読書メモ 亀和田武『60年代ポップ少年』

 この読書メモは10回くらいの更新を一つの区切りと考えていた。劇の感想を一度挟んでいるけれど、それを除くとこれが10回目の更新になる。あの時代の空気に触れるために、最後を締めくくるにふさわしい本は一体何だろう?――そう考えたときに真っ先に浮かんできたのが亀和田さんの『60年代ポップ少年』だ。

 昭和二十四(一九四九)年早生まれの亀和田さんは、一九六〇年を十一歳で迎え、一九六八年を十九歳で迎えている。そんな亀和田さんによる随筆は、おそろしく正確だ。たとえば、三十代半ばでクラス会が開催されたとき、ある同級生が「ねえ、カメちゃん、あの頃はビートルズをよく聴いたよな」「な、オレたち、やっぱりビートルズ世代なんだよね」と口にする。ビートルズが日本でレコードを発売したのは一九六三年で、当時亀和田さんたちは中学二年生だった。たしかにこの世代は「ビートルズ世代」とくくられがちではある。そのクラス会で、亀和田さんは黙って笑みを浮かべながら、「お前、嘘をいっちゃいけないよ。オマエが休み時間に毎日、楽しそうに歌っていたのは、三田明の『美しい十代』と、舟木一夫の『高校三年生』じゃないか」という言葉を頭に浮かべる。

 時間が経つと、人の記憶は書き換えられてゆく。かつてあったはずのリアリティは忘れ去られてゆく。そんな中でも、これだけの正確さを持った亀和田さんが書き記す六〇年代の記録を、もう一度読んでおくことにする。

 ここで亀和田さんが「な、オレたち、やっぱりビートルズ世代なんだよね」と口にした同級生に強く反応したのは、記憶の正確さもさることながら、もう一つ別の理由がある。それは、亀和田さんがビートルズを憎んでいたからだ。

 一九六〇年代はふつう“高度成長の時代”と呼ばれる。若者たちによる“叛乱の季節”だったという識者もいる。そして六〇年代を代表するキーパースンといえば、吉本隆明と寺山修司の名前がまっ先にあがる。
 そうじゃないんだ。もっと大事な人がいるんだ。私はいつもそんな違和感を覚えていた。
 一九六〇年代の前半、私にもっとも決定的な影響を与えた人物の一人は漣健児だ。ビートルズが日本に紹介される一九六四年の一月まで、まだ幼年期だった日本におけるポップ・カルチャーの最重要人物が漣健児だった。もっとも当時も現在もそんなことを公言する人間は、私だけだが。六〇年代の後半から七〇年代にかけては、もう誰もが彼の名前を忘れていた。

 ある時期までの日本では、英米の洋楽ポップスに訳詞を添えて歌う「日本語バージョン」が隆盛していた。そこで洋楽ポップスの訳詞家として活躍したのが漣健児だ。あるときからその訳詞家の存在が気になり始めた亀和田少年は、『ミュージック・ライフ』を読み始める。ビートルズ登場以降は紙面が刷新され洋楽専門誌となった同誌だが、一九六三年いっぱいまでは「漣健児の訳詞を歌う日本人ポップス歌手の近況が七割、そしてビルボードやキャッシュ・ボックス誌のチャートの紹介と欧米の新人歌手に関する情報が三割という、当時の私には願ってもない紙面構成だった」。

 プレスリーからはデビュー当時の迫力は、とうに失せていた。バティ・ホリーたち第一級のロックンローラーは悲劇的な死をとげた。そしてビートルズは、まだメジャー・シーンに登場していなかった。甘くてメロウで感傷的なメロディの曲がチャートの上位を独占していた六〇年代前半は、その後、ポップスの歴史において、もっとも低レベルの時代と見なされた。
 そんな時代、本家のアメリカよりも、中身スカスカの恋の歌をせっせと量産したのが漣健児だった。(…)

