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第8回「大城商店」

 平和通りと、石畳敷きの壺屋やちむん通りのあいだに、数十メートルの路地がある。ここに「大城商店」という日用雑貨を扱うお店がある。店頭には見慣れない商品が並んでいる。目を引いたのは「Coast」と書かれた青いボトルだ。

  「それはね、ボディソープ」。物珍しさに駆られて商品に見入っていると、店主の久貝恵一さん(82歳)が教えてくれた。髪の毛も洗える、アメリカ製のボディソープだ。ボディソープが発売されたのはここ20年のことだが、同じ銘柄の固形石鹸は昔ながらの定番商品だという。蓋を開けて香りを確かめると、海の向こうの匂いがする。

  「うちは『大城商店』という名前で知られていたというよりも、『石鹸屋』として有名だったみたい。復帰してからは花王とかライオンといった日本製も増えてきたけど、昔はラックス石鹸とかキャメイ石鹸とかパルモリーブとか、アメリカの商品が多かったんですよ。本土に比べたら、高級は使っていたと思うよ。うちはやってないけど、コーヒーや缶詰を船に積んで、鹿児島まで行って商売していた人がたくさんいたというからね。それだけ儲かったという証拠さ」 

「大城商店」があるあたり——サンライズなは商店街と桜坂中通りのあいだの一帯——は、現在ではやちむんを扱うお店や民宿、それにちまきが名物の「金壺食堂」といったお店が点在しているが、どちらかといえば閑静な通りだ。ただ、復帰前は「ものすごく繁盛した通りだった」のだと、久貝さんは語る。かつて壺屋にはバスセンターがあり、買い物客が足を運びやすい場所だったという。

  「このあたりはね、貿易会社がたくさんあったのよ。今はKIWAMEというステーキ屋になっているところは、昔は小田切商事といって、輸入品を扱う店でね。ポップコーンというのは、うちはあそこで初めて見たね。今はコインランドリーがあるあたりに幸陽商事というのがあって、『ナツコ 密貿易の女王』という本にもなっている女の人が立ち上げた会社なんだけど、これはメリケン粉を輸入する大きな問屋だった。その隣が、びっくりそば。ここはそばが美味しくて、びっくりするぐらい盛りがよかったわけ。このあたりで買い物した人が、そこでそばを食べて帰りよったよ」

 そう語る久貝さんは、那覇出身ではなく、昭和15年に宮古島で生まれている。6名きょうだいの末っ子で、実家は農業を営んでおり、学校から帰ると草刈りやサトウキビ狩りといった仕事を手伝っていた。 

「うちがあったのは久松というところで、今は伊良部大橋ができて繁盛してるけど、昔は田舎だったのよね。銭湯というのは都会にしかなかったから、2、3キロ先まで歩いてかなきゃいけない。でも、わざわざ銭湯に行くというのはお正月ぐらいで、海が近くだから、普段は海水浴で済ませていたね。あの当時はね、自分の部落の外に出ることは滅多になかったよ」

 ただ、小さい頃から「いつか島を出よう」と心に決めていた。末っ子とあって、弟や妹の教育費を心配する必要もなく、親から「高校を出ろ」と言われていたけれど、高校には進学しなかった。

  「その意味では、うちはほんと、親不孝者ではある」と久貝さん。「ただ、働いて親孝行したほうがいいはずと思って、島を出ることにしたわけ。大阪の着物問屋を紹介してもらって、まずは宮古から沖縄に出てきたの。港に着いてみたら、西も東もわからんわけよ。沖縄でこれだったら、大阪に行ったらどうなるかわからんと思ってね。大阪行きはやめにして、その日のうちに仕事場を探してまわったのよ。そうしたら——そこに見える赤いビル、今は壺屋陶芸センターになっているところの近くにあった丸永商会という会社が従業員を募集していて、住み込みで働けるというから、ここで働き始めたわけ」

 「丸永商会」は日用雑貨を扱う問屋だった。久貝さんに与えられたのは、那覇の各地にある小さな商店まで商品を配達する仕事だった。近くには映画館もたくさんあったけれど、遊びにいく暇もなく、「日活とか東映とか、言葉は知っていてもどんなかわからんよ」と久貝さんは言う。もらった給料は、ほとんど仕送りに充てた。そうして「丸永商会」で働くなかで、糸満出身の吉子さんと出会い、23歳で結婚する。吉子さんが働いていたのが「大城商店」だった。

