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向井秀徳、「らんど」を語る(2)

ZAZEN BOYS約12年ぶりのアルバムがリリースされたのは、1月24日のことだった。リリースと前後して、TOUR MATSURI SESSION 2024が始まり、2月3日には熊本B.9 V1にて、2月4日には福岡DRUM LOGOSでライブが行われた。福岡といえば、向井秀徳が青春時代を過ごした街であり、ナンバーガールが結成された街でもある。そこで私は、ライブを終えた直後の向井秀徳に話を聞かせもらうべく、福岡に飛んだ。ここに書き綴るのは、そんな旅の記録であり、対話の記録である。(聞き手・構成 橋本倫史)


 ――福岡ドラムロゴスでのライブ、お疲れ様でした。 

向井 お疲れっす。わざわざ福岡まで、久方ぶりについてきやがったっていうね。

――福岡まで着いてきたのは久しぶりですね。2011年5月に、今日と同じくドラムロゴスでMO'SOME TONEBENDERとのツーマンがあったとき、機材車の運転係もかねて同行して以来だと思います。 

向井 福岡ではときどきライブをやってるけども、地方でワンマンライブをやるということは久方ぶりなんですね。ツアー自体は2023年から始まってるんやけれども、地方シティでワンマンライブをやれるのは、やっぱりアルバムをリリースできたからこそなんですね。ホントはね、リリースをしてからツアーを始めたかったんだけれども。 

――2023年の全国ツアーは10月から始まっているわけですけど、当初の予定だと、この時点でもうアルバムをリリースしているはずだったわけですね?

 向井 そうね。なぜそうなったかと言えば、リリースより先に、ライブハウスのブッキングが始まるわけだ。やっぱり皆、週末や祝日にライブの予定を組むんだけど、当然早い者勝ちだから、1年前とかから仮押さえの応酬になるわけよ。ライブハウスを押さえた時点では、まったくレコーディングに着手してないんだね。ただ、ナンバーガールが終了するとなった時点で、「音源があろうがなかろうが、最近行けていなかった地方シティも含めて、ライブをやりに行きたい」と。そういった意味合いでツアーを組んだということやね。 

――だからアルバムがリリースされる前に、2023年のツアーがあったわけですね。アルバムのリリース後ということでは、昨晩の熊本が一発目で、それに続けて今日の福岡公演があったわけですけども、リリース後のライブは率直にどんな感触がありましたか? 

向井 音源っていうものがどんだけ大切なのかっていうのは、ちょっと実感してますね。ライブ活動はずっと続けているわけですけども、音源としてリリースすることはなくても、「こういう新曲ができました」ってライブで演奏することはあるわけよ。ライブで聴いてもらうっていうのが、こっちとしては一番手っ取り早いし、早く聴かせたいって気持ちもある。「聴かすならライブの現場だ!」と思いながら、この10年ぐらいやってきたんやけど、ひとつの作品にまとめたものを聴いてもらって、その上でライブで演奏するっていうのは明らかに違うことなんだなって、久方ぶりに思い出したよね。別に「音源なんてどうだっていいやろ」みたいな考え方で、作品をないがしろにしていたわけじゃないですよ? こないだも言ったように、音源の大事さをわかっているから、「額縁に入れなきゃいけない」という気持ちにとらわれていた部分があるんやけど、音源として聴いてもらった上でライブをするっていうのは、コミュニケーションの形として正しいと思いましたね。 

――リスナーの側としては、音源を聴き込んだあとでライブに行くと、「ああ、あの曲だ!」と盛り上がる部分がありますよね。ステージで演奏している側としても、あきらかに違いを感じる、と。

向井 あきらかに違うよね。「らんど」に入ってる曲というのは、去年からずっと演奏してるわけです。リリース前のライブでも、もちろんちゃんと受け止めてもらえるというか、手応えはあるんやけど、もう明らかに違うんだよね。これはハッキリしたね。昨日からそういう気持ちになってますね。昨日の熊本公演も――熊本でワンマンコンサートをやるのも、ほんとに久しぶりだったんです。そこで熊本の人たちが、ある意味構えて聴いてくれるという、この向き合い方はすごく嬉しいことでしたね。 

――たしかに、リリース直後のツアーとなると、聴く側のほうもちょっと構えた感じになるというか、今からどんなライブが観れるんだろうという、高揚と緊張が入り混じった独特の感じがありますね。 

