大竹聡『ずぶ六の四季』を読んだ

 この10日間、大竹聡『ずぶ六の四季』(本の雑誌社)をちびちび読んでいた。観劇前に蕎麦屋に駆け込んでビールを飲みながら、布団に寝転びながら、朝から湯に浸かりながら、電車に揺られながら、ちびちび読んだ。

 『ずぶ六の四季』は、2017年春から4年半にわたり、『週刊ポスト』に連載された「酒でも呑むか」を、時系列を変えずに書籍化したもの。「ずぶ六」とは、まえがきにも書かれているように、「なかなかの大酔っ払い状態、あるいはそういう人を、江戸時代、『ずぶ六』と呼んだそうな」。酒でひたひたの生活を送ってきた大竹さんの綴る言葉に触れると、酒場が恋しくなってくる。

 連載の初回は「スマホ使いの昼酒爺さん」(p.16)。そこで大竹さんは、「昼には開店している立ち飲み屋」で――そこは「デカ箱で、酒肴は激安、理想的な大衆酒場」で、「上野あたりの一軒」だ――に立ち寄る。

 私は午後三時に入店し、焼酎一、二杯で引き揚げるつもりだったが、にわかに立ち去り難くなった。
 隣に立っていた爺さん。ちょっと足元にきているが、ズボンのポケットからカウンターに小銭を出し、ぶつぶつ言っている。様子をうかがうと、酒か赤貝か、いずれを追加するか迷っているとわかった。小銭を睨みつけて、酒か? 赤貝か? 自問自答する。年金支給日までまだ間があるのだろう。

 僕が今住んでいる場所から最寄りの繁華街というと上野になる。だから、この「上野あたりの一軒」の光景というのは目に浮かんでくるようだ。あれはたしか2013年のこれぐらいの季節だったか、まだ上野界隈に馴染みがなかった頃に、東葛スポーツのお芝居を観に末広町に出かけたことがあった。劇中の台詞に「上野で飲むなら大統領 でも個人的にはカドクラ」という台詞があり、たしかその日の帰りにさっそく飲みに出かけた記憶がある。そのときはキャッシュオンという仕組みも理解していなくて、あたふたしながら料金を支払い酒を飲んだ。それからちょこちょこ通うようになって、他の人が何を注文しているか、どんなふうに過ごしているか、視線を向けるでもなしに目の縁で感じながら、酔客のひとりとしてぐびぐび飲むのは楽しかった。

 楽しかった、と過去形で書いたように、ここ2年は酒場に出かける機会がかなり少なくなってしまった。コロナ禍になり、移動することと、酒を飲むことが感染拡大の諸悪の根源のように見做されるようになったとき、僕は移動し続けることのほうを選んだ。僕はどこか遠くに取材しなければ原稿を書くことができないし、「コロナ禍になったから、身近な世界のことを書く方向にシフトチェンジする」というのは嫌だったから、数千円でPCR検査が受けられるようになってからはひたすら検査を受け、最大限感染症対策に注意を払い、移動して取材をする、という生活を送ってきた。

 酒場に出かける機会がゼロになったわけではないけれど、たまに酒場に出かけても、ひとり客なのに“マスク会食”をやっていると、なんだか場の空気を壊してしまっているような心地がする。だから今では、開店直後か、あるいは客が引けたあとの時間帯にさっと飲む程度になってしまった。だから、コロナ禍前に書かれた酒場の風景や、コロナ禍以降に書かれたものでも、飲みに行けないもどかしさや憤りを綴った回や、記憶に残っている酒場の話を、しみじみ読んだ。

 冬の寒い季節に書かれたのだろう、「コートの始末」(p.56)を読むと、ああ、そういうことってあったなあと半ば懐かしくなる。

「寒い寒いと首をすくめるようにしながら、飲み屋の暖簾をくぐるのは、厳寒期の酒場通いの楽しみのひとつかもしれない」。この回は、こう始まっている。暖簾をくぐると、酒は何にしようか、ツマミは何にしようかと思案しながら席につく。そして――。

