市場界隈のこと

 火曜日から今日のお昼まで那覇で過ごした。那覇を訪れるのは今年に入ってもう六度目だ。自分も参加している写真展を観るために数時間だけ那覇を離れたが、あとはずっと狭い範囲をぐるぐる歩き回っていた。夜は基本的に同じルートをたどる。日が暮れる頃に「足立屋」でホッピーを飲んで、「信」で生ビールと餃子を平らげ、オリンビールのロング缶を飲みながら真っ暗な壺屋やちむん通りを歩き、「うりずん」で泡盛を飲んで、21時過ぎになると会計を済ませ、オリオンビール片手に「東大」の開店を待ち、へろへろになって宿にたどり着く――その繰り返しだ。ひとりで淡々と飲みながら、いつか誰かとその店を訪れたときのことを思い返す。

 沖縄を訪れるたびにこれを繰り返す。そのせいか、今では店の扉を開けると「はいさい、橋本さん」と声をかけてもらえるようになった。そうやって店員におぼえられることを「いやだ」と感じる人がいるのだと、最近まで知らなかった。そんなふうに声をかけられたらその店に行きづらくなると知人は言う。でも、僕はとにかく嬉しくなってしまう。遠く離れた町ならなおさらだ。これは別に、自分が常連として認識してもらえていることが嬉しいとか、そんな話ではない。ただ、自分のことを憶えてくれている人がそこにいることが嬉しいのだ。

 今ではこんなに頻繁に訪れているけれど、沖縄好きかと言われるといまだにわからずにいる。好きどころか、昔は沖縄を避けていたところがある。

 広島に生まれ育ったこともあり、学校では定期的に平和学習の時間があり、夏休みにも登校日があった。原爆を体験した語り部の話を聞き、原爆をテーマにした映画を観て、当時の様子を記録した資料に触れる。それを繰り返しているうちに、戦争に関することはほとんどトラウマのようにして僕の中にある。小さい頃に親に連れられて沖縄旅行に出かけたことはあるのだが、大人になっても自分から沖縄に出かけようという気にはならなかった。そこを訪れるということは、戦争のことを考えずにはいられないだろう。そうすると、「旅行」という形で沖縄を訪れる気にはなれなかった。

 沖縄を頻繁に訪れるようになったきっかけは、2013年6月23日のことだ。今日マチ子さんが沖縄戦に着想を得て描いた『cocoon』をマームとジプシーが上演するにあたり、皆で沖縄を訪れて、戦跡を巡る。その旅に僕も同行した。6月23日は沖縄で集団的な戦闘が終結した日で、糸満にある平和祈念公園では慰霊祭が開催される。その風景を眺めているうちに、「こうして過ごしたからには、足を運び続けなければ」という気持ちになり、それから毎年のように6月は沖縄で過ごしている。

 そんなきっかけだったからか、再訪しても足を運ぶのは南部が多かった。ホテルはいつも那覇で、夜になれば那覇で飲むけれど、それ以外の時間で那覇をぶらつくことは少なかった。昼に出かけるとすれば、「ジュンク堂書店」(那覇店)と「市場の古本屋ウララ」に出かけ、沖縄に関する本を探すくらいだった。最初のうちはどういうルートで歩けば「ウララ」にたどり着けるのかあまりわかっておらず、あてずっぽうに歩いていたけれど、『cocoon no koe cocoon no oto』という本をきっかけに僕が作ったリトルプレスを扱ってもらえるようになって、直接納品に出かけたりしているうちに、少しずつ頭の中に地図が描けるようになった。

 「市場の古本屋ウララ」は、名前の通り、市場にある古本屋さんだ。目の前に那覇市第一牧志公設市場がある。現在の市場は沖縄が復帰した1972年に建てられたもので、完成から46年が経ち、老朽化が進んでいる。市場を今後どうしていくか、しばらく前から議論が重ねられてきた。2019年度に現在の市場を取り壊し、数年間は仮設の市場で営業して、同じ場所に建て直す――そう決定したと知ったのは、今年の春のことだ。

 建て替えとなれば、市場だけでなく、界隈の風景も変わってゆくだろう。そう思った瞬間に「今の風景を記録しておきたい」と思った。沖縄に住んでいるわけでもなければ、沖縄と縁があるわけでもない僕がそんなことをするのは差し出がましいのではないか。そんなふうに考えたこともあるし、今でも心のどこかでそう思っている。でも、今記録しておかなければ、わからなくなってしまうことがある。思い出されるのは、2013年に皆と訪れたひめゆり????のことだ。そこにはひめゆり学徒隊や彼女たちを引率した教員たちが展示された部屋があり、写真の下にプロフィールが書き記されている。ただ、全員の鮮明な写真が残っているわけではなく、ぼやけた写真の下に「物静かでやさしい人だった」とだけ書き記されている生徒もいる。この子のことを書き記さなければ。ここ数年、ことあるごとにその展示室のことを思い出す。