向井 それは今日の福岡公演もそうだったけどね。福岡はちょこちょこ来てはおるっちゃけど、やっぱりそう思います。これはもう、たとえば東京でやるっていうのとは違ってくるわけだ。 

――ドラムロゴスのあたりって、向井さんが音楽活動を始めたばかりの頃に過ごしていた場所でもありますよね。ナンバーガールのライブでも、「福岡市博多区からやってまいりました」という口上をよく述べられてました。 

向井 それはそうなんだけど、「戻ってきたぜ!」みたいな気持ちというのは、実はそんなにないんです。というのも、福岡シティというのはずっと移り変わっているんですね。これはもう、俺が住んでた25年前からそうですよ。福岡シティは常に再開発が――いや、「再開発」じゃなくて「開発」だね、ずっと開発され続けている街なんです。そんな街って、日本の中でもあんまりない気がしますね。だから、福岡にくるたびに思うのは、「ニュー福岡だ」と。これは悪い意味で言っているわけじゃないですよ。「俺の知ってる福岡じゃなくなって寂しい」とかってことじゃなくて、こんなに生まれ変わり続ける街ってすごいなと思うわけです。それは福岡独特の活気というか、みなぎるエネルギーがあるからそう思えるような気がするね。ずっと前を向いて、先へ進んで行っている街だな、と。 


「瞬間瞬間の記憶、もしくは残像がよみがえる」 


――「らんど」に収録されている曲に、「ブルーサンダー」があります。この曲には何度か「思い出」という言葉が登場しますね。 

向井 「ブルーサンダー」に関しては、ほんとに思い出の歌シリーズだよね。昔から多くある、ワタシのひとつのスタイルと言っていいかもしれません。何でもない思い出かもしれないけど、ふと思い出す。それをノスタルジーと言うこともできますけども、やっぱり俺は思い出に取り憑かれているんだ、と。思い出・イン・マイ・ヘッドがあるんだ、と。「ブルーサンダー」はこれを確認する歌かもしれないね。 

――『ブルーサンダー』って、テレビドラマのシリーズ放送されてたんでしたっけ?

 向井 それはちょっと、記憶がズレてるな。ドラマは『エアーウルフ』だよ。ジャン=マイケル・ヴィンセント主演の『エアーウルフ』です。これはテレビシリーズだけれども、同じヘリコプターでも『ブルーサンダー』は映画です。ロイ・シャイダー主演、1983年日本公開の映画ですよ。あなたが言っているのは『エアーウルフ』――うん、わかるわかる。同じ時期の作品で、同じようなヘリコプターが出てくるから、たしかにこんがらがるよね。ちなみに、『ナイトライダー』ってドラマもあったけど、あれはヘリコプターじゃなくて車です。直接的に歌っているわけじゃないけども、『ブルーサンダー』という映画を観に行った思い出の歌ですね。 

――「思い出」というのは、向井さんが繰り返し歌われてきた言葉ですよね。この「ブルーサンダー」が印象的なのは、「錆びついた思い出」や「消えない記憶は残像」という言葉が出てくるところで。思い出が錆びつくという感覚は、それだけ長い年月の経過を感じさせるものですけど、それでも消えない記憶が残像に残っているというところにも、時間の厚みを感じたんです。 

向井 そうね。たとえばノスタルジーとして過去を思い出して、「あの頃は良かった」と感傷にひたる――これだと非常にわかりやすい話ですね。ワタシの場合、そういうアプローチではないんです。そうじゃなくて、こびりついている。ふと甦ってしまう。それはフラッシュバック現象であって、そういう瞬間瞬間の記憶、もしくは残像というのは皆さんの頭ん中にもあるんじゃないかと思います。それが甦る瞬間のサーッとする感じというのは、ずっと歌にし続けてますね。その瞬間の空気、気温、太陽のひかりの具合、あとは匂いとかですよね。瞬間――バッと甦る。思い出シリーズに関してはそういうことだね。 

 

「ワタシは思い出に取り憑かれている」 


――「思い出」という言葉にしつこくこだわるようで恐縮なんですけど、ナンバーガールのファーストアルバム『SCHOOL GIRL BYE BYE』(1997年)の1曲目に収録されているのが「OMOIDE IN MY HEAD」です。この曲をつくったとき、向井さんはまだ20代前半だったわけですよね。『三栖一明』という本の中でも、ナンバーガールは「青春」だったと語られていましたけど、だとすれば青春が今まさに始まったときに、その時点で「思い出」という言葉が使われていたということに、ある種の感慨をおぼえるんです。 