 このとき、意外に困るのが、コートの始末である。椅子席なら背もたれにかける。小上がりなら邪魔にならないところに置く。いずれにしても、手早く畳んで同行者に気遣いさせない人は、スマートだ。逆に、畳むに畳めないダウンジャケットなどを座りの悪いかっこうで隣席に置いている姿などは、ちょっと野暮ったい。暑くないなら脱がなくてもいいのに、と思うこともある。

 僕はどこかに勤めた経験がなく、普通の社会人なら身につけているであろうマナーに疎い。コートも、「訪問先に入る前に脱いでおくのがマナーだ」という話をどこかで読むか聞くかした記憶があるのだけれども、それが一体どのタイミングなのかいまだにわかっていなくて、いつもあたふたしてしまう。スマートになりたいなと思う一方で、もう今更スマートになるのは無理だろうなと諦めつつもある。だから、この「コートの始末」の最後に綴られる「野暮ったさ」のほうに惹かれるところもある。農村だった田舎町から上京した人間が「スマートになりたい」も何もとも、最近は思っている。

 東京に住んで20年が経つけれど、だからといって東京に馴染んでいるとも言い難い。

「おいしい戴き物の話」(p.40)。

「小瓶のビールに焼き海苔を注文したら、塩ですかタレですかと訊かれ、迷わずタレと答えた」という一文を読んで、へええ、東京だと焼き海苔にタレをつけて出す店もあるのかと感心した。神田の酒場での話だ。上京して今年で20年になるが、神田で飲んだことは一度もなく、焼き海苔に合わせるのはどういうタレなんだろうと想像を膨らませながら、先を読む。「しばらくしてから、別のお姐さんに、『のり』の発音に気をつけながら、改めて、焼き海苔を頼んだ」。最初のつうもんは通らなかったのだろうか。お店によっては、店員さんごとに受け持つ範囲が決まっていて、担当以外の店員さんに声をかけても注文をとってくれない、ということもありうる。でも、最初の注文でも「塩ですかタレですか」と訊かれているわけだから、注文を受け付けてもらえなかったわけではないのだろう。

「発音に気をつけながら」というのは、どういうわけだろう。たとえば関西の酒場に入り、きずしを注文する場合は、うまく発音できるだろうかと口の中で練習してから発語する、ということはしばしばある。

 あれ。「海苔」と「糊」って、どっちがどういう発音だったっけ。

 の『り』。『の』り。何度もぶつぶつ繰り返す。隣で眠っていた中国地方出身の知人を起こし、「食べるほうの海苔と、くっつくけるほうの糊って、どっちがどういう発音じゃった?」と尋ねてみると、そんなもんどっちでもええやろと、ひどく機嫌が悪そうな声で返ってくる。たしかに、休日の朝にそんなことで起こされたらたまらないだろう。のり。のり。のり。何度つぶやいても正解がわからず、もういいかと読み進めていたところで、ふと「発音に気をつけながら」の意味に気づいて笑ってしまった。

 大竹さんは空酒派で、「呑む間はごく少量しか食べない」のが「習い性」となっている。その「ごく少量」の中に、しばしば焼き海苔が登場する(僕は酒を飲みながらでもそこそこ食べるほうだから、お品書きに「焼き海苔」とあっても、ほとんど目を留めていない気がする)。焼き海苔と、あとは漬け物、梅干し。

 ざっくり言って、飲み屋の漬物は、うまい。というより、ここの漬物はうまいな、と思わせる店は、いい店ばかりだ。蕨、祐天寺、三鷹と、抜群のぬか漬けを出すもつ焼き屋はすぐに思い当たる。
 白菜漬けも酒に合う。ハリハリ漬けの祖母は、毎冬、白菜も必ず漬けた。四つに切って干し、巨大なポリバケツのような漬け樽に入れ、塩をたっぷり。鷹の爪をパラパラかけて、木蓋をして重しをのせる。私は一連の作業を見ているが、手伝うのは重しに使う石を見繕ってくることと、それをよく洗うことだった。
(「大根の皮ってヤツなかなか」p.200)

 こどもの頃の著者は、祖母に倣って葉で飯を包んで食べていたが、「酒を飲むようになってからは、焼き海苔で白菜を巻いた」。ここでも焼き海苔だ。「白菜の歯ごたえと海苔の香り……。こうなると酒が止まらない。そのうまさを、大根の皮漬けをつまみにうまい燗酒を飲みながら、また、思い出している」。

