ぬるま湯

お正月に帰省したとき。(地方の県内です)


親元離れたばかりの頃は、たまの帰省を満喫しようと手伝いもせず遅寝遅起でだらだらしてたけど、会う友人もいないし田舎だし私物は最低限しかなく暇なのにそれは却ってしんどいということにここ数年で気づいて、帰省中もばりばり家事手伝ったり勉強したりするようにした。今のところ親は変わらず元気なので、本当に自分のために手伝う。

でも、冬の夜の食器洗いだけは、未だにどうしても気が進まない。あの台所、お湯がなかなか出ないから。

冷たいだけならまだ我慢するかもだけど、お湯じゃないと油汚れ落ちないし、油じゃない汚れも落ちたんか落ちてないんかよく分からんし、お湯が出るまで大量の水をダダ流しにするのも、お湯出たと思ったらまた冷水になるのも、とにかくストレス。

ストレスだからこそ、母親にさせたくないのに…。(父親はまあなんかいい、家事やる方だけど、どちらにせよ父は夜すぐ寝るので)


この感じは子どもの頃もあった。子どもの頃住んでいた家の台所は、ちゃんとお湯が出たけれど。

平日でも休日でも、夜ご飯を皆で食べた後、みんな食器を流しまで運んだら、コタツでテレビを見たり自分の部屋に戻ったりする。夜が更けるほどにリビングの人数は減り、常に最後が母親だった。

母親は疲れているらしく、コタツで口を開けて寝落ちしていた。リクライニングした座椅子の角度が、逆に苦しそうに見えた。もちろん台所には食器がたまったまま。

最後の2人のうち1人となった私は、食器を洗った方がいいのだろうなとは考えるものの、寒く薄暗い台所に行くことも憂鬱だった。時間が経つごとに憂鬱が増す。それなら早めに済ませておけばいいのに、台所にもストーブがあるからそれを点ければいいのに、もうちょっと後で、を繰り返している。ぬるま湯から出られないときに似て、それはもうすごくすごくしんどい。母親も同じ心理だったであろうことは、ものすごく分かる。だからそのストレスを取り除いてあげたいのに、自分の怠惰が勝ってしまう。


子どもの自分はいよいよ寝なければならないという時間になると、食器を洗うのは諦めて、先に寝室に戻らせてもらうことにする。

でもその前に、母親を起こした方がいいのか分からない。母親がどれくらい疲れていて、あとどれくらいこのまま眠っていたいのか、あとどれくらいこのまま眠っているべきなのか、あとどれくらいこのまま眠っているつもりなのか。コタツやテレビや部屋の電気は消した方がいいのか。私はいつも分からないでいた。とりあえず起こさずに、コタツとテレビは消して、電気も常夜灯にしておくけれど、夜中に寒い中1人で目が覚めて体が痛くてだるくなった母親を想像してしまう。でもどうすればいいか分からないから仕方なくて、考えるのをやめて部屋に戻った。


大人になるにつれ、ぬるま湯からの脱出方法をなんとなく心得るようになってきた。だから最初書いたように、ダラダラしないでいられるようになった。昔は苦痛だった休日の早起きも、今では大したことはない。

けど、完璧に自分を律することが出来るようになったわけではないな…とこの正月に思った。それに、今は独り身で自由な身分だから大丈夫なだけで、予定はないけど子どもを育てる立場になったら、慌ただしさと疲れで、自分を律する以前の状態になるだろう。

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