事件や不祥事がもたらす社会的コスト

知床の沈没事故は引き上げ作業も行われ、一度落としてしまいましたが、それでも新たな展開を迎えました。この引き上げ作業や、行方不明者の捜索に多額の費用がかかったことに対して、運営会社やその経営者に対して費用負担を求める声は多いです。なんで税金で負担しなきゃいけないんだ、という思いは納税者としては確かにそれは全くもってその通りで、経営者の資産が一円も減らずにのうのうと寿命を全うされるとしたら憤懣も甚だしくなって当然です。

とはいえ、現行法で出来ることと出来ないことがあるのも当然であって、当人が厚顔無恥を全うして拒否し続けたら、行政なりなんなりが強制力を発揮するにも法の限界があります。国家や政府が国民の財産を処分するには、厳しい法的制限が設けられています。というか自由に処分できないのが当たり前です。

全ての費用を個人資産(あるいは法人の資産)から拠出できなければ、残りは税金から賄われることになります。それはやむを得ないことです。そうなると今度は、多額の費用をかけてまで捜索や引き上げをしなくてもいいのではないか、とか、もっと進んで酷い意見になると、そんな怪しい会社の船に乗った人が悪いとか、間違った自己責任論が出てきます。

その社会が何を重視しているか、という証明にもなりますが、少なくとも現代日本社会においては、事故に遭った人の家族にとってはその人の身体が戻ってくるのは重要です。また、船体を引き上げて事故原因や経緯を究明することは、今後二度とこのようなことを起こさないための法律や環境整備に役立ちます。結局のところ、税金を投入する理屈としては、社会を維持していくためのコストであるからです。

阿武町の誤送金問題についても、その金額の大半は町が確保出来たと発表していますが、残りの差額分や弁護士費用等については、被疑者が弁済できなければ税金で負担することになります。これについても、日本が法治国家である以上は、当人に鉄枷を付けて重労働させたり、臓器を売って負担させたりすることなど出来ません。

町側の責任も色々問われていますが、それは確かにそうです。ミスをした個人よりは管理職や町全体の責任を追及する声もありますが、そもそも人的資源が少ない過疎地域の自治体では出来ることと出来ないことがあるでしょう。このコストは、行政における業務手続きや承認プロセスの効率化や簡略化を至急行え、という動機付けの費用ということになります。

加害者あるいは被害者のための税金からの支出は、無関係な人にとっては疑問に思うこともあるかもしれませんが、今自分が住んでいる社会や仕組みを維持していくために必要な負担です。法的な加害者が負担すべき法的制限はあって当然で、それが無ければ無法国家でしょう。腹立たしい気持ちは分からなくもないですが。

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