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終点/短編小説

真菜は十九歳で、練馬で生まれ育った。区内でも東寄りの、静かな住宅街に真菜の実家はあった。もともとは母親の実家だった。両親は真菜が幼いころに離婚している。父親とは別居していたが、姉の分も合わせて相当な額の養育費が送られていたため、不自由はほとんどなかった。姉妹どちらも高校・大学と私立を選ぶことができたし、フレンドシップのあるキャバリアを二匹飼うこともできた。

 でも彼女の心に重大な欠陥が発見されたのはずいぶん後のことだった。そのきっかけは明白なできごとだったけれど、それは直接的なことにすぎない。彼女のガラスのコップにひびが入り始めたのは、もっと過去の、もっと些細なことだったのかもしれない。あるいは、生まれときから、ひびわれたままだったのかもしれない。彼女の心からは常に“なにか”が漏れて出ていたのだ。

 そのちいさなひびを、誰かが、パテで埋めることができなかったのだろうか。彼女のガラスはもう割れてしまって、元に戻すことはできない。

 彼女は終点にたどり着いてしまった。


 「じゃあ、俺のことは、カケフって呼んでくれ」と、彼は言った。カケフの『フ』にイントネーションがあって、すぐに関西人だということがわかった。

 「別にバースでもいいねんけどな」と彼は付け足したが、真菜はそれを拒否した。彼はどう見たって日本人で、関西人だ。それにバースさん、なんて呼ぶのは、オタクのオフ会みたいで恥ずかしい。真菜はそう思ったが、あえて口にはしなかった。彼はしばらく間を開けて言った。「ちゅうことはきみ、カケフもバースもしらんのやな」そして確認のために真菜の顔を覗き込んだ。真菜が知らないと、いうと、カケフは鼻だけで小さく息を吐いた。「別にええけどさ」あとから、バースも掛布も阪神タイガースの有名な選手だということを知った。

 真菜は大学受験に失敗して浪人することを決めたが、それから三ヶ月経ってもぬけがらみたいな生活を送っていた。高校三年のときにとりあえず付き合っていた恋人と、とりあえず同じ大学を志望していたが、なにかの罰ゲームみたいに恋人だけが合格してしまった。その時点でそのひとにはもう興味がなくなっていたが、迫られて一度だけセックスをした。彼女にとっては初体験だった。どうでもいいひとが初めての相手だと、往々にして次の相手もどうでもよくなる。

 それから真菜はマッチングアプリをつかって数人の男性と人工的に出会うと、無造作に関係を持つようになった。最初から最後までなにかの穴を埋めるために行っていたセックスだったが、そんなものは存在しなかった。幸い彼女の容姿はあきらかに美人の部類にはいったし、髪や肌は常に美の努力によって保たれていたから、男が絶える心配はほとんどなかった。しかし、やがて常に複数の男性との関係を保っていないと、ひどく不安になって、ヒステリックになるようになった。

 掛布とはもちろんマッチングアプリで出会った。その彼の登録名が『バース』だったのだ。真菜のほうはほとんどそのまま登録していたからその必要はなかったが、彼と円滑なセックスをするためには本名を聞き出す必要があった。そして彼は掛布と名乗ったのだった。

 掛布はごくごく普通の見た目で、とくにとりあげるような点もない、どこにでもいるような顔だった。強いて言えば眉毛が太く、若干エラが張っていたが、べつに彼女のセックスの邪魔をするような欠点ではなかった。たしかに比較的清潔感があったかもしれないが、マッチングアプリに女性との肉体関係を求める男(一般的にヤリモクといわれる)の清潔感なんてたかが知れていることを、真菜は知っていた。

 彼は手始めに多くのことを彼女に問いかけた。どこに住んでいるのか、なにが趣味なのか、何色が好きか、野球は…見いひんか。そして関西人特有の話のうまさでいくらか関係を盛り立てようとした。それは彼の一種の礼儀みたいなものらしかった。しかし真菜にはそれがひどくうっとうしく、すべてが無駄のように思えてならなかった。それに彼女はどんなに親密な関係(多くはセックス・フレンドだったけれど)であっても、互いのプライバシーには踏み入れることをしないという、ひとつの一貫したポリシーを持っていた。彼は彼女になにひとつ応える意思がないことを悟ると、すこしだけ自分のことを語った。「俺はね、話し方からわかると思うけど、関西出身なんや」その語り口は、ふだん身の上話をしていないひとのものだった。彼は彼女へ問いかけたときとは打って変わって、自信のなさそうな、柔らかい声色をした。「関西ゆうても親父が鳶職やったから、いろいろ転々としよったんやけどね」

