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歪んだ古代ギリシャ――レニ・リーフェンシュタール《オリンピア》の献辞にみる

はじめに

 神殿らしき建物の石壁には、あたかも古代のギリシャ人が彫り込んだかのように――しかしドイツ語で――こう記されている。

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GEWIDMET/DEM WIEDER BEGRUNDER/DER OLYMPISCHEN SPIELE/BARON/PIERRE DE COUBERTIN
 〔オリンピック競技の再興者ピエール・ド・クーベルタン男爵に捧ぐ〕 

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ZUR EHRE/UND/ZUM RUHME/DER JUGEND/DER WELT
〔世界の青年たちに敬意を表し彼らの栄光を願う〕

 レニ・リーフェンシュタール(1902~2003)監督の映画《オリンピア》(1938)第1部《民族の祭典》の冒頭に記された献辞である。ヒトラー政権下で開催された1936年のベルリン・オリンピックを記録したこの映画ほど毀誉褒貶の激しい作品もない。一方では、運動する身体の美を徹底して追求したスポーツ映画の最高峰との賞賛があり、他方では、ファシストの美学を示す壮大なナチのプロパガンダ映画との非難がある。おそらくは、その両方の要素を併せ持つ映画であるのだろう。献辞に続いて「プロローグ」において登場する古代ギリシャの裸身像は、均整のとれた理想的な身体美を表わし、そして古代ギリシャの名彫刻であるミュロンの《ディスコボロス(円盤投げ)》が、この大会の十種競技に出場したドイツのスター選手エルヴィン・フーバーの姿に変わるシーンは、当時のドイツで信じられていたアーリア人のギリシャ起源説を象徴している。新人文主義以来、ドイツにおいて人間形成の理想とされてきた古代ギリシャの芸術と、この新人文主義がナショナリズム化していく過程で起こった裸体主義や体育教育観、その両方が、《民族の祭典》のプロローグに込められていると言ってよい。

 このプロローグは、この映画中の名シーンとして、評論や研究論文においてしばしば語られてきたが、冒頭に示される献辞については、これまでほとんど注目されてはこなかった。たしかに、オリンピックの記録映画を近代オリンピックの創始者クーベルタンに捧げることに、不自然な点はないように見える。しかし、ドイツのナショナリズムを色濃く反映したこの映画の最初に表れる名前が、たとえば総統アドルフ・ヒトラーでも、「体操(トゥルネン)の父」として尊敬されたルートヴィヒ・ヤーンでもなく、なぜフランス人のクーベルタンなのか、と改めて考えてみると、この献辞にもまた、単なる形式的な決まり文句という以上の意味があるように思われるのである。また、「青年 Jugend」という言葉も、《オリンピア》が製作された時代背景に、「自由ドイツ青年」や「ヒトラー・ユーゲント」などの団体によって展開されたドイツ青年運動があったことを考えると、やはり特別なニュアンスが込められていると考えられる。

 本稿においては、レニ・リーフェンシュタールの映画《オリンピア》を採り上げ、その冒頭に掲げられた献辞がもつ意味を検討する。第1章においては、「クーベルタン男爵に捧ぐ」という言葉に着目し、クーベルタンの言葉やオリンピックの思想がナチス・ドイツの国家戦略にどのように取り込まれたかについて論じる。また第2章においては、クーベルタンの教育思想および当時のドイツにおける青年運動や教育関連の法律、映画を概観し、《オリンピア》においてクーベルタンへの献辞に次いで提示される「世界の青年に」という言葉との関連を検討したい。

1. ナチス・ドイツと古代ギリシャ

 近代オリンピックの礎を築いたピエール・ド・クーベルタン男爵が世を去ったのは、ベルリン・オリンピックの開催からほぼ1年後の1937年9月2日のことであった。つまり、この第11回ベルリン大会は、クーベルタンの生前最後のオリンピックであった。リーフェンシュタールの《オリンピア》は、クーベルタンの死から半年が過ぎた1938年3月に完成し、ヒトラーの誕生日である4月20日に初上映が行われた。

 《オリンピア》全篇を通して、クーベルタンは献辞に名を残している以外、映像には一切登場していない。またアナウンスや演説のなかで彼について言及されるシーンもない。

1. 1. 開会式におけるクーベルタンの演説

 デイヴィッド・クレイ・ラージによると、クーベルタンの演説は、実際にオリンピックの開会式(1936年8月1日)の式典プログラムのなかに組み込まれていた[1]。ただし、この開会式にクーベルタン本人は出席しておらず、かわりに彼の声の録音が、拡声器で競技場全体に流された。その録音が流されたのは、選手入場の直後であった。演説の内容は、「オリンピックの意義は勝つことにではなく参加することにある」[2]という、今日よく知られた彼のメッセージである。

