらついていると、籠にお弁当を入れて配達する人を見かけた。店名が記されたTシャツを見に纏っている上に、金色に染められた髪が目を引いた。第一牧志公設市場の二階には食堂街があり、そこに出前を注文する市場事業者はよく見かけるけれど、市場の外から出前をとるのは物珍しい光景に感じられた。あれは一体、どこのお店から配達してもらっているのだろう。配達を終えた店員さんは、仮設市場の向かいにある店舗に引き返していく。そこは創業から60年近くを数える「てる屋天ぷら店」だった。

 創業者の照屋林徳さんは、大正11年大宜味村生まれ。林徳さんの次女・野原巴さんによれば、もともとは名護でお菓子屋さんを営んでいたのだという。

「父は戦前、那覇の菓子屋さんで修業していたらしいんです。戦後すぐに名護でお店を開いて、従業員もたくさん雇っていたそうです。そこから独立してお菓子屋さんを始めた方もいるらしくて、何年か前に本部から訪ねてこられた方もいました。戦時中は海軍の厨房で働いていたらしくて、料理は上手な人だったから、名護でパーラーもやっていたんです。那覇でもまだアイスクリームが珍しかった時代に、3色アイスクリームを出したり、オムライスを作ったり、クリスマスケーキを売ったり。ただ、時代の感覚が早過ぎたのか、あるいは手を広げ過ぎたのか、店を畳んで那覇に出てくることになったみたいです」

 林徳さんは初心に戻り、那覇の松川でお菓子屋さんを始める。ただ、お菓子屋さんを切り盛りするには職人を雇う必要があり、経営を軌道に乗せるのは大変だった。家族だけでまわせる商売はないかと考えて、たどりついたのが天ぷら屋だった。

創業者の照屋林徳さん

「当時は昭和30年代で、沖縄の各市町村から那覇に人が集中している時期でしたので、市営住宅が増えてきた頃だったんですね。沖縄も少しずつ経済が向上してきて、新しいおうちを建てる人が増えてきたときに、これまでのような木造家屋じゃなくて、コンクリート建のおうちが多くなったんです。昔の木造家屋なら気にならないけど、新しいおうちが汚れるのが嫌だからと、揚げ物から手を引く人が増えるんじゃないかと父は考えたらしくて、それで天ぷら屋を始めたみたいです」

 沖縄の天ぷらは、県外の天ぷらとは少し異なる。衣がぼてっと分厚く、しっかりと味つけがされている上に、一個数十円と格安で販売されていることからおやつとしても食べられている。また、旧正月やシーミーのお供物にも天ぷらが用いられる。ただ、「てる屋天ぷら店」は“砂糖天ぷら”ことサーターアンダギーを専門とするお店だった。

「沖縄ではサーターアンダギーは結納品のひとつとされていて、昔はそれぞれの家庭で作るものだったんです。でも、時代が移り変わるにつれて、店で買い求めるものに変わっていったんですね。この公設市場周辺には、行事ごとに必要なお店がたくさん並んでいたんです。その時代に父はここで店を構えて、隣近所の方達と模合をやりながら、砂糖天ぷら専門で商売してました。その時代には、『結納用のサーターアンダギーと言えばてる屋』と皆さんにご愛顧いただいて、ホテルや料亭にもたくさん届けていたんです」

 戦前の沖縄では、結納はそれぞれの家庭でおこなわれるものだった。結納に限らず、さまざまな行事ごとには料理がついてまわる。そういった料理は、集落の女性たちが総出で作っていたそうだ。だが、都市化が進むにつれて、行事に必要になる料理は自分たちで作るものから、現金を出して買い求めるものに変わっていく。

