不安魚子の生

不安魚子の生活は腐ってしまった。魚子はコップに水を注ぎ、そのいたく茶色いことにひとり怒っていた。魚子は18歳の人間で引きこもりがちである。その身分は大学生だが本人は気に入っていなかった。また満足に学校に通っていないため、身分の名はあってないようなものだった。不安魚子はこうして毎日何をするでもなく日当たりの悪い部屋で自分の生について思案している。なぜ生活がそう腐ってしまったのか、ここでは魚子の近年を、事実をとっても端的に紹介することによってみなさんと一緒に考えたい。
 魚子は元来難しい性格をしていた。気難しいという意味ではない。理に適っていない順番を無視した感情があったり、思考にノイズが多い人間だった。
 魚子の高校時代について。魚子は高校三年間がちょうどコロナウイルス騒動の渦中にあった。高校一年生は六月から分散登校が始まった。魚子は中高一貫校に高校編入組として入った。とはいえ友達もできて満足に楽しかった。バスケ部にはいり、文化祭実行委員をやり、クラス内に喋れない人がいないほど明るく過ごした。とはいえ難しい性格はもちろんそのまま持ち合わせていて、年に数回気分を病んで保健室登校をすることが何回かあった。「悲しい出来事は無いが、強い絶望感や悲しい気持ちだけがある。」と言って泣いた。後にこれはpmsによるものじゃないかと自ら考察した。安部公房をよく読み、傾倒した。
 魚子の高校三年生について
友人の自死を二回経験した。六月と八月だった。葬式には呼ばれなかった。メンタルを崩して何もできなくなった。不登校をするのも登校して授業を受けるのも登校して対処を受けるのもそれぞれうまくいかなかった。頼れる人は誰もいなく、人は一人で生きているということを知った。時間がただすぎるのを耐えながら浪費して大学生になった。AO入試で受かって秋に受験勉強が終わった。
 大学に入って軽音部に入った。なんとなく学科の人や人と軽い友情関係を築くことに強い抵抗感を持つようになっていた。それを乗り越えて、この人とは深い仲になるだろうと思ってできた友人のことを些細なキッカケで嫌いになった。それからメンタルを大きく崩した。二学期から不登校になり引きこもりがちになった。簡単な遺書を書いたり頻繁に自傷するようになった。とうとう睡眠薬の過剰接種をしたが、そこまでの量ではなかったため元気な顔で救急夜間病院から帰ってきた。(魚子の友人は自死の際救急車で運ばれたため、身体的に緊急性のないことで救急車を呼んでしまったことにかなり強い罪悪感を抱いている。家には警察も来、両親にも連絡が入った。)それ以来、大学のカウンセラーに紹介状を書いてもらって精神科にかかったり、休学することが決まったり徐々に状況は改善されている。精神科からブロチゾラム錠、スルピリド錠、クエチアピン錠が出され毎日服用し病的な精神状態も改善されている。
 魚子はこうして宙ぶらりんなまま今も冷たい部屋で生活のことを考え込んでいるのでした。魚子のこれからはどうなっていくのでしょうね。おしまい。

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