 「クーベルタンの演説の録音を流した最大の動機は、近代オリンピックの創始者をナチの大義のために勝手に利用することにあった」とラージは指摘している[3]。式典では、クーベルタンの言葉に続いて、ドイツ組織委員会会長テーオドール・レーヴァルトが、ナチス・ドイツと古代ギリシャとの間に「血の繋がり」があることを主張する演説を行い、その後にヒトラーの開会宣言――「第11回近代オリンピアードを祝い、ベルリン大会の開始を宣言する」――が続く。《民族の祭典》の映像で見ることができる開会式の演説シーンは、このヒトラーの開会宣言のみであるが、式典の最初に近代オリンピックを復活させたクーベルタンの言葉を流し、それを受けてのレーヴァルトの演説、さらにヒトラーによる開会宣言へと繋げるプログラムによって、ナチス・ドイツをオリンピックの精神の継承者とする演出がなされているのである。

1. 2. 開会式と《民族の祭典》プロローグの構成

 ここで、クーベルタン→古代ギリシャとドイツの繋がり→ヒトラーの開会宣言、という式典の構成が、《民族の祭典》のプロローグと大枠で一致していることに注目したい。開会式においてレーヴァルトが述べたナチス・ドイツと古代ギリシャとの「血の繋がり」が、リーフェンシュタールの映画においては、ミュロンの彫像とエルヴィン・フーバーの姿とのオーヴァーラップ、あるいはギリシャからベルリンへの聖火リレーとして表わされているのである。《民族の祭典》の冒頭に掲げられた「クーベルタン男爵に捧ぐ」という言葉には、この献辞に続く「プロローグ」で最初に映し出されるギリシャ神殿や彫刻群と同様に、ドイツが向うべき一つの目標が(ただし歪められたかたちで)暗示されているのではないだろうか。

1. 3. 聖火点火式におけるクーベルタンのメッセージ

 開会式においてクーベルタンの演説の録音が流されていたたように、ナチス・ドイツは、オリンピックの開催にあたってクーベルタンの名前を「効果的に」活用した。オリンピック開会式の約2週間前に行われた聖火の点火式(1936年7月20日)においても、クーベルタンの言葉は式典のなかに組み込まれている。ラージは、この点火式の様子を次のように記している。

国際オリンピック委員会(IOC)の役員がピエール・ド・クーベルタン男爵からのメッセージを読み上げた。〔……〕クーベルタンはメッセージの中で、「何世紀にもわたって道を照らすことをやめず、その古の解決法が今日でも変わらずに適用できる永遠のヘレニズム」の精神を引き合いに出した。すると、現代の世界においてどの国家が「古の解決法」を最もよく適用することができるのかを示すかのように、ギリシア駐在のドイツ大使は、オリンピックの聖火は「わが総統アドルフ・ヒトラーおよび総統の全ドイツ国民に」対する幾時代を超えた挨拶であると述べた。[4]

 IOC役員が代読したクーベルタンのメッセージにある「ヘレニズムの精神」とは、古代ギリシャにおいて競技開催中に敵国の選手を襲ってはならないとした「オリンピック休戦」にほかならない。クーベルタンは、この「オリンピック休戦」を理想化し、近代オリンピックの開催が国家間の軍事衝突を止める機会になると主張していたが、ベルリン・オリンピックの点火式において、この「ヘレニズムの精神」は、ナチス・ドイツの国家戦略にすりかえられる。点火式では、ドイツ大使の言葉に続いて、「大使の言わんとすることを強調するかのように」[5]ドイツ国歌とナチスの党歌《旗を高く掲げよ(ホルスト・ヴェッセルの歌)》が演奏された。「世界中から集まった若者による、「平和」で見事な運動の技倆を讃える荘重な儀式が、ナチ政権下のドイツの暴力的な気風を思い起こさせるものを含むことが適切かどうか疑った者はいなかったようだ」とラージは記している[6]。しかしその数年後、ギリシャからブルガリアへ、ユーゴスラヴィア、ウィーンを通って、ミュンヘン、そしてベルリンへと至る聖火リレーのコースを逆に辿るかのように、ヒトラーの軍団は東ヨーロッパへと覇権を拡大していったのであった。