 「生まれは京都やねんけど」と彼は言った。そして付け加えた。そんな風にはみえへんやろ。たしかに彼の関西弁は、京都というよりももっと南側のもののように聞こえたし、京都人特有の上品さは掛布にはなかった。でもそんなことは、彼女にとってどうでもよかった。そして真菜はほんとうに一瞬だけ、京都に住んでいる父親のことを思った。でもそれもまた彼女にとって多くの、どうでもいいことのひとつだった。



                     *



 彼らは無言でキスをし、同じ手順で前戯を終えて、そして結合した。いつもと変わらないなんでもないものだった。でも真菜はそのあいだに、いろいろなことを考えた。掛布のこと、阪神タイガースのこと、プロ野球が好きだった中学時代の友達のこと、父親のこと。すべてはどうでもいいことだった。すべては自分を幸福にしなかったもので、過去に断絶されてしまったものか、あるいはこれから二度と出会わないものごとなのだ。彼女の孤独は、それを共有できなかった過去のひとびととの間に、根底に、常に流れ続けている。大雨が降れば水流が増すように、孤独の流れはときに強くなったり弱くなったりする。それだけのことだ。


 「終点って、知ってるか?」と掛布は言った。彼女は首を振った。どういう意味で彼が喋っているのか、彼女には予想しかねたからだ。彼は冗談っぽく笑った。「きみ、なんも知らんのやな」真菜はふだん怒るところで怒らなかった。

 掛布は続けた。「終点っちゅうのはな、辛いもんやで。俺は行ったことがある。暗くて寒くて、出来損ないばっかりおるとこや」

 真菜は終電で居眠りをしたことで、遠く異郷の果て(たとえば高尾山とか)へ連れて行かれてしまった掛布を想像した。なんなく想像できた。それを伝えると、彼は「ちゃうちゃう」と言った。「終点っちゅうのは、西武球場前とか、そういうことちゃうねん。もっとこう…」そしてすこし考え込んだ。「観念的なもんや」

 真菜には、彼の言っていることがわからなかった。たぶんそういう表情をしていたのだろう。彼は真菜に尋ねた。「きみ、どこに住んではるんやっけ」小竹向原。

 「そらきみ、えらいあかんとこに住んどるな。小竹向原ゆうたら、終点やないか」たしかに、小竹向原駅は車両によっては西武線の終点にもなるし、それから先は東上線とか、みなとみらい線とかに繋がる。

 「ちゅうことは、終点の怖さをしらんのやな。小竹向原は終点ゆうても、最果てちゃう。だから、知らん間に慣れてしもうとるんや」

 池袋のラブホテルは狭く、わざとにしても暗すぎた。窓はひとびとの熱気がこびりついて曇り、外の光を淡く遮っていた。それに多くの点で粗雑と言える。ベッドは体重をかけるたびに嫌な音をたてたから、ふたりはそれを気にしないように努力しなくてはならなかった。

 「いいか?きみ。終点に行ってしまったら、帰ってくる方法はあんまりない。たいがいの場合“直通電車”やし、“終電”や。でもな、不思議なことに、プラットフォームはふたつある」

 掛布はわかるか?といった。真菜はその瞳があまりに真剣なので、頷かないわけにはいかなかった。彼女はふいに、彼が自分の名前をいちども呼んでいないことに気がついた。


 掛布とはその後も何度か会おうと連絡を取り合ったが、なにかと予定がずれてしまって、結局のところ二度とあうことはなかった。彼はその夜の数ヶ月後にとつぜんマッチングアプリから姿を消してしまった。ただ、その手のアプリでは、別に珍しいことでもないのだ。

 彼女のその一年間は、空白の時間となった。彼女はその時間の中でたしかに、いままでで一番大きな何かを失った。でもそれは大学に入学したと同時にもうなかったものとされてしまった。なにかを埋めるために多くの男と関係を持ったという事実も、その身体で実家で生活していたという事実も、すべては消し去られてしまった。それらは自己を悲観するにはあまりに汚れていたのだ。彼女はそういうできごとは、すべて都合よく消してしまう。

 真菜は自分を幸せにしてくれないひとびとと断絶を繰り返しながら、そのたびに孤独の川に溺れてきた。もちろん、受け止める“コップ”のない彼女の川は、ひとのそれよりも太く、長く、冷たい。でも、たしかに割れたガラスは決してもとに戻らないけど、川から引きずりあげてくれる誰かは、いつも彼女のそばにいたのかもしれない。

 彼女は池袋から三駅だけの西武有楽町線にのり、終点の小竹向原駅で降りる。そしていつも、偽物の掛布についてほんのすこし、考える。

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