「この牧志公設市場一帯というのは、市民の台所として、行事ごとに欠かせないものを扱うお店が並んでいたんです。でも、段々と観光地化していくうちに、地元の方が買い物にくる場所から、沖縄の食文化を発信する場所に変わっていく。このあたりは裏通りではあるんですけど、昔は『結納用のサーターアンダギーと言えばてる屋』ということで、注文がよく入っていたんです。でも、観光の時代になるにつれて、閑古鳥が鳴くようになって。うちの父はお酒が好きな人で、毎晩桜坂に飲みに行っていたんですけど、下火になるとますますお酒を飲むようになって。そんな紆余曲折を経て、大変な思いをしながらも、どうにかお店を続けてきたんです」

 巴さんの次男にあたる野原由人さん(36歳)は、1986年生まれ。僕が仮設市場で配達している姿を見かけたのも、この由人さんだ。

「僕の記憶にあるおじいちゃんは、お酒を飲んでる印象が強いですね」と由人さんは笑う。「その時代には、おばあちゃんと叔父さんが朝から晩までずっと働いてました。僕が小さい頃はまだ、注文がたくさん入っていたんです。ホテルからも結納セットの注文が入ってましたし、お祝い事のときにサーターアンダギーを配る方も多かったんです。僕は保育園に通ってた頃に、途中で抜け出して戻ってきて、お手伝いしてたらしいんです。何度も抜け出して危ないという話になって、保育園をやめさせられるんでうけど、ずっと店で卵を割ったり、工場の掃除をしたりしてた記憶がありますね」

 数台のショーケースに満杯に積み上げられたサーターアンダギーは、飛ぶように売れていた。仕事は忙しく、祖母や叔父は慌ただしく働いていたけれど、その姿はどこか楽しそうだった。どんなに忙しくても、お昼になれば家族揃ってごはんを食べて、幼い孫のことも気にかけながら働く余裕があった。「自分は外孫のほうなんで、いつか継ごうと思っていたわけではないんです」と語る由人さんだが、商業高校に進学し、大学でも経営学を学んだのは、「お店のことが頭の片隅にあったのかもしれないです」と振り返る。

「てる屋天ぷら店」はやがて代替わりし、叔父の徹さんが切り盛りするようになっていた。大学を卒業すると、由人さんは大手コンビニチェーンに就職し、店舗運営のマネジメントをおこなうスーパーバイザーとして働いた。21世紀に入る頃には、県内各地にスーパーマーケットが増えたことで、行事ごとのときにまちぐゎーまで買い物にくる地元客は減りつつあった。また、結納用のサーターアンダギーもホテルが独自に作るようになり、結納をおこなわない家も増え始めていた。まちぐゎーに観光客が増えると、サーターアンダギーを販売するお店も増え、裏通りに位置する「てる屋天ぷら店」は苦境に立たされていた。お店を繁盛させるには、何が必要なのか。陳列ひとつとっても、コンビニの商品は人間の行動心理学を生かして配置されており、参考になることはたくさんあった。

「しばらくスーパーバイザーとして働いているうちに、中国から観光にくる人たちが増えてきたので、コンビニを辞めて、中国語を勉強するために1年半ぐらい留学したんです。ただ、日本に帰ってきてすぐ店を継いだわけではなくて。段々と下火になってきたのを見ているので、自分が今継いでもうまくいかないなと思ったんです。だから、お店の様子を見ながらも、外で勉強してこなきゃと思って、べにいもたるとが有名な「ナンポー」に入社したんです。そこで働けば、沖縄の特産品やお土産品がどうすれば売れるのか、学べるんじゃないかと思ったんです」

 由人さんが営業職として担当することになったのは、地元・那覇エリアだった。そこで働くことで、お菓子の製造・流通に関する知識も身についたが、痛感したのは対話の大切さだったという。

「お店が繁盛するには、味が美味しいことももちろん大切なんですけど、営業の仕事は対話することが一番重要だなと思ったんです。いくら美味しいものを作っても、知ってもらうきっかけがないと、手にとってもらえなくて。とにかく外に出て、お店の方たちと話をして、今の市場の状況を知る。そこでどんな商品が売れているのか、どんな商品が必要とされているのか、ひとつひとつ話を聞いていく——営業として働いていたとき、とにかく対話することを大事にしていたんです。何度も足を運ぶうちに、この市場界隈の方たちとも仲良くなって、今でも付き合いがありますね」