2. 健全なる身体に健全なる精神が宿る

2. 1. カロカガトスという理想

 古代アテネの教育概念を導いた理想とは、「カロカガトス」という言葉に象徴される「美と善の両方を備えた人間」という考えであった。「美(カロス)」とは身体の美を指し、「善(アガトス)」とは倫理的成長を表わす。つまり「カロカガトス」とは、逞しい身体と発達した精神の両立であり、「健全な身体に健全な精神は宿る」という格言も、この理念に由来する[7]。この格言にみられる「身体」と「精神」の相関は、19世紀末から20世紀初頭の教育論においてしばしば強調されてきた。

 古代オリンピアの精神を現代において復活させようとしたクーベルタンの教育思想の根幹をなしたのも、身体の鍛錬を通じた精神の陶冶であった。普仏戦争(1870~1871)でドイツ連邦に敗北を喫したフランスでは、戦後、青少年の肉体的・精神的な弱さを改善し、国家を再生させるための教育改革が進められていた。クーベルタンは、1883年から1887年にかけて、イギリスのパブリック・スクールを視察し、その成果を論文「イギリスにおける教育」(1888)にまとめている。そのなかで彼は、フランスの子供たちが置かれている状況について、「彼らは知識を詰め込まれ、生き辞書にされて疲れ果て、その知性ばかりを太らせて体力(force physique)と精神的エネルギー(énergie morale)は奪われている」と述べた[8]。この「体力と精神的エネルギー」という言葉をクーベルタンが記したとき、彼の脳裏にはおそらく、「健全な身体に健全な精神は宿る」という格言があったに違いない。そして近代オリンピックの開催するうえでも、クーベルタンにとっての関心事の一つは、スポーツを通じたフランスの青年たちの肉体的・精神的強化であったと言われている[9]。

2. 2. ドイツにおける文化批判と青年運動

 クーベルタンが「イギリスにおける教育」を著したのと、まさに時を同じくしてドイツで起こったのが、急速な近代化に対する「文化批判」であった。知識詰め込み主義や身体教育の軽視を批判するユーリウス・ラングベーンの『教育者としてのレンブラント』が書かれたのは、1890年のことであり、この著作は、当時の多くの青年たちの間で読まれた。普仏戦争に勝利した側、敗退した側、その両国において同時期に、近代の超克をはかる教育改革論が展開された事実は、興味深い。

 ドイツにおいては、『教育者としてのレンブラント』やニーチェの諸著作の流行を背景として、「生のリアリティ」や「体験」を希求し、自然への回帰を目指す青年運動が展開した[10]。そしてこれらの運動が重視したのもやはり、身体と精神の鍛錬、すなわち体操や禁欲・節制であった。さらに、1911年に発布されたプロイセン政府の青少年育成令においても、「強靭な肉体、倫理的な共同精神、祖国愛をもった反社会民主主義的青少年を育成する」ことが謳われている[11]。

2. 3. 《美と力への道》、そして《オリンピア》へ

 「健全なる身体に健全なる精神が宿る」という理念に関して、《オリンピア》との関連で注目すべきは、ヴィルヘルム・プラーガー監督の文化映画《美と力への道》(1925)である。この映画の当時のプレス資料には以下のように書かれていた。

健全なる身体に健全なる精神が宿る、という古きギリシャのことわざは、今日でも意味をもっている。〔……〕第一次大戦前、わが国の少年たちは軍隊での教練以外に肉体的に鍛錬される機会がほとんどなかった。少女に関しては、残念なことにそのような鍛錬はおこなわれていなかった。〔……〕合理的に身体を育成し、訓練しようと努力することの価値は、ますます認められつつある。私たちの映画は、この目的に到達する道を提示せんとするものだ。[12]

 全6部からなるこの映画に関しては、瀬川裕司によって詳細な分析がなされている[13]。その記述を要約すると、映画の第1部では、まず「真っ暗な背景に白いギリシャ神殿と彫像が浮かぶ」。さらに「局部を布で覆った古代ギリシャの若者が、神殿のようなセットで徒競走やボクシング、円盤投げなどに励む」シーンもある。また第6部においては、「局部だけを隠した6人の男性が、水のほとりでハンマーを振り回している。全裸の男性がハンマーを振る様子がスローモーションで示されたのち、やはり全裸の6人の男たちが右手から左手へ、左手からまた右手へと砲丸を放っては受けとめるさまが見える」。