向井 やっぱり、昨日の自分も思い出ですからね。うん。常に引きずっていくわけだ。過去の自分があるからこそ、今の自分がいるわけですけども、これを常に実感したいわけです。それがリアリティだと思ってますけども。「過去なんてどうだっていい」、「今が大切なんだ」と、そういう言い方をよく耳にしますけども、これまでの自分があるからこそ今があるっていうふうに私は思うんですね。過去があって、今がある。だとすれば、この先には一体何があるんだと考えるわけです。つまり、ワタシは非常に前向きな人間なんですよ。思い出に取り憑かれているっていうのは、過去に取り憑かれているということではなくて、前を向いているからこそ思い出が必要になってくるんですね。じゃあ、思い出って何なのか。「あの頃は良かったな」という過去もあれば、「あんなことしなければよかった」っていう過去もある。過去の自分自身の後悔や反省も全部ひっくるめて思い出だし、それらを全部ひっくるめて今の自分がある。それをもってして、自分自身の存在を確かめてるんではないかなと思いますし、そして先に行きたいっていうことなんじゃないかと思いますね。 

――「ブルーサンダー」に関してもうひとつ伺いたいのは、年号のことなんです。ナンバーガールの頃だと、バンドを結成された1995年や、上京した1998年という年号が歌詞になることもあったとは思うんですけど、それは年号が意味するところがすごく明確だったと思うんです。ZAZEN BOYSの歌詞に年号が含まれる楽曲というと、ライブでは披露されたけど音源化されていない「1989」くらいで、年号が歌詞になるのは珍しいなと思ったんですね。これは別に、「ブルーサンダー」で歌われる年号の意味を伺いたいということではないんですけど、「2月」という言葉によって何かの記憶がフラッシュバックする人もいるでしょうし、年号によって何かを瞬間的に思い出す人もいると思うんです。向井さんにとって、年号というものが持つ響きというか、年号を歌うってことに対する感覚というのを聞かせてもらえたらと思います。 

向井 「ブルーサンダー」に出てくる1983年、1988年、1996年――この3つの年が自分にとって特別だったという思いを込めて歌っているのかと思いきや、やっぱりそうじゃないんですね。ただ、その一言で、ワタシにとっては風景がぶわーっと広がる、と。年号というのは、むちゃくちゃシンプルな一言だなと思ってますね。その年号の中でも1983年は、曲のタイトルに「ブルーサンダー」ってあるから、「ああ、公開された年に『ブルーサンダー』を観に行って、そこで感動した記憶を向井は歌っているんだな」と、おそらくそういうふうに思われるでしょう。でも、そうではないんですね。自分の中では、その一言ですべてがわかるというか、ぐっとくるわけです。その一言というのは、「1978年」でもいいわけだ。ただし「1955年」だと、ワタシはまだ生まれてもないし、そこにリアリティがないから、「ブルーサンダー」の中にその年号は存在しないんですね。その一言でフラッシュバックできる。そういう言葉として、年号を歌ってるんでしょうね。それをバンドサウンドにのせて歌うことによって、それを聴いている人もぶわーっといろんなことを思い浮かべる。この歌に関しては、そういうことができてると思うんですね。その年に何があったのかっていうのはあんまり関係ないんですけども、それを一言で言い表すことができるのは年号の強さだなと思います。

 

 「電動アシストのスピード感で見えてくる街の風景」 


――前作『すとーりーず』をリリースされてからの12年間のあいだに、向井さんは自転車で東京のいろんなところに出かけるようになりましたよね。自転車で遠出するようになったきっかけは銭湯だったんですよね? 

