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第5回「はま食品」

 那覇市第一牧志公設市場に、新しい店舗がオープンした。首里鳥堀町で半世紀近い歴史を誇るジーマーミ豆腐専門店「はま食品」だ。

 創業者の大浜りつ子さんは、昭和5年石垣島生まれ。りつ子さんの母・宮城文さんは八重山の小学校で教員を務めるかたわら、郷土史家として八重山の文化をまとめ、『八重山生活誌』を執筆した。そんな母のレシピをもとに、「はま食品」を創業する。

 「お店を始めた当初は、今ほどジーマーミ豆腐が一般的ではなかったんです」。店頭に立つ三代目・大浜用輝さんはそう教えてくれた。「もともとジーマーミ豆腐を食べる文化があったのは、首里の城下町と、八重山や伊江島といった離島だったので、沖縄の方でも馴染みがない方もいたそうなんです。そんな時代に、ジーマーミ豆腐をプラスチックのカップに入れて、ホッチキスで蓋をとめて、リヤカーで近所に販売し始めたのが始まりなんです」

創業者・りつ子さんの夫で画家の大浜用光さんの筆による屋号

 現在でこそ、ジーマーミ豆腐は沖縄料理の定番のひとつとして知られている。ジーマーミとは落花生のこと。地面の下に身が成ることから、「地豆」(ジーマーミ)と呼ばれるようになったのだという。

 今年の5月、古波蔵保好の『料理沖縄物語』が講談社文庫として再刊された。戦前・戦後を通じて新聞記者として活躍し、エッセイストとしても知られる著者が郷里の味を綴った一冊の中に、「真白い落花生豆腐」と題したエッセイが収録されている。著者は1910年に首里で生まれているが、幼い頃にジーマーミ豆腐を食べたことはなく、「青年に成長してから、料理店の会席膳に現れる『地豆どうふ』によって、わたしはこの料理の味を知った」と綴っている。 

 つくるのがめんどうなので、家庭料理としてはムリだ。めったにない祝いの膳部をにぎやかにするため、「地豆どうふ」を献立に入れるということになって、骨身を惜しまぬ料理担当者が、もろ肌を脱ぐ場合でないと、その美味を口にすることはできなかったと思う。
 ——というわけで、昔は材料が少なかったことなどのために、「地豆どうふ」は珍味の一つになっていただろうし、文明開化してどんな品でも船で運べる時代になると、骨身を惜しむ人が増えて、なかなか出合えない料理になったのである。

古波蔵保好「真白い落花生豆腐」

 かつて地豆は貴重な食材で、球王朝時代にはジーマーミ豆腐は宮廷料理としてふるまわれていたという。八重山地方では仏壇行事の際に落花生が用いた料理が供えられる一方、地中に根を張り広がっていく様から縁起の良い食材とされ、祝い事や結納といった場面にもジーマーミ豆腐がふるまわれていた。ただ、下ごしらえや調理に手間がかかる料理は家庭でつくられることが少なくなり、「なかなか出合えない料理」となっていたのだろう。

 そんなジーマーミ豆腐を専門として、りつ子さんが商売を始めたのは、海洋博が開催された1975年のこと。那覇市久米で親戚が営んでいた沖縄料理店「ひるぎ」でジーマーミ豆腐を出したところ、その味が評判を呼び、那覇市内の料亭や商店、ホテルからも注文が入るようになったという。ただ、注文が舞い込むようになってからも、りつ子さんは家族経営にこだわって「はま食品」を営んできた。

 「小さい頃は、朝起きたら一階の工場に降りていって、おばあちゃんに遊んでもらいながら袋詰めを手伝ってました」。用輝さんはそう振り返る。ただ、用輝さんは次男だったこともあり、高校卒業後は東京に進学し、アパレル業界で働いていた。だが、「はま食品」を継ぐはずだった兄が病で他界したことで、用輝さんは帰郷を決意する。

 「まわりの同級生から、『最近はジーマーミ豆腐がお土産の定番になっているけど、食べてみたらちょっと合わなかった』という話を聞くことがあったんです。本来のつくりかただと日持ちがしないので、メーカーさんが試行錯誤して、賞味期限の長いものが一般に流通するようになっているんですね。僕は小さい頃から祖母の作るジーマーミ豆腐を食べて育ちましたし、『ここの味がなくなったら困る』という高齢の方もいらっしゃったので、沖縄に戻って店を継ぐことにしたんです」