 亀和田さんは、漣健児によって翻訳された、甘い、中身スカスカのポップスが好きだった。だが、ビートルズが世界を席巻すると、まずは洋楽において甘いポップスが消えてゆく。さらには「日本語バージョン」というものも消えてしまう。そうした事情があるからこそ、亀和田さんはビートルズを憎んでいるのだ。

 『60年代ポップ少年』では、亀和田さんが当時触れたさまざまなカルチュアが具体的に語られる。昼休みにボクシングの真似事が流行ったとき、ファイティング原田のテレビ初戦を観て以来ボクシングに夢中になり、専門誌を購読しシャドウ・ボクシングにひとり熱中していた亀和田少年は、同級生には「運動神経は鈍いし、痩せっぽちで腕力もないカメワダ」と思われていたのに、「喧嘩の強そうな中川をKO寸前まで攻めたて」たときのこと。馬込銀座に一軒だけある本屋で『SFマガジン』と出会い、その世界にのめり込んでいき、それによって救われたこと。『平凡パンチ』が創刊されると、それに飛びついた同級生がアイビー少年になってゆくこと。同級生が貸してくれた貸本漫画で劇画の世界に触れたこと。

 あのころ私や、小柳くんたち四人の仲間は、どこでマンガや映画やSFのことを話していたんだろう。
 新宿風月堂の広々とした吹き抜けの空間が記憶からよみがえってきた。小柳くんはタバコを吸わなかった。私は新宿、渋谷、中央線沿線のジャズ喫茶に、毎日どこかしら通ったものだが、狭くて暗いジャズ喫茶はタバコの煙でチカチカするほどだったし、大音量でゆっくりお喋りすることもできなかった。風月堂はその点、申し分なかった。一年後には「フーテン」と呼ばれることになる若者たちや外国人バックパッカー。ひと世代上の売れない前衛芸術家や、これからまさに世に出ようというアングラ・アーティストで、ときに騒がしいこともあった。しかしゆったりしたスペースと静かなクラシックは、無駄話を延々と喋るには格好の場所だった。

 高校生になると、亀和田さんが新宿に出る頻度も増してゆく。その一つのきっかけは映画だ。「映画を観るならフランス映画だった、あの頃。」と題した回で、亀和田さんは「高校三年生だった一九六六年の春、ようやく校内で趣味を同じくする友達をみつけた私は、彼らに連れられて都内の映画館にも繰りだすようになった」。

 高度成長のさなかとはいえ、まだまだ日本は貧しかった。なにしろ娯楽の種類が乏しいから、私みたいな映画好きでない学生も、年に何本かは、話題の作品を観に行ったりしたのだ。
 (…)知り合ってまだ1か月の友人Hと私は、新宿の紀伊國屋ホールの映画上映会に足を運んだ。上映作品は二本ともフランス映画だった。
 フランソワ・トリュフォーの『突然炎のごとく』と、アニエス・ヴァルダの『5時から7時までのクレオ』の二本だ。

 その二本のうち、トリュフォーの映画に感銘を受けた亀和田少年に、友人は「そうか、カメワダはああいう映画が好きなのか。だったら、今度また似たような映画を探しておくよ、とHがいってくれた」。そうして連れて行ってくれたのはシネマ新宿という映画館だった。この映画館を知ったことで亀和田さんの「映画との接しかたが一変した」。