向井 そうだね。電動アシスト付き自転車を導入したのはでかくて、楽だからどこまでも行けるんだ。東京の街はアップダウンが激しいから、現代科学テクノロジーの勝利であるところの電動アシストがないと大変なんです。たまらんわけです。たまらん坂をのぼらなきゃいかんわけです。それが、電動アシストがあることによって、非常にスムースにいろんなところに行けるようになった。じゃあどこに行くかって、ひとつは風呂に入りにいくってことなんですけども。 

――今回のアルバムに収録されている楽曲、たとえば「杉並の少年」を聴いていても、そうやって自転車で走っているときに目にした風景が大きく影響したんだろうなと思ったんです。 

向井 自転車でいろんなとこに繰り出すようになって、街の見え方が変わってきたっていうのはありますね。電動アシストのスピード感にのっかって見えてくる街の風景というのは、これまでとは若干見え方が変わってきた。それで歌になったわけです。「杉並の少年」もそうだし、「公園には誰もいない」とか「YAKIIMO」もそうだし、今回結構入ってますね。もう、見たまんまですよ。ワタシにはそう見えたっていうだけでね。杉並区、自転車でよく練り歩くんですわ。「杉並の少年」はそこで見たまんまを歌ってます。今回のアルバムに収録されている楽曲の中では、最初のほうにできていた曲ですね。 

――4年くらい前からライブで披露されてましたね。 

向井 MIYAがZAZEN BOYSに加入して、ほどなくしてできた曲なんです。そのときにもうレコーディングもしてたんですよ。この「杉並の少年」と「黄泉の国」に関しては、2019年にレコーディングした曲です。 

――ライブで「杉並の少年」を聴いたときに、新しい風が吹いたように感じたんです。これまで向井さんの歌詞に登場する東京の風景というと、「新宿都庁」であったり、「東京湾」であったり、ギラついた都市としての東京というイメージが強かったように思うんですね。でも、「杉並の少年」に出てくる風景は、もっと生活の場としての東京が描かれています。その中でも印象的なのが、「ありきたりの風景」という歌詞なんですね。それはたしかに「ありきたり」と言える風景でもあるのかもしれないですけど、もしも向井さんの目に、ただただありきたりの景色として映っているのだとすれば、その風景が歌詞になることもなかったんじゃないかと思うんですよね。

 向井 自転車で走ってるときは、あんまり幹線道路は走らないんですよ。幹線道路のほうが、日本全国のロードサイド、まさに全部おんなじ風景ですからね。それで住宅街をわざわざ通っていくんだけど、これもおしなべて同じですよ。同じようなサイズ感で、同じような並び方で――ただし、自転車のスピード感でめぐっていくうちに、街のにおいが変わる瞬間があるんだな。同じような風景が続いてはいるんだけども、なんかこう、においが変わったなと。些細な違いかもしれないけど、それを感じ取るようになってきたんです。「ああ、なるほど、練馬区に入ったんだ」とかさ、区によって変わることもあれば、街ごとに変わることもある。そうやって街のにおいを感じとるときに、ワタシは生きている実感を持てるんですね。もしくは、勝手にいろんなことを想像するわけです。 

――想像する? 

向井 たとえば、「ここは結構広い庭があるな、これはきっと、お父さんは製鉄関係の会社に勤めていて、年収はいくらぐらいで」みたいにさ、そうやって勝手にイメージを湧き立ち上がらせるんですね。あるいは「ここは長屋だね」と。「ここは昔ながらの長屋街だけど、40年前はどういう人がいたんだろう、40年前のおばちゃんは今、おばあちゃんになってるな」と。そんなドラマチックなもんでもないし、細かくて具体的なことなんだけども、そういうイメージはぼんぼん湧き立ってくるんですね。そうすることで、自分自身もその街に存在してるっていう実感を持てる。そのスピードが、ちょうど合ったんだろうな。徒歩だとまた見え方が違ってくるだろうし、車でも違うだろうし、自転車のスピードがちょうど合ったんだと思います。 

――今のお話で興味深かったのは、街をぶらついているときに、向井さんがおっしゃるように「ああ、ちょっと街の雰囲気が変わったな」と感じる瞬間ってあると思うんです。ほとんどの人は、ただなんとなくそう感じるというだけなんじゃないかと思うんですけど、向井さんがそこで「生きている実感を持てる」とまでおっしゃったのが印象深くて。その感覚というのを、もう少し言葉で説明していただくとしたら、どんなものになるんでしょう? 