 営業マンとして働いているうちに、店を切り盛りする叔父も年齢を重ね、「そろそろ店を畳もうかと思う」と漏らすようになっていた。転機となったのは、市場の建て替え工事が決まったこと。工事期間中に仮設の市場が置かれることになったのは、「てる屋天ぷら店」の真向かいにあるにぎわい広場だった。

 仮設市場がやってくる——お店をふたたび繁盛させるには、これ以上ないチャンスに思えた。それをみすみす見逃して、祖父母や叔父、叔母たちが切り盛りしてきたお店をなくしてはいけないと、お店を継ぐ決心をする。小さい頃から祖父母のそばで育ったこともあり、従兄弟たちからは「次にやるのはお前しかいなかった」と感謝の言葉をかけられたという。

「店を継ぐと決めたあと、市場にいる先輩方に『仮設で営業するあいだ、まわりの店に何を望んでますか?』と聞いてまわったんです。皆さん仕事が忙しくて、外に食事に出る時間がないみたいで、『やっぱり、ごはんじゃない?』という声が多かったんですよね。このあたりだと、沖縄そば屋さんはありますけど、定食が食べられるお店や朝ごはんが食べられるお店がないな、と。それに、このあたりに買い物にくるのは年配の方も多いんですけど、地元の人たちがゆっくり座って過ごせる場所がないなというのもあったんです。サーターアンダギー1個買ってもらうだけでもいいから、ゆっくり座って休憩できる場所が作れたらと思って、食堂を始めることにしたんです」

 飲食の経験はなかったが、叔父と一緒にお店を切り盛りしてきた伯母の徳子さんは調理師免許を持っていた。叔父には引き続きサーターアンダギーを作ってもらう他に、県内各地の沖縄天ぷらを食べ歩いて、もずくやあん餅など天ぷらも販売することにした。店舗に改装工事を施し、リニューアルオープンをしたのは2019年2月のことだった。

「仮設市場がオープンしてからだと遅いなと思ったので、半年前には開けたいと思っていたんです。いつから営業しようかと探っていたんですけど、悩んでいても決まらないから、『とりあえず開けてやれ』と旧正月に営業を始めたのがスタートです」

 リニューアル当初のメニューは、日替わり定食の一種類のみ。朝8時にはお店を開けて、500円でワンプレートの料理を提供していた。最初から大繁盛とはいかなかったが、知り合いが弁当を注文してくれるようになった。弁当を籠に入れて配達する由人さんの姿を見て、「あんた、どこの店ね?」と地元の方たちに呼び止められるようになり、少しずつ注文が増えてゆく。

ある日の日替わりランチ。おかずもおつゆも絶品。

「やっぱり、お店で営業してるだけだと、気づいてもらえなかったと思うんです」と由人さん。「とにかく知ってもらうために、ユニフォームも作って、髪も金髪にして、籠を持って——まわりに気づいてもらえるように、とにかく目立たなきゃと思っていたんです。最初のうちは8時から朝食を中心にやっていたんですけど、そのうち『ランチが食べたい』という人が増えてきたので、ちょっとメニューを増やして今は10時から18時頃まで営業しています」

 リニューアル・オープンから1年を迎えるあたりで、コロナ禍となった。ショーケースに並べたサーターアンダギーと沖縄天ぷらがひとつも売れないまま店を閉める日もあった。それでも営業を続けてこれたのは、向かいにある市場の店主たちのおかげだと由人さんは振り返る。

「コロナでお客さんがいなくなったときも、市場の人たちは弁当を注文してくれたんです。『今日も暇だね』と言いながらも、『またお客さんが戻ってきたら、どんなふうにやっていこうか』と話していて——とにかく皆さん、どんな日でも明るかったんですよね。市場の活気ある方たちのおかげで、コロナ禍にも営業を続けてこられたような気がします」