 用輝さんが帰郷してほどなく、新型コロナウイルスの感染が拡大。物産展が軒並み中止に追い込まれ、「はま食品」は販路を絶たれてしまう。直接販売できる場所はないかと模索していたところ、公設市場の事業者から空き小間があることを教えられた。

仮設市場で営業中の第一牧志公設市場

 「公設市場近くにあった『丸市ミート』さんには、うちのジーマーミ豆腐を扱ってもらっていましたし、小さい頃からこの界隈に遊びにくる機会も多かったんです。おばあちゃんが買い物にくるときに、僕も一緒に連れてこられることも多くて。昔はよく、値切り合戦をしてる方がいたんですよ。『これ、高いねえ。千円にしなさい』『いや、千円だと儲けが出ないから、そんなにまけられないよー』『じゃあ、千円置いておくから持っていこうね』みたいなやりとりを、小さい頃からよくみてました」

 「はま食品」が牧志公設市場で営業を始めたのは、今年の6月13日のこと。市場には高齢の店主も多く、コロナ禍を機に店を畳む方もいて、空き小間がいくつか出ている。旧盆と旧正月前は市場のかき入れどきだが、今年も「旧盆はできるだけ同居家族のみで過ごして欲しい」と県が呼びかけたこともあり、例年の賑わいは見られなかった。コロナ禍が長期化する中で、沖縄の習慣にも変化が生じ始めているところもあるのだろう。 

「僕の家も、親戚が大勢集まるほうだったんですけど、コロナで集まれなくなって、そういう寂しさはありますね」。用輝さんはそう語る。「はま食品」が扱うジーマーミ豆腐も、もともとは親戚一同が集まったときに口にする料理だった。 

「はま食品」のジーマーミ豆腐。小さいサイズは3ヶ400円、大きいサイズは3ヶ700円。

「首里や八重山などのジーマーミを手作りする家庭だと、親戚がやってくる時間に合わせて、出来立てのジーマーミ豆腐を作っていたそうなんです。沖縄の親戚の集まりって、ほんとにすごい人数が集まるんですけど、皆で長いテーブルを囲んで、湯呑みに入れたジーマーミ豆腐を温かい状態で出す。それは家族だけの特権の味だったそうなんです。僕も小さい頃から出来立ての温かいジーマーミ豆腐を食べて育ったので、来年の春からはその味を提供できたらなと思っています」

 現在は用輝さんと母・清子さんのふたりで、昔ながらのジーマーミ豆腐を作っている。新しい公設市場がオープンする来年の春からは、妻・彩子さんにも手伝ってもらって、3人体制で「はま食品」を切り盛りしていくつもりだという。

 「僕たちが作っているものは、どうしても持ち帰りづらい商品になるんです」と用輝さん。「はま食品」では、観光客向けに保冷バッグを用意しており、当日中であれば持ち歩けるように工夫を凝らしている。ただ、昔ながらの製法を守ると、どうしても賞味期限は短くなってしまう。ただ、それは必ずしもデメリットではないと用輝さんは語る。

 「昔は賞味期限の長いもののほうが喜ばれていたと思うんですけど、今はまた一周して、持ち帰りづらいもののほうが求められる時代になってきていると思うんです。どこででも買えるものじゃなくて、ここでしか買えないものが欲しい、と。そうやって昔の味を大事にすることで、地元の方にもまた公設市場に来ていただける入り口になりたいと思っているので、昔ながらの味を守っていきたいと思っています」

店頭ではお試しジーマーミ豆腐(110円)も提供している。

 ところで、こうして話を聞かせてもらったのは8月18日で、夕方からは新しい公設市場の生鮮部門の店舗配置抽選会がおこなわれることになっていた。工事の完成も近づき、店舗の配置も決まり、新しい市場がオープンする準備は着々と整いつつある。

 取材の翌日、もういちど「はま食品」に足を運んだ。抽選の結果を訊ねてみると、「第三希望だった小間に入れました」と用輝さんは顔を綻ばせた。その小間であれば、思い描いていたプランを実現できそうだという。来年の春、新しい市場にはどんな光景が広がっているのか、オープンを心待ちにしている。

はま食品の三代目・大浜用輝さん

はま食品
那覇市松尾2-7-10
第一牧志公設市場内
営業時間10:00-17:00(水曜定休)

フリーペーパー「まちぐゎーのひとびと」
毎月第4金曜発行
取材・文・撮影=橋本倫史
市場の古本屋ウララにて配布中


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