 明治通りをはさんで、伊勢丹のちょうど向かい側にシネマ新宿はあった。それまで、私の新宿におけるテリトリーは、ごくごく限られていた。
 当時は新宿ステーションビルと呼ばれていた駅ビルから東口駅前に出て、新宿通りを紀伊國屋書店まで、なんの緊張感も抱かずにくつろげるのはこのエリアと、三越デパート裏手の風月堂、らんんぶる、ウィーンなど名曲喫茶が並ぶ中央通り、さらには駅前の二幸(現アルタ)から都電通り(靖国通り)の間に散在するジャズ喫茶群と路地までだった。
 都電通りを渡るときは緊張した。歌舞伎町はアウェイの地だった。ホームである東口の一帯ならば、補導の警察官の動きも察知できたし、柄の悪いチンピラやフーテンに因縁をつけられずに街を歩くことが、無意識のうちにできた。歌舞伎町のジャズ喫茶に行きたくなったときは、都電通りの手前で大きく深呼吸して、信号が緑になった瞬間、さっと通りを渡り切る。歌舞伎町に入ったら、すぐ路地に潜りこんで、最短距離のコースをとって目的地に到着した。
 ケンカも弱い劣等生にとっては、差し当たって警官とチンピラ。さらにはヤクザが最大の敵である。彼らをいかにして回避するか。それを学習する過程で、自分だけの“街の地図”が少しずつ出来あがっていく。新宿三丁目の界隈もホームに準ずるエリアとなった。十七歳の地図はこうして徐々に拡大していった。

 その「自分だけの“街の地図”」においてポイントとなるのはやはりジャズ喫茶だ。

 ジャズ喫茶とSFが存在しなかったら、高校生の私はどうなっていただろう。この歳になって、ときおり考える。なにしろ高校一年生のとき、国をあげての一大イベント、東京オリンピックの熱狂を共有することもできず、ただただシラケきっていた私のことだ。引きこもりという言葉は、まだ当時なかった。しかしあのままだったら、やがて不登校、睡眠薬、家庭内暴力といった負の連鎖によって、私の心も生活もボロボロになっただろうことに、最近やっと気づいた。

 そんな亀和田さんが最初にジャズに触れたのは高校二年生の春で、当時は「モダン・ジャズ」、略して「ダンモ」と誰もが口にした。その「ダンモ」を聞くならジャズ喫茶に足を運ぶほかなかった。当時LPレコードはまだ高価で、コーヒー一杯が八〇円の時代に、レコードは一八〇〇円。現在の価格に換算すればほぼ一万円で、とても学生が買えるものではなかった。

 ジャズ喫茶で耳にした「ジョン・コルトレーンが吹くテナーサックスの、ヘヴィーで内省的な響きには、うんざりするような日常から、私をどこか遠いところへ拉致してしまうような強い引力があった」と亀和田さんは記す。この「うんざりするような日常」から「どこか遠いところへ拉致してしまうような強い引力」という言葉が印象的だ。「引きこもり」や「不登校」といった言葉はまだ登場しておらず、「ドロップアウト」するという選択肢が存在しなかった時代、若者には目の前の日常から抜け出す方法はかなり限られていたはずだ。そこで触れた「どこか遠いとこへ拉致してしまうような強い引力」がどれだけ魅力的だったか。また、若者を拉致するそうした「強い引力」が急激に生まれていったのが六〇年代後半であり、それを誰より鮮やかに言葉でとらえたのが寺山修司だったのだろう。

 この『60年代ポップ少年』では、こうして亀和田さんが触れたカルチュアがいくつも書き記されている。そうした話が詳細に書き綴られているのは、この時代の気分をあらわすためだ。

 六〇年代の半ばが、どんな時代だったか。以前にも書いたが、当時の日本は“奇妙なほど平和”だった。六〇年安保の熱狂は、とうの昔に忘れられていた。東京オリンピックと東海道新幹線。ビンボーを脱出して“先進国”に近づきつつある豊かな消費生活と、じつはアメリカの“核の傘”に守られた平和を、大半の日本人がなんの疑いも抱かずに享受していた。

 あるいは、こうした記述もある。

 ベトナム戦争は泥沼化の様相を呈していた。
 世界最強といわれたアメリカ軍が、装備においては格段に劣るベトコン(南ベトナム解放民族戦線)の攻勢にじりじり後退していた。山岳地帯に襲来した米軍ヘリを、先祖伝来の弓矢を操縦士に放って撃墜したというニュースも目にした。アメリカの負け戦は、誰の目にも明らかだった。なのに一九六六年の秋、私の興味と関心がベトナムの惨状に向かうことはなかった。
 留年とか放校だけはともかく避けて、高校をとっとと卒業すること。それが私の最大の目標であり関心事だった。(…)

