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立石へ

 7月の終わりに、沖縄に出かけた。珍しく自分が取材をされる側になって、沖縄に出かけることになったのだ。せっかく航空券を買うのだから、取材を受けるだけではもったいない。自分でも何か取材しようと考えたときに、以前から考えていた企画に取り掛かろうと思い立った。

 那覇の市場界隈で取材を始めたのは、5年前のことだった。第一牧志公設市場の建て替え工事が決まり、現在の風景が大きく移り変わってしまうのは間違いなさそうだった。今日まで続いてきた風景を、その移り変わりを、書き留めておきたい。そう思って、月に一度は那覇に足を運んで、お店の方に声をかけ、お店の来歴や店主の方の半生を聞かせてもらってきた。その取材が『市場界隈』という本にまとまったあとも、那覇に通い続け、2019年からは琉球新報で『まちぐゎーひと巡り』という連載を始めた。そうして聞き書きを続けているうちに、自分はほんとうに、ちゃんと話を聞き書きできているのだろうかと自問自答するようになった。

 取材の依頼をするまでに、何度もそのお店に足を運んで、お店の様子を伺って、買い物のついでにお店の方と短く会話をして――その上で取材のお願いをしているから、ある程度はお店の雰囲気も、どんなふうにお店を切り盛りされているかも、わかってはいる。ただ、それはやっぱり、「ある程度」の話に過ぎなかった。

 インタビューで話を聞かせてもらうだけではなく、そのお店に流れている時間まで原稿に書くことはできないだろうか。そんな思いで始めたのが、『東京の古本屋』の取材だった。

 お店の開店時刻から、閉店時刻まで。東京都内にある古本屋さんに、3日間連続でお店にお邪魔させてもらって、お仕事ぶりを拝見し、時折話を聞かせてもらう。2019年の年の瀬から2021年の春まで、コロナ禍による中断を挟みながら、そんな取材を続けていた。何度も通ったことがあるお店でも、朝から晩まで居座らせてもらってお仕事ぶりを見つめていると、いくつも発見があった。

 これまで取材させてもらった沖縄のお店に対しても、じっくりお仕事ぶりを拝見させてもらった上で原稿を書くことはできないだろうか。『東京の古本屋』を出版したころから、そんなことを考えるようになっていた。この機会に、その取材に取り掛かろう。そう思い立って、過去に取材させてもらったことのあるお店に相談して、朝4時半からお仕事を拝見させてもらっていた。夕方になって取材を終えて、ふとTwitterを開くと、岡島書店が閉店する、というツイートが目に飛び込んできた。

 岡島書店は、葛飾区は立石にある古本屋さんだ。創業は昭和7年、90年以上の歴史がある老舗である。こちらのお店にも3日間お邪魔して取材をさせてもらった上に、『東京の古本屋』が書籍化される際には、表紙にお店の外観を使わせてもらった。 

 岡島書店の取材をしたのは、2020年の秋だった。コロナ禍が始まって半年ほど経ち、感染症への対策もはっきりしてきたところで取材を再開したばかりの頃だ。「ちょっと落ち着いたら、いっぱい飲みに行こうよ」。岡島書店の店主・岡島秀夫さんは、そんなふうに声をかけてくださっていたけれど、その約束を果たさないままになってしまっていた。そこに閉店の知らせを知り、那覇の路上に立ち尽くしてしまった。 

 お店が閉店すると知ってから足を運ぶというのは、はしたない気がするから、普段なら避けるところだ。でも、岡島さんには、あらためてお礼を伝えにいかなければならない。お店という場がなくなってしまうと、顔を合わせる機会もなくなってしまう。だから、LCCで成田空港に到着してすぐ、京成線を乗り継いで岡島書店に足を運んだ。 

「あれ、どっか出かけてたの?」僕が大荷物だったこともあり、岡島さんはそう言って笑いながら出迎えてくれた。閉店のきっかけのひとつは、建物の取り壊しにあるらしかった。岡島書店は棟割長屋になっていて、建物の取り壊しの話が持ち上がっていた。それでも営業を続ける選択肢もありえたけれど、このタイミングでお店を畳むことを選んだのだと、岡島さんは教えてくれた。

「コロナ禍になって、市場まで仕入れに行きにくくなっちゃったんだ。俺みたいに病気持ちだとよお、市場まで行くのが大変だから。仕入れに行かなくなったら、やっぱり棚は全然面白くなくなる。もう81歳になっちゃって、さすがにくたびれたし、今年に入って2回くらい入院もしたから、やめることにしたんだよ」 

 僕が訪れた7月29日にはもう、棚に並んでいた本はすっかり少なくなっていた。今から1ヶ月ほど前には、閉店の貼り紙を出したのだという。そこには「7月いっぱいのめどに閉店いたします」と書かれてあった。 

「この文言も、あれこれ考えたんだよ」と岡島さんが教えてくれた。「7月いっぱいまでやれるかどうか、わかんなかったんだよ。7月いっぱいまでやるつもりだったんだけど、店を閉めるってなると、本を市場に出さなくちゃなんねえんだ。俺はもう、本を結わけねえから、頼んでるんだよ。自分で動くわけじゃねえから、『めど』って言うしかないんだよな。そしたら、誰かがネットに『閉店』とのっけたらしくて、昨日はわざわざ遠くからきたっつうお客さんが何人もいた。中には『7月いっぱいまでやってると聞いたのに、もうほとんど本がないじゃないか』という人もいてよお、まいっちゃったよ」 