 健康増進のためにスポーツを奨励することを目的として製作された《美と力への道》は、そのテーマに関しても、またその構成要素に関しても、《民族の祭典》のプロローグと酷似しており、《オリンピア》の先駆的作品と見なせよう(《美と力への道》第6部に挿入された寸劇には、当時女優としてデビューしたばかりのリーフェンシュタールも出演しているとの説もある。ただしリーフェンシュタール本人は出演を否定している[14])。

 《民族の祭典》の冒頭に掲げられた言葉「世界の青年たちに敬意を表し彼らの栄光を願う」は、ここまでで概観したような普仏戦争後の教育改革論に根差していると言ってよい。すなわち、クーベルタンのオリンピック構想と、ドイツにおける文化批判および青年運動との間に通底する「健全なる身体に健全なる精神が宿る」という教育理念が、この言葉の背景にあると考えられるのである。

おわりに――人間形成論と人種選別政策

 以上を踏まえると、《オリンピア》第1部《民族の祭典》の冒頭に記された献辞は、当時の教育改革論に根差し、さらにその根底において古代ギリシャにおける人間形成論とも結びつき、それゆえにこそ、ナチス・ドイツと古代ギリシャとを繋ぐものとして機能したと言うことができるだろう。

 ただし、ナチス・ドイツにとって「古代ギリシャ」とは何であったのかについては、付言しておかなくてはならない。古代ギリシャに対するナチスの賞賛を最もかきたてたのは、民主政を実現させたアテネよりも、軍事国家スパルタであった。

ナチは、その優れたスポーツ能力の面でスパルタ人を賞讃したけれども、一番大きな関心を寄せていたのは、スパルタ人の「人種衛生学」での先駆的な仕事だった。スパルタ人は、虚弱な、あるいは畸形の新生児を殺すことが「人種の健康」によってきわめて大事であることを示しはしなかっただろうか?〔……〕  ナチの理論家によれば、ギリシア帝国がついにその高貴な絶頂から墜ちたのは、古代ギリシア人(とりわけアテネ人)が人種混交を許すようになり、民主主義の実験を始めたせいなのだ――民主主義とは、市民権の基盤を広げ、その結果、少数派の貴族の権力を弱めた政体なのだ。ドイツの学校でギリシアの歴史を教える際、ギリシアの衰亡を、古代ギリシアの現代の後継者をもって自認するドイツ人にとっての教訓とするように、という指示をナチは出した。「〔……〕民主主義による階級差の撤廃と、その結果である、無制限の人種混交のせいで、ギリシアにおける北方人種の命運は尽きた」。ナチはその轍を踏むことはないと、ヒトラーは明言した。[15]

 ベルリン・オリンピック開催の3年前にあたる1933年、ナチス・ドイツは「遺伝病子孫予防法」(通称「断種法」)を制定し(1934年1月1日施行)、遺伝病者とみなされる人間の選別と強制的な断種手術に着手した。さらに1935年9月には、「ドイツ国公民法」と「ドイツの血と名誉を防護する法」からなる「ニュルンベルク」法が成立する。この法律によって、ユダヤ人(と見なされた人々)は国籍を奪われ、すべての職業から締め出され、さらにこれと同時に、「ドイツ的血の純潔性」を守るためにユダヤ人とアーリア人との結婚が禁止され、婚外交渉も処罰の対象となった[16]。

 「健全なる身体に健全なる精神が宿る」という格言は、ヒトラーが『わが闘争』のなかで強調した言葉でもあった。彼は次のように述べている。

腐った肉体は輝かしい精神をふきこんでも、全く美しくはならない。そのうえ肉体的に腐って不具であり、性格において意志薄弱で、ぐらつき、そしてひきょうな人間であるならば、最高の精神的教養も全く立派なものにはならないであろう。ギリシャの美の理想を不滅ならしめたものは、すばらしい肉体の美と輝かしい精神と、最も高邁な心情の驚くべき結合である。[17]

このような選別に基づく「健全なる身体」、「健全なる精神」は、もはや人間形成論ではない。古代ギリシャを規範とした新人文主義以来の人間形成論は、ナチス・ドイツにおいては、スパルタを規範とする人種選別の思想へとすりかえられたのである。

 神殿らしき建物の石壁に、あたかも古代のギリシャ人が彫り込んだかのように――しかしドイツ語で――記された、映画《オリンピア》の献辞。それは、ドイツにおいて人間形成論の規範であった古代ギリシャが、ナチスによって、歪められた姿の象徴と言えるのである。