 「思い出している」。著者の酒は、思い出酒だ。どんどん飲んでいるうちに、いつかの記憶につながってゆく。

 たとえば、「外房の誘惑」(p.70)。

 大相撲の三月場所の十四日目。日本出版クラブ会館で開催されていた「第三回本のフェス」に顔を出したあと、相撲のテレビ中継を観ようと、著者は慌てておでん屋さんに駆け込む。そこでは店主がひとり、ラジオを聴いていた。どうにか間に合って、中継を聴き、鶴竜の優勝を知る。「妙な優勝モード」を抱えて飲み歩くうちに、「ふと、勝浦の居酒屋を思い出した」。

 15年も前のこと。勝浦の居酒屋で「刺身とキンメの煮付けで飲み終えた私に、主は飯を出した」。カレースプーンを渡され、「キンメの煮汁を飯にかけて」と、店主は「昔ながらの勝浦の子供たちの食べ方」を薦める。丼一杯の汁飯を食った記憶を思い出し、「来週あたり、ぶらっと外房へ行こうか」と原稿は締めくくられる。原稿の終わりに、いかにも決め決めのフレーズを持ってくることは容易だ。この、ふっと淡い締めくくりに、また、しみじみする。

 文章を書いていて、原稿をどう終わらせるのかというのは、悩ましい。ぴしゃりとうまいことを書いたり、強い言葉を書いたり、いかにも締めくくりらしいことを書いたほうが据わりはよい。でも、それもはしたないような気がしてしまう。それはどういう文章を読んで、どういう背中を見て育ってきたかで違ってくるのだろう。「お師匠と弟子」(p.170)を読み、そんなことも考える。

 酒場歩きをしながら、著者は時々、師匠と弟子ということを考える。板前やバーテンダーの世界にはまだ師匠と弟子の関係が残っており、5年、10年と修行を重ねて、30代になってようやく独立する店主というのがいる。そうした「お弟子」たちを見ながら飲んでいると――。

 ふと、自分のその頃を思い返す。雑誌記事をどうにかこうにか書いては飯を喰っていた時期。勝手に師と仰ぐ作家はいたが、弟子にしてもらったわけではない。私を鍛えてくれたのは、五歳ぐらい年上の編集者たちだった。
 励まされ、酒を飲ませてくれ、そして、ダメ出しをされた。師匠というより兄弟子。兄さん姉さんたちだ。今も、深夜に仕事をしていてときどき思う。あの人なら、この書き方、許さんだろうな、と。

 『週刊ポスト』で「酒でも呑むか」が連載されていた4年半のあいだに、「親しかった人、敬愛していた人が何人も旅立った」と、あとがきに書かれている。そのひとりは坪内祐三さんだろう。亡くなった直後に、「坪内祐三さんからの電話」(p.196)が書かれている。ただ、その1回だけではなく、「江ノ電、鎌倉、ヒラメの昆布締め」でも、「一月に急逝した坪内祐三さんの弔い酒が続いているような気もしている」と綴られる。

 その時期に、何度か大竹さんと新宿の酒場でお会いする機会があった。その酒場を教えてくれたのも坪内さんだった。僕にとって先生、師匠のような存在と言えるのは坪内さんだ。僕も大竹さんと同じく、「飲むならどんどん」というタイプで、そんなふうにお酒を飲むようになったのは、まだ大学生だったころに坪内さんに出会ったことと、その前年に向井秀徳さんと出会ったことによる。「飲むならどんどん」という人の背中を見て過ごしているうちに、自分も「飲むならどんどん」になっている。

「坪内祐三さんからの電話」では、『あまから手帖』の新年号に載った私の文章を読んだ坪内さんから電話がかかってきたときのこと、あるいは反対に、「あのような大仰な言葉を慎むべし」といった意味合いのメールが届いたときのことが書かれている。「褒めるときは直に。苦言はメールで簡単に」。そんな坪内さんから、あるとき電話がかかってくる。それは連載の中で下北沢のおでん屋の風景を書いた――この「豆腐一丁で酒は飲める!」という題の回は、『ずぶ六の四季』だとp.190に収められている――『週刊ポスト』(2019年12月23日発売号)が発売された翌日のことだったという。世田谷っ子である坪内さんは、大竹さんが書いたおでん屋に目星をつけて、「踏切りの手前にあったおでん屋でしょう?」と電話をかけてきた。

