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第3回「琉球菓子処 琉宮」

 きっかけは物産展だった。営業の仕事をしていた明石光博さんはある日、ルートをめぐる途中で博多井筒屋に立ち寄った。そこで開催されていたのは沖縄物産展だった。時代は昭和から平成に変わる頃で、沖縄の食材や料理は今ほど内地に浸透しておらず、初めて目にする品々に魅了された。
 
「22歳のとき、上司と独立して会社を立ち上げたんですけど、その上司に夜逃げされたんですよ。それで『とにかく稼がないといかん』と、20代は借金を返すことに追われていたんです。そんなときに沖縄の物産品と出会って、癒されもしたし、驚きもした。こんな文化があったのか、って。金を追いかけるんじゃなくて、本気で人生を賭けられるものと出会ったような気がして、 気がつけばその場で責任者の方に『この商品を仕入れたいです』とお願いしていました」

 営業一筋に生きてきた明石さんは、沖縄から商品を仕入れ、熊本で催事での販売し始める。沖縄の物産品の中でも、とりわけ興味をそそられたのがサーターアンダギーだった。

 サーターアンダギーは、割れた形が笑ったように見えることから、めでたい席に用いられる伝統菓子だ。独自にレシピを研究するうちに、沖縄物産展で売ってみたい気持ちが沸き上がる。サーターアンダギーを取り扱う業者は他にもいて、なかなか販売する機会を得られなかったけれど、あるときチャンスが訪れた。 

「梅田の阪急で沖縄物産展をやるときに、『試しにやってみますか』と言ってもらえたんです。『ただ、出るからには売らんといかんですよ。明石さんはいくら売れるんですか』と。もう、ここは吹くしかないなと思って、『一日で50万は売れるんじゃないですか』と言っちゃったんです。言ったからには、その数字をクリアしないと次はないよな、と。どうしたらいいかと考えて、プレーンだけを一品しぼりでひたすら実演販売し続ける作戦をとったら、一日で55万売れて。自分でも驚きましたけど、そこからいろんな催事に声をかけてもらえるようになって、ああ、こういう使命だったんだなと思いましたね」

 販路は順調に拡大したものの、明石さんにはある悩みがあった。お客さんに「あんた、ウチナーンチュね?」と尋ねられて、正直に「熊本なんです」と答えると、それなら要らないと返品されることもあった。

 「沖縄から品物を仕入れて、沖縄のことを伝えたくて販売してたんですけど、自分の所在地が熊本なだけでガッカリされてしまう。どうしたいいんだろうって、10年間悩み続けたんです。ある日、『ああ、行けばいいんや』と思い立って、それから3ヶ月後には布団とフライヤーだけ車に積んで、鹿児島からフェリーで沖縄に引っ越してきたんです」

 沖縄に移り住んだ明石さんは、サーターアンダギーを看板商品に「琉球菓子処 琉宮」を創業する。松尾二丁目中央市場に7坪の工場を構えたのは2004年のこと。最初は催事を中心に販売していたが、リピーターのお客さんが増えるにつれ、お店を構えて販売してほしいという声が届くようになる。

 「沖縄物産展に出ていたときに、公設市場の和ミートさんや次郎坊さんと一緒になっていて、『明石さん、市場にはお客さんがいっぱいいるよ』と教えてもらっていたんです。どこかにいいところはないかと探していたときに、松本商店さんが作業場として使われていた場所が目に留まって。その軒先で、業者さんがたまにマンゴーを売ったりしてたんですね。『ここで販売させてもらうことってできるんですか』と相談に行ってみたら、当時はまだご存命だった松本商店のお母さんに『頑張って売りなさい』と言ってもらって、屋台で商売を始めたんです」

