読むたびに、違って見える記事 〜「本田圭佑の霊言」のおかしさ〜

今日の記事はニュースではなく、ほぼ初の試みとして、エッセイを発表してみます。と言っても、しばらく前に書いて結局発表していなかったものを載せるだけなので、ほとんど手間はかかっていません。

今回のテーマは、こちらの記事に関係しています。先にこちらを読んでいただいた方が、より話を飲み込みやすいと思いますが、必須ではありません。

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大川隆法が、本田圭佑の霊言を収録したというニュース。初めてこの記事を読んだ時は、さほど印象には残らなかった。

しかし、今読み返してみると一文一文が強烈な滑稽さを放っていた。
例えば、この部分。大川隆法が、本田圭佑の守護霊を呼び寄せ、自身の肉体に入れる(”召喚”する)シーンだ。

<大川総裁による霊言は2時間を超えるものもありますが、今回、大川総裁は「(サッカーの)試合は90分なんですよね。それ以上長いとメンタルがもたないかもしれません」と本田圭佑(霊)のスタミナを気遣いながら、召喚しました>(強調は引用者)

前出記事より

私は元々、どちらかといえば大川隆法を本当に神だと思っていた方だ。初めてこの記事を読んだ時は、記憶が定かではないが、マインドコントロール解除の途上だったと思う。そして当時の私は、この文章をあまり気に留めなかった。

しかし、今の私は、大川隆法の霊言が本物ではないと知っている。それも頭で理解するだけではなく、実感を持ってそう感じているはずだと思う。いわば、信者でない一般人と同じ目線で大川を見つめているはずだ。

するとどうだろう。先の引用文が、実に強烈なパンチを帯びていることに気付かざるを得ない。まず霊言自体が茶番であるという視点に立てば、ありもしない”霊”のスタミナを気遣うというのが可笑しく思えてくる。一方で、本田がサッカー選手であり、サッカーの試合時間が90分であるということ、サッカーにはスタミナを要するという事は、確かにその通りだ。そこで「だから霊言にもスタミナがいるんだ」という、もっともらしいけれど論理的なのか論理的でないのかよく分からない設定が登場する。

霊言を本物だと思っている信者から見れば、クスッと笑えるジョーク、くらいに思うかもしれないし、あるいは「そうなんだ、霊にもスタミナがあるんだ」と本気で受け取るかもしれない。しかし非信者から見れば、この発言には霊言それ自体が持つ虚構性やクレイジーさと、サッカーに関する客観的事実やもっともらしい論理が混在している。クレイジーな虚構に、なぜか現実味が同居しているのだ。

そして、この冗談みたいな大川の発言は、あまりにおかしいので、もしかしたら本当に単なるジョークかもしれない。そう考えると、もはや大川の「霊言」パフォーマンスやスタミナにまつわる設定が、どこまで真実でどこからウソか…いや、どこまで本気でどこから冗談かさえ分からないという”境界の揺らぎ”を感じる。
これらの要素が、強烈なパワーを放っている。ここでいうパワーとは、言うなれば「パワーワード」の「パワー」だ。およそ大川隆法という男にしか実現し得ない、独特の滑稽さであろう。

この記事は上記以外にも、注目すべき記述に満ちているが、今回はひとまずこの辺にしておく。

このように、久々にある文章を読んでみると新たな発見があったりする。そして、それを通して現在の自分の心境というか、マインドコントロールの解除度合いのようなものを確認できることも、ある気がしている。(了)

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