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第2回「翁長たばこ店」

 今年の春あたりから、国際通りや市場本通りを行き交う観光客や修学旅行生を見かけるようになった。少し肌寒い季節でも、観光客はお揃いのTシャツやアロハシャツを身にまとって歩いている。ただ、市場本通りの入り口にある「翁長たばこ店」の翁長清子さん(77歳)は、春になってもジャンパーを羽織って店番をしている。

「ここは風がふきつけるから、結構寒いんですよ。ときどき突風が吹いて、たばこを並べている台が倒れたこともあって、今はベルトで固定してます。通りの入り口だから、風当たりもすごいし、雨もすごいですよ。真夏じゃないと、半袖は駄目ですね」

 清子さんは昭和19年生まれ。おそらく那覇で生まれたはずだが、ほどなくして十・十空襲があり、那覇の市街地はほとんど焼失してしまう。両親は赤ん坊だった清子さんを抱えて、国頭に疎開する。終戦後に暮らしたのは旧・具志川村にある「金武湾」だった。

 金武湾とは、那覇市の垣花出身のひとびとが形成した集落のこと。戦時中に北部の収容地区に移動させられた那覇出身のひとびとは、終戦後も米軍によって那覇市は立ち入りが禁止されていたこともあり、郷里に帰還できないまま収容地区で暮らしていた。そこでは生計を立てることが難しく、かつて垣花で沖仲仕として働いていた人たちは収容地区を抜け出し、具志川村を目指した。そこには米軍が使用するホワイトビーチやブラマの浜があり、垣花出身者が荷揚げ作業に従事し、近くに「金武湾」という集落を形成してゆく。清子さんの父も本籍地は垣花だったから、金武湾に移り住んだのだろう。

かつて金湾があったうるま市具志川付近

「那覇から疎開していた人たちが引き揚げてきて、海の近くに部落を作って、そこに小学校もあったんですよ。小学校を卒業するまで向こうにいて、中学1年のときに父親の仕事の関係で那覇に移ってきて。金武湾にいたときも、何か必要なものがあるとバスで那覇まで買いにきてはいたんですけど、もう、都会だなあ、って。同級生を見ても、生活面の差があって、羨ましかったですよ」

 清子さんは5名きょうだいの次女。お母さんは体が弱かったこともあり、姉が料理を担当し、清子さんは水汲みなど力仕事を小さい頃から引き受けていたという。「だから私、今でも料理は全然駄目なんですよ」と清子さんは笑うが、26歳のときに只勝さんと出会い、結婚する。夫の母・トヨさんが切り盛りしていたのが、現在の「翁長たばこ店」だ。

「主人の母がやっていた頃は、名前も全然つけてなかったし、今みたいに建物があったわけでもないんです。ガーブ川沿いにバーキを置いて、そこにパンやお菓子、たばこを入れて、そんな感じで商売をやっていたみたいです」

 夫の只勝さんは昭和18年生まれ。まだ只勝さんがトヨさんのお腹の中にいた頃に、父は出征することになり、「男の子なら只勝と名づけるように」と言い残して家を出た。戦争が終わっても父の行方はわからないままで、トヨさんはひとりで只勝さんを育てるべく、ガーブ川沿いで商売を始めた。

紙巻きたばこだけでなく、巻きたばこ用やパイプ用のたばこ葉も取り揃える。

「主人の母が商売を始めた時代は、まだ本土復帰していませんので、本土からビジネスでいらした方たちが舶来品の時計や洋酒、それに外国製のたばこをお土産として買っていかれたそうですよ。最初は今みたいにいろんな銘柄を並べてたわけじゃなくて、外国製のたばこだけ。それは、軍に勤めていた方の奥さんたちが闇で手に入れたものがあって、それを仕入れて売っていたみたいです。あの時代だと、地元はもう、外国製のたばこは高くて買いきれなかったと思いますよ」

 ガーブ川沿いの露店として始まった「翁長たばこ店」だったが、氾濫を繰り返すガーブ川を暗渠として、その上に「水上店舗」という近代的なビルを建設するプランが浮上する。

 当時、ガーブ川と国際通りが交差する場所には「むつみ橋」という橋が架けられていた。「翁長たばこ店」とむつみ橋のあいだで商売をしている方が2、3人いたそうだが、道路や歩道も整備する必要があって、水上店舗に含まれるのは「翁長たばこ店」までとなり、トヨさんのお店が市場本通りの入り口に配置されることになった。それが1965年のことだ。

 清子さんが結婚したときにはもう、水上店舗が完成していた。義理の母にあたるトヨさんは、「お店を手伝ってくれ」と言うこともなく、ひとりで店を切り盛りしていたという。清子さんは4人をこどもを育てるので精一杯で、結婚した翌々年には復帰の日を迎えているけれど、「ほとんどおうちから出てないから、外のことはほとんどわからないんです」と清子さんは振り返る。そんな清子さんが「翁長たばこ店」で店番をするようになったのは、1990年代半ばにトヨさんが亡くなってからだ。当時、清子さんは50歳。それまで接客業の経験はなかったという。

「何の経験もありませんでしたけど、もう、当たり前のように自分が継がなきゃいけないと思ったんです。主人はひとりっ子ですのでね、他にやる人もいませんでしたから、『頑張って続けてきたお店をなくしちゃいけない』という気持ちだけで、当たり前のように引き継ぐことにしたんです」

 それから27年、清子さんは「翁長たばこ店」を守り続けてきた。最近は腰が悪くなり、たばこの陳列台をひとりでは上げ下げできなくなって、開店作業と閉店作業は知り合いに手伝ってもらいながら、どうにか切り盛りしている。

「私ももう年ですから、『もし店をやめるんだったら、この場所を貸してほしい』とおっしゃる方もいるんです。ただ、常連のお客さんから、『たばこ屋さんはなくさないでよ』としょっちゅう言われますので、誰かに譲るとしても、ぜひたばこ屋さんじゃないとと思っているんです」

 清子さんに話を聞かせてもらっているあいだ、まちぐゎーで働く店主たちがちょくちょく立ち寄っていった。アーケードの中にあり、種類も豊富な「翁長たばこ店」を愛用する店主は少なくないようだ。お釣りが出ないように、ぴったりの金額を用意して、決まった銘柄を買ってゆく。あるお肉屋さんは、去り際に「頑張ってよ」と、清子さんに声をかけた。

 角にあるたばこ屋の歴史を途絶えさせないように。清子さんは今日も上着を羽織って店番をしている。

2代目としてお店を切り盛りする翁長清子さん。

翁長たばこ店

沖縄県那覇市牧志3丁目1-1
営業時間:8:00頃-18:30頃

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毎月第4金曜発行
取材・文・撮影=橋本倫史
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