 2010年には作業場だった物件ごと借り受け、「松本商店」の隣に「琉宮本店」をオープン。その2年前には抽選に当選し、公設市場の2階にも出店していた。

 「私は沖縄の人間じゃないもんですから、コンプレックスみたいなものもあったんです」。明石さんは率直に振り返る。「自分はナイチャーだし、新参者だし、迷惑かけないようにという思いはありました。ただ、せっかく新参者が商売をするなら、自分だけが出せる売りを作らなきゃと思ったんです。私は物産展の経験があるから、それを市場に持ち込みたいな、と。物産展とこの界隈は似てるところもあって、たくさんあるお店の中からアイキャッチをして、興味を持ってもらうことが大事なんです。それも、無理矢理売りつけるんじゃなくて、いかにお客さんのベネフィットにつなげるか。誰にお土産を買うのか、どんなものが必要なのか、適切なものを対面販売で提案できれば買ってくれる。これが物産展のやりかたなんです」


公設市場の向かいにあった「琉宮」のお店


 まちぐゎーの商いの基本は「相対売り」にある。売り手と買い手が話し合いながら、商品や価格を決めて、売り買いする。明石さんの物産展由来の「相対売り」は観光客にも好評で、「琉宮」は多くのお客さんで賑わうようになる。

 だが、2019年6月に公設市場が建て替え工事に入ったことで状況が一変した。工事に先駆けてアーケードが撤去されると、雨が降ると濡れてしまう上に、解体工事でホコリが舞い飛び、軒先に商品を陳列できなくなった。アーケードの再整備も含めて、工事によって生じる損失の補填について那覇市に問い合わせてみたものの、前向きな回答は得られなかった。これを機に、明石さんは公設市場の前にある本店を移転する決断を下したしたものの、市場界隈を離れることは考えなかった。

 「最初に『那覇の名物』と看板に銘打ったのもあるんですけど、このあたりのことが理屈抜きで好きだったんです。ここに20年近く商売してますから、まちぐゎーの業者さんからもらったパワーや、これまで交わしてきた会話というのがもう、蓄積されてるんでしょうね。外からきた人間として、沖縄の人とは違う視点や感覚の中で役に立ちそうなものがあれば投げかけさせてもらって、どんどん新しいチャンプルー文化を作ってもらえたらなと思ってますね」

 店頭に並ぶ商品は、伝統的な琉球菓子だけではなく、ひと口サイズのサーターアンダギー「ちっぴるー」や、サーターアンダギークッキー、焼きムーチーなど、伝統的な味をアレンジした商品も開発している。

「沖縄にはなくしてはいけない文化がたくさんあるので、そのまま残すべきものはそのまま残さなきゃいかんと思うんです」。今年で62歳を迎える明石さんは語る。「ただ、その一方で、次の世代に振り向いてもらう必要もあると思うんですね。そのまま残すものと、アップデートしていくもの。ふたつをうまく融合して、幅広い層に沖縄の魅力を届けられたら、と」

 「琉宮」は現在、サンライズ店と平和通り店で営業している。本店が平和通りに移転したのを機に、看板に「Okinawan Sweets」の文字を掲げるようになった。そこには、新しいスタンダードを創り、国内外問わず、幅広い層に商品を届けたいという思いが込められている。

 「コロナ禍になって、お客さんが減ったとき、『今は種まきの時期だ』と考えることにしたんです。雇用調整の助成金を申請する道もあったんですけど、従業員を休ませるんじゃなくて、新たに通信販売の部署を立ち上げたり、全国のスーパーに営業をかけたりしたんです。すぐに芽は出なかったんですけど、踏ん張って続けてたら、全国からオファーが殺到するようになって。沖縄が好きな方や、沖縄のものを求めてる方って、世界中にいると思うんですね。お店は拠点として守りつつ、漏れなく情報とサービスを届けていけたらなと思っています」

 コロナ禍になってからというもの、まちぐゎーの風景はめまぐるしく移り変わっている。その中で気づいたのは、看板に「Okinawa」の文字を入れるお店が増えつつあることだ。復帰50年の節目を迎えた今、「沖縄らしさ」が問い直されつつあるように感じる。今から50年後には、どんな商品がまちぐゎーの定番になっているのだろう。

「琉宮」のオーナー・明石光博さん



 

フリーペーパー「まちぐゎーのひとびと」
毎月第4金曜発行
取材・文・撮影=橋本倫史
市場の古本屋ウララにて配布中





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