 あんたが本に書いた通り、ケータイはおろか、キャッシュカードだって持ってねえんだから。岡島さんはそう笑っていた。本が少なくなった棚を眺めて、『壊れゆく景観』と『わた史発掘』を手に取る。帳場に持っていき、後ろに書かれている値段通りに支払おうとすると、「閉店するっていうんで、皆におまけしてるから、500円でいいよ」と、おまけしてくれた。 

 この日も岡島さんは「ちょっと、一杯いくか?」と誘ってくれたけれど、あいにく先約があった。ただ、閉店してからもしばらく片付けがあって、昼間はお店にいるのだと、岡島さんは言っていた。僕は8月2日から6日まで広島へ取材に出かける予定が入っていたので、取材を終えて東京に戻ってきた8月7日、あらためて岡島書店を訪ねることにした。手土産は、僕の郷里・東広島でつくられている「賀茂鶴」というお酒。取材でお邪魔したときに、僕が広島出身だと話すと、「広島には昔、三原に三日間ぐらいいたことがあるんだ」と岡島さんは話していた。「それから、西条に行って、ずっと酒飲んで――だから今でも賀茂鶴だけは飲んでんだ」と。

 岡島書店の前に着いてみると、「7月いっぱいにて閉店いたしました」という貼り紙にかわっていたけれど、岡島さんは帳場に座っていた。前回は少しだけ残っていた本も、今はすっかり運び出されて、棚だけが残っている。

「こんな木の棚は珍しいって、写真に撮っていくのがいっぱいいたよ」と岡島さん。「俺が店を引き継いだときに、大工に頼んで、この棚を作ってもらったんだ。『杉の七寸』とか『八寸』とか注文出して、そのサイズの木を探してもらって、大工に作ってもらったんだよ。震災のときも、びくともしなくて、本が落ちなかった。こうやって改めて見ると、板が意外と薄っぽいんだけど、しっかりしてるんだよ。ただ、最近は本の大きさが変わってきたから、ちょっと不便になってたんだよな」

 閉店したあとも、お店に電話がかかってくることがあったり、人が訪ねてきたりするから、しばらくここで過ごしているのだと岡島さんは言っていた。ようやく片付けも終わりに近づき、電気やガスを解約する日取りも決まったそうで、奥にあったガスコンロも表に運び出されている。取材でお邪魔させてもらったときも、お昼はここで済ませていたことを思い出す。ここは商いをする場所であり、生活の場でもあったのだと、改めて感じる。
 
「昨日の夜に、寝ながら考えたんだけどよ、この60年、つくづく面白かった」。岡島さんは、店内を見渡しながらそう語っていた。「昔は近所の工場で働く人なんかが買いにきてくれるから、町の人たちに合わせて、ごく普通の娯楽本を扱って。昭和30年代から40年代ぐらいは、裸が売れたから、そういう本を仕入れて莫大に売ったりさあ。きっと、本屋としたら、ある意味で馬鹿にされてるところもあるんだよな。特別難しい本も扱わないし、ひとつの専門を勉強して極めようっていうんでもないからさ。でも、この60年、町に合わせて商売をやってこれたっていうのは面白かったなって、つくづく思ったんだよな」 

 岡島さんがお店を継がれた時代には、町というものが完結した世界として存在していたのだろう。生活がその町の範囲で完結していたからこそ、町の本屋が成立していたのだと思う。でも、今は境界線が消え去って、自分が暮らしている生活圏を越えて、あちこち出かけるようになった(だから自分も、岡島書店が閉店すると聞いて、電車を乗り継いで足を運んでいるわけだ)。 

 よかったら、一杯飲むか。そう誘ってもらって、岡島さんご夫婦と飲みに出かけることになった。駅近くのお寿司屋さんに入り、料理を注文して乾杯する。一息ついたところで、「やっぱり、だんだん寂しくなってきたなあ」と、岡島さんがつぶやくように言った。 

「店に何にもなくなったとこに座ってるのは初めてだったから、今日が一番寂しかった。俺、酒は全然強くないんだけど、酒飲みに行くのが好きだったのは、人としゃべれるからなんだよな。テレビもつまんねえしよお、これから毎日、どうしようかと思ってるよ」
 
 賀茂鶴を飲みながら、刺身を昔の話をあれこれ聞かせてもらっているうちに、2時間以上経っていた。お店の前で岡島さんご夫妻と別れて、駅に向かう。おみやげ(?)に、浅草の松屋で開催されていた古本まつりのポスターをいただいた。

「片付けしてると、いろんなものが出てくるんだよ。このポスターは結構こだわって、校正だけで10回以上通ったんだ。わりかし洒落たポスターだから、駅からかっぱらってくやつもいたらしいんだよな。自分で意識的にしまっといたんだろうけど、今もう、こういうもんも思い切って捨ててんの。懐かしいと思ってとっておいたら、キリがないから。もし欲しいんだったらあげるよ」

 その言葉に甘えて、ポスターをいただいて帰ることにした。僕はモノの扱いが雑なのか、こういう紙モノを持ち運んでいると、すぐに端を折ったり、ヨレさせたりしてしまう。ましてや今日はほろ酔い加減だから、慎重に運ばないと。電車に揺られているあいだ、ポスターを大事に抱えながら、帰途についた。

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