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第7回「お食事処 信」

 街を取材するとき、まずは界隈を散策する。そこがどんな街か、何が起きているのか、ぶらつきながら観察する。昼間はとにかく歩き、話を聞かせてもらう。日が暮れると酒場に入り、グラスを傾けながらぼんやり過ごす。そこには僕が生まれてもいない時代を知っている誰かがいて、かつてその街で起きた出来事や、そこにあった風景を教えてくれる。そんな行きつけの店が、何軒かある。そのひとつが、公設市場のそばにあった「お食事処 信」だった。

 店主の粟國信光さん(79歳)は南大東島に生まれ、小学校に上がる頃に父方の祖父が暮らす那覇に移り住んだ。祖父の家があったのは、現在で言うところの新都心。「じいちゃんは百姓だから、牛、馬、豚、そしてアヒルを養っていた」と粟國さんは振り返る。

 「僕はいつも畑に手伝いに行きよったから、おじいちゃんに可愛がられよったわけ。行きは馬車に乗って、帰りは馬車の後ろを歩きながら、タバコを拾うわけよ。アメリカーさんが捨てたタバコ。それを拾っておじいちゃんにあげたら——“刻み”ってわかる? 拾ったタバコを刻んで、パイプで吸いよったよ」

 新都心は、終戦後ほどなくして「牧港住宅地区」に指定されたエリアだ。米軍による土地の強制収用がおこなわれ、住宅やゴルフ場、プールにスケート場、PXに小学校が建設された。土地の接収により、信光さんが通っていた小学校も安謝に移転することになった。

「学校が立ち退きになるときは、近所の人たちは石を投げてアメリカーさんと喧嘩していたよ」。粟國さんは当時を振り返る。「そうやって石を投げながら、アメリカーさんのおうちに遊びに行くわけね。だから——なんて言うのかなあ。うちの親戚でも、“ハウスボーイ”といって、アメリカーさんのおうちで靴を磨いたり洗濯をしたりして、お金をもらったりしていたわけ。基地が近くにあるところだと、そういう生活を送っていたんだよね」

「お食事処 信」があった路地。正面に見える囲いが工事中の公設市場。

 那覇に暮らしていても、米軍は身近な存在だった。桜坂の社交街には生バンドの演奏があるクラブがあり、米兵で賑わっていたという。粟國さんの兄も、サクソフォンを買って、そうしたクラブで演奏していた。界隈には映画館が数軒あり、粟國さんは中高生の頃からよく足を運んだ。親からもらったバス賃でそばやパンを食べてしまって、家まで歩いて帰ることも少なくなかった。

 高校卒業後、粟國さんは民間企業に就職する。働き始めて数年が経ったころ、親戚から「消防に入って市民のために働いてはどうか」と提案された。当時は民間企業のほうが給料が高く、消防士になると給料は7ドル下がる。ただ、それでも親戚に言われた「市民のために」という言葉が心に残り、消防士になる決断をする。

 粟國さんはかつて、沖縄高校(現在の沖縄尚学)野球部の主将を務めていた。四番キャッチャーとして、のちにプロ野球選手として活躍する安仁屋宗八投手とバッテリーを組んだ。3年生を迎えた1962年には、沖縄県勢として初めて南九州大会を勝ち上がり、甲子園に出場。広陵高校に初戦で敗れたものの、沖縄に戻ってきた選手たちは市民から熱烈な歓迎を受け、オープンカーでパレードした。

  「甲子園でも県人会の皆さんに応援してもらって、帰ってきてからもパレードさせてもらって。やっぱり、あのときの記憶があるから、『市民のために』という意識があるわけ」と粟國さん。「そういう性格だから、後輩にもずっと『市民のために頑張りなさい』と言っていたよ。消防というのは大変な仕事ではあるんだけど、市民のためならこれぐらい我慢できるんじゃないか、と。僕はこの意識が強かったね」

現在の平和通りの様子

 消防士となった粟國さんは、何度となく火災の現場に立ち会ってきた。その中には、まちぐゎーで発生した火災もあった。1979年7月3日、平和通りで発生した火災だ。午前3時ごろに火災が発生し、通報を受けて那覇市消防本部や隣接市町村からも消防車が駆けつけたが、10数軒が全半焼する結果となった。

  「あの日は非番で寝ていたんだけど、同僚から『平和通りが燃えているよ』と連絡があって、オートバイで急いで現場に向かったわけ。僕も一緒にホースを出して、消火活動をしたんだけど、昔は木造の建物が多かったから、火の回りが早かったんだよ」