 市場界隈の風景が変わってゆくのであれば、そこで生活する人たちのことを記録しておかなければと思い、本の雑誌社の編集者であるTさんに企画を相談した。「こういう連載をさせてもらえませんか」と自分から編集者に提案したのは初めてのことだ。Tさんは『月刊ドライブイン』を読んでくださって、「何か企画があればぜひ」とメールをくださっていた。いつだかの台風の日に打ち合わせをすると、Tさんはすぐに話を進めてくださった。あれは8月のことだ。その直後に僕は沖縄を訪れて、1週間ほど滞在した。朝から晩まで、ひたすら市場界隈を歩く。延々歩いているうちに不審者になってしまって、市場の片隅にあるテーブルで刺身を食べているとき、ある店員さんに「毎日いらしてますけど、何をされているんですか……?」と尋ねられたこともある。でも、ぶらりと歩いただけでは取材にとりかかることもできなくて、ひたすら歩く。

 いざ「このお店の方に話を聞いてみたい」と思っても、すぐに「話を聞かせてもらえませんか」と切り出すことはできなかった。たとえば鮮魚店であれば、5日間毎日通い続けて刺身の盛り合わせと缶ビールを注文する。そうするうちにおぼえてもらって、僕が刺身の盛り合わせを注文すると、「今日は缶ビールはいらないの?」と言ってもらえるようになる。それでもまだ「話を聞かせてもらえませんか」とは言えず、空いている時間を見つけて企画書を手渡し、「また改めて伺いますので、お時間のあるときにでも話を聞かせてもらえませんか」とお願いする。そんなふうに取材を進めていることもあり、今年の6月以降は月に1回の頻度で那覇を訪れている。今回の滞在でも、何軒かでお話は聞かせてもらったけれど、取材のための滞在だったというよりも、次に訪れたときに話を聞かせてもらえるようにお願いするための滞在だったと言える。

 今年の6月に訪れて、この4ヶ月のあいだに閉店してしまった店もある。間に合わなかった。僕がもっとすみやかに取材できていれば、話を聞けていたかもしれない。こんなふうに時間をかけてしまっていると、記録しそびれてしまう風景がいくつも出てきてしまうのだろう。でも、誰かに話を聞くためには、どうしても時間がかかる。それでも、少しでも書き記しておくことができればと思って、Web本の雑誌で『市場界隈』という連載を始めた。今はまえがきとして書いた「はじめに」と、1軒目となる「上原果物店」の記事が公開されている。

 今回沖縄に足を運んだのは、先月話を聞かせてもらった方たちに原稿を手渡してチェックしてもらうためでもある。ひとりでお店を切り盛りされている方も多く、電話でやりとりすると、商売の邪魔になる可能性もある。それに、照れ屋な方も多く、取材させてもらった段階で「やっぱり、私の話は入れなくてもいいんじゃない?」とおっしゃっていた方もいた。その方達にも「なんとか掲載させていただけませんか」とお願いするためにも、直接お話しできればと思ったのだ。

 話を聞かせてもらったうちのお一方は、夜は夫が経営する居酒屋「信」で働いている。そこでビールを飲んでいると、「もらった原稿を読んでいると、本を読んでいるという感じがしなくて、会話してるみたいだったね。うちなーのアクセントまで伝わってくる感じがする」とその方は言ってくれた。

「これを読んでいると、ほんとに身近に感じるね。話に出てくるおばちゃんたちは、もう亡くなっている人もいるけど、その人たちとそばで話しているような感じがする。ほんとに、良い出会いです。こういうことがなければ、自分を振り返ることはなかったと思う。これを読んでいると、自分がその当時に戻ったような気持ちになる。だから、他のところでもいろんなことを見て、いろんな気がついたことを書いたらいいですよ」

 そう言われて、僕は言葉を失ってしまった。『市場界隈』に限らず、僕の仕事はドキュメントを書き記すことだと思っている。僕が言いたいことを言うために書くのではなく、そこにある風景を残しておくために書いている。舞台に立つのではなく、常に客席から舞台を見つめている。そうしていると、自分が幽霊のように思えることもある(実際、自分が死んでしまったとしても、幽霊として風景を眺め続けていたいと思う。だから「幽霊がいる」というのは僕にとって明るい話だ)。だから「はいさい、橋本さん」と言われると思いがけず嬉しくなるし、昨晩「信」で告げられた言葉というのも、とても嬉しいものだった。その方に言われた通り、いろんなことを書いておきたいと思う。

市場界隈 那覇市第一牧志公設市場界隈の人々
http://www.webdoku.jp/column/shijo/

「足立屋」のホッピーセットとポテトサラダ

珍しく「うりずん」が空いていた日

「東大」の焼きてちび

「信」にて

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