 そのやりとりに、雑誌的というのか週刊誌的というのか、ある幸福な時代が詰まっているように感じる。

「春秋の外酒」(p.78)は、「少し長い日帰りの取材に出た」と始まる。

 それは「歩き旅」で、「途中で酒を飲むというごく気楽な企画もの」だったが、「連日飲んでいる身にはときにこたえる」。こうして書き始められた言葉が、改行して「けれど、この陽気である」と続けられる。この「けれど、この陽気である」という一文に、妙にハッとする。これはやっぱり、週刊誌だから書ける言葉だという感じがする。月刊誌だと、「けれど、この陽気である」という言葉は読者に届きづらい。週刊誌でも、締切から発売日まではずれがあるとはいえ、書き手と読者が季節を共有している。だからこうした一言をぽんと置きうるし、そういった場だから書ける言葉があるのだと思う。坪内さんも週刊誌にたくさん連載を抱えていたし、「雑誌小僧」だった坪内さんは、その「ゴシップ的感受性」で、雑誌をよく読んでいる人だった。

 僕はといえば、「先生、師匠のような存在と言えるのは坪内さん」だなんて調子のいいことを書いておきながらも、その感受性はほとんど持ち合わせていない。『週刊ポスト』で連載されていた「酒でも呑むか」も、毎回読んでいたということでもなく、気まぐれにdマガジンで読む程度だった。だから、こうして書籍にまとまって、初めて通して読んだ。

 印象的だったことを書き始めるときりがないけれど、たとえば「私の名店」(p.30)。「名店」の定義は人それぞれだが、大竹さんは「秀逸な店とか、忘れがたき店というほどの思いをこめている」。「つまり、いい店だ」。その「名店」として、大竹さんはふたつのお店を挙げている。

 新潟県柏崎市の青海川という駅の近くに、日本海の魚介を販売するセンターがあって、一軒の寿司屋が入っていた。米も水も、ネタも、地元のものばかり。地魚だけの握りが、二十五年近く前で一五〇〇円程度だった。朝から営業の熱心な店で、私はもちろん朝から飲んだが、あの、寿司は忘れがたいから、私の名店だろう。店名はたしか「鮨健」さん。今もお元気かどうか。
 同じ寿司屋になるが、湯河原の小さな店も秀逸だった。あの界隈に縁のある人には有名かもしれないが、一般的には名もなき名店といえる。たしか「三の字さん」。

 ここを読んだとき、唸った。いずれも店名は「たしか」と書かれている。そして、「二店とも、今、あるかどうかを知らないが、大将の顔つき、雰囲気をよく覚えている」と大竹さんは綴る。

 自分だったら――と想像する。たぶんきっと、いや間違いなく、書く前にネットで検索するだろう。でも、ここではインターネットで検索して「正確」なことを書くよりも、自分の記憶を頼りに書くことがはっきり採用されている(坪内さんも「正確」さよりも記憶に忠実に書くことにこだわる人だった)。そうした感覚は、これから先の時代に、どう引き継がれていくのだろう。

 感覚は時代とともに移り変わってゆく。

 そうか、と思ったのは「コップでやるウイスキー」(p.44)だった。父の友人と飲むことになり、著者は角瓶と水を用意する。それは、「父のウイスキーは、もっぱら水割りだった」からだろう。「トリスバーの草創期から飲みまくってきた世代だからハイボールへの馴染みは深いはずだが、炭酸が入手しづらかったか」と著者は推測する。