向井 やっぱり、世界とつながりたいって気持ちがワタシの中にあるんだと思います。あるいは、世界から取り残されたくないと言ってもいいかもしれないね。自分にとって、世界ってどこにあるんだろうか、と。テレビの中に自分にとっての世界があるのか、インターネットの中にあるのか、人それぞれあると思うんですけども、世界とつながっておきたいって気持ちになることは誰しもあるでしょうし、そんなに珍しいことじゃないと思うんですね。ただ、ワタシの場合は実際に街を漂ってにおいに触れることで、世界と繋がりたいって気持ちが少なからずあるんじゃないかと思いましたね。東京の中で、なんの変わり映えもないはずの住宅街の、ある瞬間の空気の違いみたいなものを敏感に感じ取れたときに、そこで「世界とつながることができた」と感じられたんじゃないかと思います。自分自身がそこにいるっていうことを確認できて安心するというか、「今の俺がここにいる」と実感したいってことなのかもしれませんね。

 

「夕暮れ時の寂しさには、全世界共通のセツナミーがある」 


――8曲目に収録されている「公園には誰もいない」という曲について、さっき向井さんは「見たまんま」とおっしゃいましたよね。この曲の歌詞は、一読した印象としては、ある公園で向井さんが目にした光景を歌っているようにも思えるんですけど、何度も聴いているとそれだけじゃないように思えてくるところがあって。この曲の中では、ある公園で見かけたのであろう様々な風景が描かれていますよね。「夢見がちな少女たち/ひそひそ笑ってかくし事」、「境内に散る桜/老人たちが笑いあう」、「別れ話に花咲かせ/恋人たちは涙顔」という歌詞があって、そのあいだに「公園には誰もいない」というサビがある、と。つまりこの曲は、ずっと長時間にわたって公園に佇んでいる人物が、誰かがやってきては去っていく風景をじっと見つめている物語のようにも思えるんですけど、曲の最後のあたりで「俺はまぼろし 公園には誰もいない」という言葉が登場するわけですよね。このフレーズに、ぎょっとしたんです。街を漂流し続けたはてに、思念だけになった向井さんがマボロシのように佇んでいるようにも思える、というか。 

向井 なんかちょっと、何百年か前の地縛霊みたいですね。そうね、一言で言うなら「寂しさ」。特に秋の始まりぐらいの季節の、夕暮れ時の寂しさっていうのは、全世界共通のセツナミーを持ってると思うんですけど、これに反応してしまうんですね。特に日曜日の夕暮れ時は反応してしまう。公園で遊んでいたこどもたちが段々減っていって、時報が鳴って、そして誰もいなくなる。東京都の時報って、大体「夕焼け小焼け」なんですけども、区によってアレンジが違うんだな。区の境目の近く、たとえば中野と杉並の境目にいると、時報というのは同じ時間に流れるから、両方とも聴こえてくる場合があるんですよ。アレンジがちょっと違う「夕焼け小焼け」が、ステレオで聴こえてくる。そのとき私はセツナミーを感じますね。切なくなる。ちなみに渋谷区は、ちょっとおしゃれなコード感でアレンジしてる。 

――それぞれ特色が。 

向井 あるね。あと、日曜日の商店街を通り抜けるときにも、セツナミーを感じる。今はもう、活気がある商店街って東京でも少なくなってきてると思うんですけど、「これ、30年ぐらい前だったら栄えてたんだろうな」と思うようなストリートがある。そこを通り抜けると、散髪屋さんがあって――これは根拠があるわけじゃないんだけど、私がこれまで見てきた限りだと、散髪屋さんを1軒見かけると、その小さいストリートにもう1軒散髪屋さんがあるんですね。あるいは、床屋が1軒あったら、パーマ屋さんも絶対1軒ある。場合によっては3軒、4軒あったりして、どれだけ散髪が必要されているのかと思うわけです。ワタシも中学生のときなんか、大体日曜日の夕方に床屋に行ってたんですね。「そろそろ散髪しに行かなきゃいけない」って、なぜかそのタイミングになる。そんなことを思い出しながら、日曜日の夕方に床屋さんの前を通り過ぎてやね、「床屋1軒あったら絶対もう1軒ある理論」を確かめるわけだ。これはつまり、床屋にセツナミーを感じているというお話ですけども、小学生のときは日曜日の夕方に散髪しに行ってた記憶、その残像と、商店街の中にある床屋さんの風景とが絡み合ってるのかもしれませんね。 