 亀和田さんは大学受験に失敗し、「浪人生活が、晴れてスタートした」。新宿が遊び場だった亀和田さんは、代々木にあった代々木学院という予備校に通い始める。浪人生活は気楽に過ぎてゆき、「相変わらず新宿のジャズ喫茶に通って、シネマ新宿とATGで映画を観る」日々が続く。

 新宿の時代が、来ていたんだな。東口の駅前広場、通称グリーンハウスに“フーテン”が大量発生したのも、この年の夏だったか。芝生が敷かれた駅前広場は何かと使い勝手が良くて、高校時代から待ち合わせや、ジャズ喫茶のタバコ臭い空気から逃れてちょっとひと休みというときに、よく利用した。
 しかし、“新宿フーテン族、発生!”と報じられるころには、ひと休みどころじゃない。芝生の上に座るスペースさえ、ないんだ。(…)
 アメリカ西海岸でも、この夏はヒッピーが大量発生していた。八月に新しいヒッピーのグループが静かなデモをした。その中に「ビートルズのジョージ・ハリスンさんの姿もあった」と報じるニュースを見た。ヒッピーズと新聞記事にはあった。東部のアイビーリーグの学生たちは、つかの間のアバンチュールを求めて、サンフランシスコを目指した。セックスとドラッグとロックを夏休みの間に二か月楽しんで、彼らはまた家に帰った。
 そんなインチキ学生は「サマータイム・ヒッピー」と嘲笑された。期間限定の偽ヒッピーたち。それよりずっとスケールは小さいけれど、日本の週末フーテンも、新宿の夜をエンジョイしていたようだ。
 空騒ぎの夏が過ぎて、秋になった。九月の中旬、昼近くに起きてラジオをつけたら、法政大学で学長を監禁していたとして、二百七十五人の学生が逮捕され、戦後最大規模の大量逮捕になったと、ニュースは伝えていた。
 フーテンも、警察やヤクザ、自警団によって駅前から追われていた。ひりひり緊張してくる気配が、嫌でも感じられる。そして十月八日の日曜日、首相の南ベトナム訪問を阻止しようとした学生が羽田での闘いで死んだ。

 この十月八日を境に、世界は一変する。それまではさまざまなカルチュアを享受するノンポリな青年だった亀和田さんも、この出来事を境に「叛乱の季節」に身を投じてゆく。

 十月八日。当時の首相、佐藤栄作は南ベトナムなど東南アジア諸国を歴訪するため、羽田空港から朝十時すぎに出発の予定だった。“佐藤訪ベト”を阻止しようとする学生と青年労働者、二千五百名あまりが空港周辺で実力行動に打ってでたという。私は無論そんなことなんか、この日まで知らなかった。
 学生が死んだ。六〇年安保の樺美智子さん以来の犠牲者だ。この平和なニッポンで、政治的衝突から死者がでるなんて。心臓が、どっくんどっくんと脈打つ。
 ヘルメットをかぶった学生は、細い角材で盾を持った機動隊員にぶつかっていく。機動隊が逃げまどうシーンもあった。学生は石を投げる。警察は催涙ガスを発射する。劣勢にたったデモ隊の頭に容赦なく警棒が振り降ろされる。血まみれになった学生はさらに腹を蹴られて、次つぎ手錠をかけられていく。
 初めて目にするニュース映像だった。この夏、アメリカではデトロイトなどで黒人暴動が多発した。日本でも六月には大阪の西成で、そして八月の山谷では三日つづく夜の暴動が起きていた。そして何より、ベトナムではアメリカ軍の北爆と、解放戦線との戦闘で、おびただしい死者が生まれていた。しかし私には、所詮は対岸の出来事だったのだ。
 (…)
 一人の学生の死と、流血の市街戦。その映像を通して、鈍感なノンポリの浪人だった私にも、この国の〈平和〉の実態がうっすら感じられてきた。この日、私は深夜までテレビ各局のニュース番組を観つづけた。