  「最初に店を始めたのは女房の親戚で、金城という女性がやっていたわけ。このおばさんも糸満の人で、お店を女房に任せて反物を扱う仕事をやるようになったみたいだね。その時代には看板も掲げずにやっていたみたいだけど、当時から大城商店で通っていたから、うちの女房とお姉さんがその名前で引き継いだ。うちが結婚して、一緒に店をやるようになって、もう60年になるね」

 もともと雑貨問屋で働いていたこともあり、仕事にはすぐに慣れた。ただ、結婚当初の「大城商店」は今よりずっと狭く、夫婦で働くには手狭だった。当時はひとつの建物をいくつもの間口に区切った商店がまちぐゎーに建ち並んでいたが、「大城商店」が入っていた建物も一間(1.82メートル)ごとの区画に区切られ、雑貨屋と菓子屋が入居していた。狭いスペースで夫婦で働くよりはと、前職の経験を活かして仲卸業にも手を広げ、大きな箱を積める自転車を購入し、営業と配達にまわった。当時は舗装されていない道路も多く、首里の坂道をあがるのは苦労したが、「配達するぶん、よそのお店よりかは有利だった」と久貝さんは振り返る。

 当初は瓦葺き屋だった建物も、沖縄が復帰を果たしてほどなくすると建て替わり、現在のビルになった。ただ、その頃になるとスーパーマーケットが普及し始めており、県内各地にあった小さな商店が姿を消して、仲卸の仕事は少なくなった。輸入代理店も少しずつなくなり、「大城商店」と同じ建物に入居していた商店も一軒、また一軒と閉店した。空き小間となった場所まで「大城商店」が借り受けて、現在の広さとなった。

  「ここ20年で、お客さんが減ってきたのよね。若い人たちはあんまり興味を持ってくれないけど、昔から馴染みの高齢のお客さんが買いに来てくれるわけ。ここだとスーパーでは扱っていないような昔ながらの商品が買えるから、『やめないでちょうだいよ』って言ってくれるわけ。そう言ってくれるお客さんには、『こっちも家賃を払わんといかんから、だったら毎日買いにきてね』と冗談を言って笑わすんだけどね」

 お客さんのリクエストに答えて、いつまでもお店を続けたい気持ちもあるけれど、「けじめをつけなければ」と、85歳でお店を畳むつもりだ。

 最初は「地球がひっくり返った感じ」に見えた那覇の街並みも、60年近い歳月を経た今ではずいぶん見慣れたものになった。

  「沖縄に出てきた頃に、一番苦労したのは言葉よ。うちなんかは宮古の言葉しかわからんかったわけ。宮古と言っても、部落ごとに言葉が違うんだけど、とにかく沖縄の言葉がわからんかった。それがもう、今は宮古の言葉で話す機会がなくなって。同級生と何十年と模合をしていて、途中で宮古の言葉で話すこともあるんだけど、『ああ、自分は今、宮古の言葉を使っていたな』と意識すると、またパッと沖縄言葉に戻ってしまう。そうしているうちに、同級生にも沖縄言葉でしゃべるようになってくるわけよ」

 わからない言葉を聞き返すことよりも、相手が言っていることがわからないまま商売をするほうが恥だからと、お客さんから各地の言葉を教わった。そうして自分が話す言葉も沖縄言葉になった。妻・吉子さんから「たまには宮古の言葉を使って」と言われることもあるけれど、今では沖縄言葉のほうが馴染みがある。

 「言葉を忘れるというのはね、言ってみれば、島を捨てたということだから」。久貝さんはそうつぶやいた。その言葉の裏側には、何十年とここで商売をしてきた自負があるのだろう。「人生って面白いよ。辛いときもあれば、楽しいときもある」。そうつぶやきながら、久貝さんは通りを行き交う人たちを眺めていた。

久貝恵一さん


大城商店
沖縄県那覇市壺屋1丁目7−7
9:30-1800(日曜定休)


フリーペーパー「まちぐゎーのひとびと」
毎月第4金曜発行
取材・文・撮影=橋本倫史
市場の古本屋ウララにて配布中

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