 細い路地が張り巡らされ、昔ながらの建物が密集している風景というのは、まちぐゎーの魅力のひとつだ。ただ、そんな場所だからこそ、いちど火災が起きると消火活動は難航する。だからこそ「初期消火が大事」だと、粟國さんは語る。

  「火災というのはね、初期消火が大事なんですよ。もし消しきらなかったとしても、早めに発見して初期消火をすれば、そのぶん延焼を遅らせられるわけ。だから初期消火が大事ですよと、僕らはよく言うんです」

 消防士として働いていたころから、粟國さんは「いつか自分で酒場をやってみたい」という夢を抱いていた。定年まで消防署に勤め上げた粟國さんが念願のお店をオープンさせたのは、69歳のときだった。

「お食事処 信」

「ほんとは退職してすぐやるつもりだったんだけど、場所を決めきれなくて。それに、女房がテーブル叩いて反対したもんだから、『じゃあしばらく待っておくか』ということで、息子が立ち上げた会社を手伝っていたのよ。そうして数年経ったときに、あの物件が空いたもんだから、70手前にして店を始めたわけ」

 こうして2012年、「信」はオープンした。第一牧志公設市場を北側に出て、30歩ほど進むと、木製の小さな看板が見えてくる。店内には3人掛けのカウンターと、4人掛けのテーブル席がふたつだけ。オープン直後に入店すると、粟國さんは店内のテーブル席に腰掛け、壁に背をもたれながらニュース番組を眺めていることが多かった。お店が忙しくなると、「山城こんぶ店」を切り盛りする妻・和子さんが厨房に加わり、夫婦でお店を営んでいた。18時を過ぎると、粟國さんもお酒を飲みながら、お客さんと談笑する。それがいつもの光景だった。

「僕の場合は、儲けようと思って始めたわけじゃなくて、人との出会いが好きで始めたところがあるから、商売抜きに対等に話すわけよ」。そう言い切る粟國さんの率直な物言いに惹かれてリピーターになる旅行客もたくさんいた。ただ、コロナ禍が始まると、臨時休業を余儀なくされた。緊急事態宣言が解かれても、シャッターが降りたままの日が続くようになった。

 この2年半、「信」と同じように、シャッターを閉じたお店を見かける機会が増えた。何度も足を運んだことのあるお店でも、店頭で顔を合わせるばかりで、店主の住所も知らなければ連絡先も知らないというケースは珍しくない。シャッターが降りていると、今日はたまたま臨時休業なのか、それとも最近はずっと閉めているのか、探りようもない。

 粟國さんは今、どうしているのだろう。

 そんなことを気にかけていた去年の秋、一本の電話がかかってきた。画面に表示されたのは粟國さんの名前だった。「もしもし、橋本さん? もうね、店を閉めることにしたよ」。電話の向こうで、粟國さんは言った。

 「店を閉めることにしたのはね、やっぱり、コロナですよ」。粟國さんはそう振り返る。「コロナが落ち着いたところで、いちどお店を再開したんだけど、お客さんがいなかった。僕は従業員を雇っていないから、年金で家賃を賄えていたけれど、怪我をして入院したことがあったわけ。大家さんからも『年齢が年齢だから、もうやめたら?』と言われて、やめることにしたんですよ」

ありし日の「お食事処 信」にて、ご夫婦並んだ一枚。

  「最近の楽しみはね、ラジオを聴くこと」と粟國さん。「昔の曲が流れるFMがあるもんだから、それを聴きながらお酒を飲むわけ。これが楽しみではあるんだけど——やっぱり、寂しいよ。まだまだ人生は長いということで、何をしようかと考えているところなんだけど、まだ見つけきれないのよ。今の僕の趣味は、洗濯。何もするのがないから、洗濯ばかりやってる。あと、うちの息子が立ち上げた会社で女房が働いているから、そこに遊びに行ったりするわけ。『時間潰しだからね、ごめんね』と言ったりしてね」

 久しぶりにお会いした粟國さんは、以前と変わらずお元気そうでホッとした。今でも毎朝スクワットをこなしているそうで、「88歳までは元気で生きたいね」と笑う。

 まちぐゎーの魅力はいくつもあるけれど、ひとつに絞るとすれば「ひと」に尽きる。そこに暮らすさまざまなひととの出会いが忘れがたくて、僕はこうしてまちぐゎーのひとびとのことを書き綴っている。忘れがたいひとりが粟國さんで、僕は何度となく「信」に足を運び、お酒を飲んできた。トーカチはもちろんのこと、カジマヤーを迎えた粟國さんと乾杯する日を夢見ている。

粟國信光さん

お食事処 信
沖縄県那覇市松尾2-9-7
[閉業]


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毎月第4金曜発行
取材・文・撮影=橋本倫史
市場の古本屋ウララにて配布中

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