 さて、角瓶と水を用意する著者を見て、父の友人は「角を割って飲むのか?」と驚く。角瓶といえば昔の特級であり、こんないい酒は生でやるもんだよ、と。

「特級」というのは、原酒混和率が高い上等な酒のこと(この「原酒混和率」という言葉も調べて書いてしまっている)。昭和の終わり頃に級別制度は廃止されたらしく、それとともに「特級」という言葉も消えた。昭和の終わり頃に物心がついた僕は、知識として「特級」という言葉を知ってはいるけれど、そこに対する実感はない。大竹さんがお酒を飲み始めた頃にはまだ「特級」が存在していたはずだけれども、次第に洋酒が入手しやすくなりつつあったであろう時代と、ここに登場する「父」や「父の友人」がお酒を飲み始めた時代とでは、国産ウイスキーの「特級」の響きはかなり開きがあるはずだ。ただ、「角を割って飲むのか?」という父の友人の言葉に慕うように、著者はウイスキーを生でやる。

 教えのとおり、生でやるとうまい。タンブラーやロックグラスなんか持っていないから普通のコップにどぼどぼ注いで飲む。量で言うと、ダブルじゃきかない。トリプルくらい。
 ごくりとやっては喉が焼け、腹がくわっと温まる。吐く息に、ウイスキーの甘い香りが漂う。

 「その記憶が、秋も深まると蘇る」。

 ここでも記憶が酒につながる。さきほど引いた「春秋の外酒」にも、秋の思い出が綴られる。

 外酒は若い頃から好きだった。実は昨今、最初の子が三十歳になった。ということは私が父親になったのも三十年前ということになるわけだが、その子がヨチヨチ歩きの頃からよく公園で飲んでいた。
 普通は親子して、公園を歩くのだろうと思う。が、我が家の場合は、子を連れて歩くのはもっぱら妻の役割で、私は持参したつまみとビールなどを楽しみつつ、芝生に横になるのである。

 晩秋になると、著者は住んでいた団地の空き地で焚き火をしていた。準備が整ったところで、著者は「ウイスキーを飲む。というより、キャップに注いで舐める。ビリビリとして、口の中が熱くなり、喉を通ると胃を暖めてくれる」。

 「父の友人」の教えに従ってウイスキーを生で飲んだ話の数十ページあとに、こうした言葉に出くわすと、世代を超えて何かが脈々と受け継がれているように感じる。あるいは、「正月の餅」(p.50)では、こどもの頃に食べた餅の記憶から、正月に親戚同士で集まり飲んでいた大人たちの姿が回顧される。「子供たちの餅は止まらず、大人たちの酒も止まらぬ」。そうした姿を見て育ったことも、少なからず「飲めばどんどん」に影響を及ぼしているのだろう。

 本の中に、著者が生まれ育った三鷹の記憶が時折綴られている。「井戸水のプール」では、井の頭公園を少し歩き、夕方を待つところから書き始められる。

 緑の濃い季節は盛夏まで続くが、私は五月から六月ごろの、少し湿った空気の中を歩くのが昔から好きだ。生まれ育った土地の雑木林の匂いを嗅ぐからかもしれない。
 下駄ばきの父に連れられて、家から小一時間かけて井の頭池まで歩いたのは、もう五十年も前のことになる。蕎麦屋の店先の床几には緋毛氈が敷かれていた。父はそこで、ビールを飲むのだ。
 その光景は、記憶の改竄を経てかなり抽象化されているかもしれないながら、鮮やかさも失わない。ただ、同じ場所がカフェみたいになっているのが、私をして、たまらない気持ちにさせるだけのことである。

 ここを読んでいると、「少し湿った空気」が、「雑木林の匂い」が立ち込めてくるようだ。

 今から10年、20年経ったとき、自分にはどんな記憶が残り、どんな言葉が書けるだろうかと、ぼんやり考える。酒に限らず、何にひたひたになってきたのかが、その人を形作るのだと思う。自分がひたひたになってきたものについて書き綴るとき、そこには匂いが立ち込める。10年、20年と書くと遠い未来のことのようだけれども、それはきっと、毎晩のように酒を飲んでいるうち、あっという間にやってくるのだろう。こうして感想を書きつけながら、今晩は日本酒にしようか、いやウイスキーを生でやろうかと迷っている。うちにもウイスキーの角瓶はあるけれど、普段はほとんどハイボールで飲むから、冷蔵庫に冷やしてある。だから、それとは別で、ポケットボトルを買いに行くことにする。

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