「夕暮れに取り憑かれている人間は誰なのか」 

――「公園には誰もいない」を聴いていると、その絡み合い方がどんどん複雑になってきてるように感じるんです。ナンバーガールのファーストアルバムのときからもう、都市の中である風景を目にして、記憶の残像が瞬間的に立ちあらわれてくるときの心象風景とが曲の中で描かれていたとは思うんです。あるいは、向井さん自身が描くイラストを見ても、都市に立って風景を見つめている向井さんの姿が描かれていたと思うんですね。都市の中でマボロシを見ることはあっても、向井さん自身の存在がマボロシになることはなかったんじゃないか、と。ZAZEN BOYSの楽曲でも、たとえば『すとーりーず』に収録されている「はあとぶれいく」って曲だと、「なーんで俺はこんな所でこんなことしてる/いつまでたってもやめられないのね」という歌詞がありますよね。こうやって自分自身を俯瞰で見据えている目が常にあって、だからこそ自己客観を麻痺らす必要がある、と。でも、この「公園には誰もいない」に至ると、もはや自分自身がマボロシになっている。これはちょっと、すごい境地だなと思ったんです。 

向井 この曲は、街を漂流しているときに見る、夕暮れ時の公園の姿から生まれた曲だとは思うんやけども、「俺にはこう見えました、そこに寂しさを感じました」っていうことなんだとしたら、わかりやすいかもしれないね。でも、私はほんとにその風景を見ていたのか、曖昧で不安定な軸がある、と。これは一体、誰がどこを見ているのか、定まっていない。これ、「YAKIIMO」って曲も、おそらくそうかもしれませんね。あの曲というのも、私が焼き芋屋さんとして、軽トラでいろんなところをめぐりめぐって見えた風景を説明しているふうにも思えるかもしれないけど、そうじゃないんだ。じゃあ、私が見た焼き芋屋さんのことを歌っているのか。焼き芋屋さんの非常にスローモーな道行きについていって、それをドキュメントしてるのかと言ったら、そうでもない。そこで夕暮れに取り憑かれている人間って、一体誰なのか。向井なのか、顔が見えないおぼろげな人物なのか――そこがわからない。そういった意味では、どこか定まらない、不安定な世界観だと思います。 

――不安定な世界観。 

向井 たとえば、「私はこういう景色を見ました、夕焼けは紫色でした」と、自分自身が見たものをはっきりくっきりと羅列して、ドキュメントしていく。そういう形もありえるのかもしれんけど、それは俺の歌にはならんですね。はっきりくっきりしていないもののほうが、ワタシにとっては生々しく思える。その風景を確実に見たんだけれども、それは脳内でつくり出した風景かもしれない。でも、それはそれで、俺はリアリティを感じる。嘘がないんだよ。それを歌にしているっていうことですね。

 夢を見るときって、大体は自分自身の目線で見るものだと思うんだけど、ワタシは夢の中でも傍観してるときがあって。しかも、明晰夢という言い方をするものがあるじゃない。これ、よく見るんだよね。そのときは「ヨッシャー!!」と思うわけ。「よし、今日の夢、見たろうかい」と。ストーリーも何も、自分でコントロールできるわけじゃないから、どんなことになるんだって、面白いわけですよ。夢を見ている自分を見てる、みたいなね。これはもう、ホントに面白いんだけど、起きたら寝汗びっしょりかいてるときもある。それに近いね、なんか。 


 「気持ちが晴れないから、ギターを鳴らすわけです」 

 
――9曲目は、「ブッカツ帰りのハイスクールボーイ」というタイトルの曲ですけど、。これは『ZAZEN BOYS Ⅲ』に収録された「Good Taste」にも登場するフレーズでもありますね。一度歌詞として使った言葉ではあるけども、その言葉から先に広がる世界を描いてみようというところから生まれてきた曲だったんですか? 

向井 これもやっぱり、電動アシスト自転車うろつきめぐりシリーズのひとつじゃないですかね。それもやっぱり夕暮れ時間ですよね。夕暮れ時に学生の姿をふと見て、ただその風景を描いているっていうことなんですけども。 

――この歌詞で印象深いのは、「冷めたからあげ」ってフレーズなんです。ちょっと安易な連想ではありますけど、『すとーりーず』には「ポテトサラダ」って曲がありましたよね。「ボウルにいっぱいのポテトサラダが食いてえ」という言葉がリフレインされるという。一見すると今の向井さんが酒場でポテサラを注文するのが好きだって話のようにも受け取れますけど、ここでの「ボウルにいっぱいのポテトサラダ」というのは、ある種の郷愁の象徴としてのポテトサラダだったわけですよね。それと同じように、「ブッカツ帰りのハイスクールボーイ」に出てくる「冷めたからあげ」というのもまた、現在の向井さんが目にしたものというより、どこか郷愁が詰まっているように感じるんです。