(2009年7月)

主要参考文献

リーフェンシュタールの著作・インタヴュー

リーフェンシュタール,レニ『回想』上下巻 椛島則子訳 文藝春秋、1991。
Leni Riefenstahl. http://www.leni-riefenstahl.de/
岩上安身「ベルリンの壁崩れて沈黙を破った レニ・リーフェンシュタール「民族の祭典」監督が語る“政治とオリンピック”」『Number』no. 246(1990)。
鵜飼宏明「「民族の祭典」は生きていた――ヒットラーを狂喜させた女流映画監督レニ・リーフェンシュタール会見記」『文芸春秋』vol. 50、no. 13(1972)、pp. 114-126。

リーフェンシュタール関連二次資料

平井正『レニ・リーフェンシュタール――20世紀映像論のために』晶文社、1999。
――――「1936年ベルリン・オリンピックと記録映画『民族の祭典』『美の祭典』」『Aspekt――立教大学ドイツ文学科論集』no. 32(1999)、pp. 295-311。
飯田道子『ナチスと映画――ヒトラーとナチスはどう描かれてきたか』中公新書、2008。
インフィールド,グレン・B.『レニ・リーフェンシュタール――芸術と政治のはざまに』喜多迅鷹、喜多元子訳 リブロポート、1981。
伊藤守「規律化した身体の誘惑――ベルリン・オリンピックと『オリンピア』」清水諭編『オリンピック・スタディーズ――複数の経験・複数の政治』所収、pp. 91-107 せりか書房、2004。
ラージ,デイヴィッド・クレイ『ベルリン・オリンピック 1936――ナチの競技』高儀進訳 白水社、2008。
ローター,ライナー『レーニ・リーフェンシュタール 美の誘惑者』瀬川裕司訳 青土社、2002。
瀬川裕司『美の魔力――レーニ・リーフェンシュタールの真実』パンドラ、2001。

その他の資料

クベルタン,ピエール・ド『オリンピックの回想』カール・ディーム編、大島鎌吉訳 ベースボール・マガジン社、1976。
ヒトラー,アドルフ『わが闘争』上下巻 平野一郎、将積茂訳 角川文庫、1973。
小石原美保『クーベルタンとモンテルラン――20世紀初頭におけるスポーツ思想』不昧堂出版、1995。
パリー,ジム、ギルギノフ,ヴァシル、桝本直文『オリンピックのすべて――古代の理想から現代の諸問題まで』大修館書店、2008年。
上山安敏『世紀末ドイツの若者』講談社学術文庫、1994。
矢野久、ファウスト,アンゼルム『ドイツ社会史』有斐閣、2001。

[1] デイヴィッド・クレイ・ラージ『ベルリン・オリンピック 1936――ナチの競技』高儀進訳(白水社、2008)、pp. 308-309参照。
[2] 「勝つことではなく参加することに意義がある」というクーベルタンの有名な演説は、1908年のロンドン・オリンピックの閉会式においてなされたのが最初である。
[3] ラージ、前掲。
[4] 同前、pp. 7-8。
[5] 同前、p. 8。
[6] 同前。
 [7] ジム・パリー、ヴァシル・ギルギノフ、桝本直文『オリンピックのすべて――古代の理想から現代の諸問題まで』(大修館書店、2008年)、p. 28参照。
 [8] 小石原美保『クーベルタンとモンテルラン―20世紀初頭におけるスポーツ思想』(不昧堂出版、1995)、p. 39。
 [9] ラージ、前掲、p. 27。
[10] 上山安敏『世紀末ドイツの若者』(講談社学術文庫、1994)参照。
[11] 矢野久、アンゼルム・ファウスト『ドイツ社会史』(有斐閣、2001)、p. 181参照。
[12] 瀬川裕司『美の魔力――レーニ・リーフェンシュタールの真実』(パンドラ、2001)、p. 228。
[13] 同前、pp. 228-232。
[14] 同前、pp. 231, 233-234参照。
[15] ラージ、前掲、pp. 16-17。
[16] 伊藤守「規律化した身体の誘惑――ベルリン・オリンピックと『オリンピア』」清水諭編『オリンピック・スタディーズ――複数の経験・複数の政治』(せりか書房、2004)所収、pp. 104-105参照。
[17] アドルフ・ヒトラー『わが闘争』下巻 平野一郎、将積茂訳(角川文庫、1973)、p. 56。