 亡くなった学生に対して、メディアは批判的だった。そこでは「六〇年安保は市民の支持を得たけれど、羽田のデモは市民の共感を得られない、孤立した暴挙であった」という論調が支配的だった。亀和田さんはそこに大きな違和感を抱く。それは決して政治的な反発ではなく、「良識ある市民やマスコミから、口を極めて非難され、孤立している彼ら“暴力学生”を、あそこまで突出した行動に駆り立てたものは何かということだ」。

 同じような気持ちを抱いた若者は相当な数にのぼり、「十月八日で、すべてが変わった」。「やることが見つからず、新宿のジャズ喫茶や風月堂でくすぶっていた連中が街頭に躍りでた」。亀和田さんが最初にデモに出かけたのは、翌年三月のこと。そこに集まってくる若者たちは、セクトごとに異なる色のヘルメットを被っていた。何色ものヘルメットが鮮やかに公園を埋め尽くしていく様子に、亀和田さんは「これこそポップ・アートだ」と興奮する。「ミーハーな私の本性がうず」き、「色違いのヘルメットって、絵になるなあ」と感じる。もちろんもっとガチガチに真面目な考えからデモに参加していた若者もいるだろうけれど、こうした感性を刺激したことも、あの時代に運動があれだけ燃え上がった要因だろう。

 デモに参加するうちに、仲間も増えていく。「昼メシも一緒に食べ、授業が終われば、気の合った何人かと代々木の喫茶店や渋谷『らんぶる』でお喋りに興じる。女の子も三、四人いる。やはり女の子がいるといないとでは、その場の雰囲気もがらり変わる」。そんなふうにデモに通い続ける中で、ひときわ大きな盛り上がりを見せたのが、一九六八年六月二十六日に開催された「米タン阻止」、「米軍の燃料輸送タンク車を阻止する闘争である」。

 このデモの背景には、一九六七年の八月、新宿駅構内で起きた事故が引き金となっている。その日の深夜、横田や立川など東京郊外の基地に運ばれていた米軍のジェット燃料輸送タンク車が貨物列車と衝突し爆発、炎上する事件が起きていた。この事件が「マスコミや一般市民に与えた衝撃波大きかった」。深夜の鉄道路線をひそかに、しかも都心を経由して、米軍基地へと燃料を輸送する。「日本はいつのまにか、ベトナム戦場とつながっていた」。

 カーニバルのような日々。そんなとき、米タン阻止闘争がおこなわれた。セクトはほとんど参加せず、大学全共闘のノンセクト学生とベ平連の集会だった。(…)
 新宿駅に到着した。機動隊はまだ来ていない。駅構内をしばらくデモしてから、中央線のホームに座りこむ。アジ演説を聞いてから、再び隊列を組んでホームの端まで練り歩く。このとき、予想外のことが起きた。先頭でデモ指揮をしていた学生が「行くぞ!」といって、線路に飛び降りたのだ。
 私たちもそれにつづいた。線路はたちまち何百人もの学生で埋め尽くされていく。「米タン、阻止!」と連呼しながら、線路と敷石の上を行進する。スニーカーに当たる敷石の感触が、なんとも新鮮だ。
 プラットフォームから見降ろしていただけの線路だったが、こうして自由にその上を示威行進して動く場所でもあったのだ。目からウロコとは、このことだ。
 機動隊がやってきて、私たちは小競り合いの末、駅構内から排除された。東口の駅前広場で集会するうちに、通勤通学帰りのサラリーマンや学生、さらにはヒマを持てあましているフーテンたちもぞくぞく集まって、機動隊も遠巻きにするだけで手を出せない。
 そうか、新宿か。アメリカ大使館や国会、さらには霞が関の官庁街をデモ行進するのは、もう時代遅れなのかもしれない。いま、この国で一番エネルギッシュな街で、カーニバル的な騒乱をおこす。これに勝るデモンストレーションは、ないんじゃないだろうか。そんな強い確信が生まれてきた。