向井 あの――そうです。「ブッカツ帰りのハイスクールボーイ」も、今の私が夕暮れ時間に目にした学生たちの姿はあるんだけども、すれ違った瞬間に、頭の中には自分が学生であったときの思い出、残像が巻き起こるわけだ。その瞬間に、やっぱりサーッとした気持ちになったんだろう。だから、どこかのコンビニの前でたむろしている高校生たちがからあげを食べていたとか、そういうことじゃないんだろうね。その冷めたからあげの残像っていうのは、私の思い出の中にあるのかもしれません。 

――冷めたからあげの残像が記憶に焼きついているとして、人によってはそれを絵画で表現する人もいるでしょうし、文章に綴る人もいると思うんですね。もちろん向井さんは音楽を生業とされているから、音楽で表現するのが当たり前だとも言えるんですけど、「音楽を生業としているから音楽で表現する」というんじゃなくて、「音楽で表現することでしか満足いかない」ということなんだろうと思うんです。自分の記憶に焼きついている光景を、バンドサウンドにのせて叫ぶことでしか辿り着けない何かがあるっていうことなんですよね、きっと。 

向井 それはもう、その通りとしか言いようがないんやけどね。たとえばさ、「夕暮れ時間に、バレーボール部か柔道部か、学生たちがたむろっている、その姿を見て『若いっていいなー』と思いました」みたいなことをXに書いてもさ、あるいはインスタグラムのストーリーズに投稿したところで、なんの気持ちも晴れないわけです。気持ちが晴れる、晴れないってなんだろうとも思いますけど、じゃあ街の中で男子高校生たちがはしゃぐ姿を見て、私はどう感じたのかということなんだよね。何か感じたわけだ。ハートが動かされたわけだ。「若いっていいなー、それに比べて俺は年取ったな」という気持ちの動き方なのか、「俺にもああいうときがあったなー」という気持ちの動き方なのか、その姿に純粋さを見出して愛おしいと思ったのか。こうやってひとつひとつ探っていくと、いろんなことがあるんやけど、どれひとつ取っても――うん、そういうこっちゃないわけです。何かを感じたわけです、何かを。それを言い表すことができないから、気持ちが晴れないわけですよ。じゃあどうするかっていったら、ギターを鳴らすわけです。歌にするんですね。その歌の中で説明していくこともできるんだろうけども、やっぱりそうではないんです。そういうことではないんだ。「どしゃぶり」「からあげ」っていうのが並んで、ファズギターが重なってくると、そのとき感じた気持ちが少なからずあらわせるような気がする。それでちょっとだけ気持ちが晴れるわけです。音楽っつうのは、「ワタシはこう思いました、なぜならこうだからです」って、そういうことではないんだよね。もしも文章で表現することができれば、そういう手段で自分の気持ちを晴らすだろうけどね。一枚の写真でもいいし、一枚の絵でもいんでしょう。そのどれよりも、ギターのコードを鳴らして「からあげ」「どしゃぶり」と歌うことが、ワタシには必要なんです。必要だし、自分にとって正しいやりかたなんですね。気持ちがすっきりするんだ。ロックンロールというのはそういうものだと思ってますね。
 
 

第3回に続く
2023.2.4 福岡にて収録


ZAZEN BOYS 日本武道館公演決定!!


武道館ではメンバーの誰もがコードを全く憶えていない名曲などを含め豊富なセットリストを組み、二部構成をもってして3時間超の公演を行う。(向井秀徳)


ZAZEN BOYS MATSURI SESSION
2024年10月27日(日)日本武道館
出演 ZAZEN BOYS
開場16:00 開演17:00
前売 ¥8,800

プレイガイド1次先行
イープラス:https://eplus.jp/zazenboys/
ぴあ:https://w.pia.jp/t/zazenboys-t/
ローチケ:https://l-tike.com/zazenboys/
TICKET FROG:https://ticket-frog.com/e/zazenboys241027…

受付期間:6月17日(月)20:00〜2024年7月7日(日)23:59

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