 3年に及んだ建て替え工事を経て、いよいよ新しい第一牧志公設市場の完成が近づいている。仮設市場は撤去され、市場はふたたび100メートル離れた場所に戻ってしまう。ただ、「この3年のあいだに、てる屋のことを知ってもらえたと思うんです」と、由人さんは前向きに考えている。

「僕としては、仮設市場があるうちに、うちの店のことを知ってもらうのが一番の目標だったんです。これから市場が元の場所に戻っても、弁当を注文してくださる方はいると思うんですよね。この3年間で知り合った方との縁は、これからも続いていく。それに、仮設市場の跡地も、駐車場になるのか元の広場になるのか、なにかしら新しい場所に生まれ変わると思うんです。この通りには節子鮮魚店さんをはじめとして良いお店が点在してるので、その中のひとつになれたらいいな、と」

 新しい市場がオープンするのに合わせて、空き小間には公募がかけられている。倍率は高くなりそうだが、申し込んでみるつもりだと由人さんは語る。市場の小間が借りられたら、そこでサーターアンダギーと沖縄天ぷらを販売し、現在の店舗はゆっくり休憩してもらえる場所に特化できたらとアイディアを練っているところだ。最近は定休日に店舗を那覇市の包括支援センターに提供し、「認知症カフェ」を開いている。認知症カフェとは、認知症の当事者や家族が孤立しないように、地域の中で集う場を提供するサロンのようなものだ。

「最近は観光客向けのお店が増えてはいるんですけど、地元の人たちを絡ませた地域づくりをやっていかないと駄目だと思うんです。僕らが小さい頃だと、周りの人たちも『あの子はどこの子か』ってわかってるから、このあたりを歩いているとよく声をかけられてたんですよね。時代が時代なので、声をかけづらい状況になってはいるんですけど、道端で会った人たちと言葉を交わすのは大事なことだと思うんです。あとはやっぱり、もっと若い子たちが遊びにこれる地域になってほしいな、と。若い子たちだと、まちぐゎーにきたことがないって子も増えてると思うんですけど、OB訪問で母校に行くときにはサーターアンダギーを持って行って、『市場界隈にくることがあったら、かき氷ご馳走するから遊びにおいでよ』と声掛けはするようにしてますね」

 取材を重ねてきたことで、まちぐゎーを歩くと、前に話を聞かせてもらった方に話しかけられる機会が増えた。すれ違いざまに、短く言葉を交わして、別れてゆく。そんなやりとりが続くと、ひょっとしたら自分もまちぐゎーのひとびとのひとりになっているのかもしれないなと感じる。

 コロナ禍が始まったばかりの頃に、誰かと対面して言葉を交わすことがネガティブに受け止められる時期もあった。これまでは街の至るところに腰掛けられるベンチが置かれていたが、その数も少なくなった。そんな時代だからこそ、弁当を入れた籠を提げて街を行き交いながら、知り合いの店主たちと挨拶を交わし、時に立ち話をする由人さんの姿が目に留まり、こうして話を聞かせてもらったのだ。

 誰かと言葉を交わすことを、わたしは求めている。そんな瞬間に期待して、わたしは街に出る。

 まちぐゎーにあるお店には、来客用の椅子が用意されてあることが多い。馴染みの買い物客がやってくると椅子を出し、談笑する店主の姿をよく見かける。いたるところにコンビニやスーパーマーケットが存在する時代に、わざわざ市場に脚を運ぶ買い物客は、商品を買い求めるだけでなく、何か一言でも言葉を交わすことを欲しているのではないか。

 サーターアンダギー専門店から食堂に商売替えをした今も、「てる屋天ぷら店」は誰かの憩いの場になっている。


野原由人さん

てる屋天ぷら店
沖縄県那覇市松尾2丁目8−43


フリーペーパー「まちぐゎーのひとびと」
毎月第4金曜発行
取材・文・撮影=橋本倫史
市場の古本屋ウララにて配布中

サポートいただいたお金は、取材活動費に充てさせていただきます。ご支援のほど、なにとぞよろしくお願いいたします。