 「騒乱の予感」の中で、機動隊に追われながらも、「気分は浮き浮きしてくる」。そうして騒乱はさらに盛り上がりを見せてゆく。

 そんな若者に批判的な大人たち――保守派のタカ派老人たち――が、過激派学生を避難するとき、好んで口にしていた言葉がある。それは、「アメリカ帝国主義の象徴であるコカコーラを、反米を唱え、革命を目ざす学生たちが飲むというのは、欺瞞的かつ矛盾に満ちた行為ではないのか」というものだ。あるいは、過激派の学生に対して批判的だった日本共産党およびその下部組織である民青(『昭和の子供だ君たちも』で触れたように、「六全協」を境に日本共産党は平和革命路線を採用する。そうした路線の「既成左翼」に対して、もっと直接行動による革命を目指す人たちは「新左翼」と呼ばれることになるのだが、この既成左翼と新左翼は対立する立場だった)もまた、「反日共系の若者がジーンズ姿でコーラを愛飲することを、プチブル的な風俗と価値観への屈服であり堕落だと、マジに罵倒していた」。

 そんなトンチンカンな因縁をつけられると、生来ヘソ曲がりな性分だから、ますますペプシとコークを問わず、コーラが飲みたくなった私だ。と、ここまで書いて気がついたのだが、六七年の10・8羽田闘争の以前から、わたいはジャズ喫茶でコーヒーよりもコーラを飲む機会が多くなっていた気がする。
 新宿歌舞伎町で、もっとも武闘派フーテンの多かった「ジャズ・ヴィレッジ」の壁やカウンターにはからのコーク瓶がずらりと何十本も並び、暴力的ポップアートのギャラリーの趣があった。
(…)
 そう、私はニューヨークやロスやベルリンでも、肌の色や、学生と労働者を問わず、権威に対して反抗的な若者は、コーヒーではなくコーラを飲んでいるという予感があった。
 パリでは、どうだったのか。セーヌ左岸のサン・ジェルマン・デ・プレ地区にある「ドゥ マゴ」など有名カフェにインテリが集まったといわれるパリだからこそ、既成の権威を嫌った学生と労働者はカフェ文化的左翼に「ノン!」を突きつけ、多くの毛沢東主義シンパを生んだのではないだろうか。あれから何十年かたって、初めて頭に浮かんだ思いつきですけどね。

 カーニバル的な騒乱がさらに燃え上がるのは、一九六八年十月八日のこと。この日のことを振り返って、亀和田さんはこう書き始める。

 敷石を割って砕いた塊を手にして、さてどうしたものかと、前方の暗闇に目をやる。通りをはさんだ向かいの路地裏には、道路いっぱいに拡げた防石ネットの裏手に機動隊員がびっしり密集している気配があった。
 機動隊員の濃紺のヘルメットと制服は、闇に溶け合って輪郭がつかめない。報道のカメラがフラッシュを焚いたり、ネオンが気まぐれに点滅したとき、紺色のヘルメットに反射して、一瞬だけ彼らの存在を伝える。

 この日は羽田闘争で京大生が亡くなってちょうど一年が経った日で、都内各所で追悼デモが開催されていた。ノンセクトを中心としたデモ隊三五〇〇人あまりは、夜七時半過ぎに新宿駅東口駅前に到着すると、そのまま駅構内になだれこみ、中央線ホームから線路上に降りてジグザグデモを続け、鉄道はストップした。機動隊が動員されると、デモ隊は東口の駅前広場に移動する。「しかしここからが素早かった。あちこちで歩道の敷石を要領よく掘りおこす名人がいる。一枚剥がれれば、あとは何枚でも。それを砕いた石のかけらを、駅前広場を取り囲む機動隊に向かって投げる。

 ヘルメットをかぶった私たちデモ隊だけでなく、年齢や身なり、髪型とさまざまな野次馬も石を手にして、積極的に衝突に参加してきた。じりっ、じりっと警察の防石ネットが交代していく。この夜、私は初めて石の塊を持った。柳通りの中ほど、丸井の裏手に通じる路地に退却した機動隊の防石ネットに五、六メートルの距離まで早足で近寄り、大きな石の塊を思いっきり投げる。

 この日の舞台は東口だったが、この時代を象徴するのは西口だろう。「新宿フォークゲリラについて語る前に、やはり新宿西口地下広場それ自体のもつ洗練された美しさと新しさについて記しておきたい」と亀和田さんは書く。

 坂倉準三が設計した新宿西口広場を初めて目にしたときの衝撃は、いまも鮮明に覚えている。終電には余裕はあるが、かなり遅い時間だった。
 地上から階段を降りて、地下広場に立ったときの視覚的インパクトは強烈だった。広場中央の巨大な吹き抜け穴からは、夜空が見えた。その吹き抜け穴を囲む、ゆったりしたスロープを描く幅員のある道路を走行して、次つぎとクルマが地下広場に降りてくる。「すごいね、これは」。連れの男が、思わず讃嘆の声を上げた。私もつられて「まるで手塚治虫のマンガみたい。『0マン』とかさ」と感想を口にした。近未来を描く手塚マンガか、アメリカのSF雑誌の表紙やイラストでしか目にしたことのない世界が、いま突然、目の前に出現したおどろきに、私たちはしばし呆然と立ち尽くし、見惚れていた。

 この広場が完成したのは一九六六年十一月。ここにフォークゲリラが登場したのは一九六九年の二月末のことである。

 私は、じつは初日から西口フォークゲリラに参加していると思っていた。ベ平連の定例デモは、毎月第一土曜日の午後に行われる。三月八日の定例デモが終わった直後に、デモの解散地点の日比谷公園か土橋で、十人弱のメンバーがギターを抱え「これから新宿へ行こう」とデモ参加者に声を掛けた。
 反戦フォークを、西口広場で歌うという。面白そうじゃないか。仲間の予備校生たち十人ほどで新宿に向かった。大木さんたち、ギターを弾いて歌うメンバーの前に、私たちのようにデモから合流した連中が何十人か陣どる。その外側をポツンポツンと通行人や野次馬が百人とか二百人、取り巻いている。
 しばらく眺めていて帰っちゃう人もいれば、(おや、何だろう?)と立ち止まって、そのうちフォークゲリラと一緒に歌いだす人もいる。(…)地下の広場には反戦フォークを歌う若者だけでなく、様々な人が集まってきた。中年のオジさんが、新左翼の学生に「やれるのは、いまのうちだけ。所帯を持ってみな……」って説得したりね。
 誰もが話すことに飢えているんだ。(…)

 この「誰もが話すことに飢えているんだ」という一文がとても印象的だ。

 それからほどなくして大学に合格した亀和田さんは、自治会室のバリケード封鎖し、数十人で立てこもる。だが、次第に人数が減ってゆき、最終的には機動隊が動員されて排除される。その後も全共闘の活動はセクト同士の対立による内ゲバの様相を呈しながら続いてゆく。亀和田さんは「アイツら一緒に過ごした六九年のバリケードと全共闘を、俺は否定したくない」という気持ちはあったものの、「マルクス・レーニン主義も、前衛党建設も信じたことはな」く、「自分にとって何のリアリティもない党派対立で、知らない連中に鉄パイプを振るったり、恨みもない旧知の学生を殴ったりするのは嫌だった」。そして「楽しくなくなったんだよ、党派の活動やってるのが」とそうして亀和田さんは運動から距離を置く。誰もがそんなふうに、それぞれのきっかけで、「楽しくなくなった」と感じ、運動から距離を置いてゆく。そうなればなるほど、そこに残ろうとする人たちが先鋭化してゆき、連合赤軍事件に繋がってゆくのだろう。

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