26になる前に人生振り返ってみた。

早生まれの私は3月で26になります。その前にちょっと振り返ってみようかと。

波乱万丈、なんてものでもないけれど。まぁ、平凡でもないような。ワツィはそういう人生を今のところ歩いている気がします。

最初にぶっちゃけましょう。

何度も何度も人生諦めようとしたし(20になる前から)

中学では不登校で半分ほどしか行ってない。

診断は受けてないけれど、看護師の母から鬱と言われたことがある。

そうして、定期的に鬱になる。


そんななんでもない人生ですね。


ど田舎で育った私は、ど田舎の中でもよく言えば不思議で、そうでなければ変わった子だったと思う。大人になって、一度保育園で働いて強く思ったけれど、こんなに面倒な子をよくもまぁ、母は頑張って育ててくれたもんだな、と。

折り紙を三角に半分に折るにも、ほんの一ミリ以下の白い部分が見えれば大泣きをした。

お仏壇にお盆に飾る最中の皮を食べれないと泣くし、鏡餅を「お月様が食べていいって言ったよ」と昼間に訳わからんことを言って弟と噛り付き。食べたかったものが食べれなければいつまでたっても泣いてたかもしれない。大人になって恥ずかしいほどの食い意地である。


祖父母からすれば、長男の初の娘であり、母方からすれば初孫だったということもあって、それはそれは可愛がってもらった。

やりたいことはとことんやらせてもらい、自由にのびのび育ててもらったような気がする。

田舎であったことと、祖母によく預けられた私は、昔は裁縫と料理をあそびの如く教え込まれた。教えられたというよりも当たり前だった。小学生の時はまだ薪で風呂を焚く家だったので、18時に迎えにくる母を待つついでに薪をくべることも、夕飯を作ることも、宿題より全然楽しいことだった。

そりゃもう宿題は大嫌いで、祖母がチラシ裏に『婆ちゃんとどっちがかけるか競争ね』と早い早い、と褒めながら側で漢字の書取りをしてくれたのをよく覚えている。そうして音読もしたら、夕飯を作る。

その当時、『サラダで元気』の音読が宿題だった。魔女の宅急便の作者さんでもある角野栄子さんの話だった気がする。主人公の女の子が、元気のないお母さんにサラダを作る話だった気がするのだが、あれを入れたらいい、これを入れたらいい、と動物から材料をオススメされ、元気の出るサラダを作る、というもの。

それをまぁ、夕飯で作るという、うちの祖母は食育させたら右に出るものはいないんじゃないかと、今頃思う。

昆布はないからわかめ、とか、代用したものの今でも覚えている。

祖母の自慢話になってしまうが、伊藤家の食卓という夕方やっている番組があったのだが、テレビが終わるとすぐに祖母に電話をしてテレビの感想を言い合った。

そうして、折れたクレヨンを溶かして戻したり、茹で卵を花形に切ったり、色鉛筆と油で絵を書いたり、あれやこれやをすぐに試した。


本当に自由に育ててもらった。


祖母は今も元気である。


それでまぁ、なんでそんな私が鬱になるんだ、と思うだろう。私も知らない。

ただまぁ、自己肯定感はだいぶ低いようだ。

散々褒めに褒めて、さらに褒めて育ててもらった訳だが、年を重ねれば重ねただけ世界は広がっていった。田舎なんだもの。

小学生に上がる時、私は転校生だった。2クラスあった保育園がいきなり10人ばかりの1クラスに。そうして中学までの9年間を過ごした。

小学校では上級生はお姉さんお兄さんという印象だった。山登りも、運動会も、面倒見のいいお兄さんお姉さんにおんぶに抱っこに甘えただった。

それが中学に上がって先輩になった。1年前までお兄さんお姉さんという近しい存在だった人が、だ。私にとっては衝撃だったのだろう。

部活動も3つだけ。すべて運動部ということもあり、一つは野球部だったので実質2つだったが、私には合わなかったのもあった。2年生に上がった時だった。何がいやというわけでもない、いじめがあったわけでもない。ただただ学校に行けなくなった。いまだに理由はわからない。

ただ、先生が嫌いだった。ズカズカと家に上がり込むので、一階がぐるっと通り抜けできるので、息を潜めて家中を隠れていた。

そうして、お茶菓子だとお茶を習っていた母が抹茶を出したのは不味かった。

味ではない、状況だ。母の抹茶は美味しい。

「お母さんのお茶菓子が楽しみなのよね」まー、まぁまぁ、田舎だからこそだろうが、学校に行けない子供に『アンタじゃなくて菓子目当て』というのは非常にまずい。私は菓子に負けた、といまだに思っている。いまだに嫌だったな、とどこにもやれない思いを抱えている。

担任の先生もプッシャーがあったのだろう。「あなたが教室に行かないから!!」と始まった言葉はそこだけ覚えているが『アンタのせいで!!』と怒られたばっかりに関係のない同級生を傷つけてしまったのを、いまだに申し訳なく思っているけれど、今更どうやって謝っていいのかはわからない。

結局私はよそ者(転校生)だったという意識が抜けなかった。というのも他のみんなは保育園も一緒だったからだ。一年で辞めていく担任の先生はなんの問題もない、ただの移動だったのだが、先生がいい先生だったのもあり子供視点からは「あの子が来てからだ」と私のせいだと陰口を言われたこともある。

たった数人の世界だったために、一時はいじめもあったが、結局9年間クラスは変わらないので上部だけの付き合いというのが染み付いた気がする。

おかげさまで私は20超えるまで友達がなんなのかよくわからなかった。

そこから高校は最悪だったし、楽しいこともあったし。

ただまあいい思い出は少ない。いまだに趣味が似ているもの同士で通話したり、同人誌出したよ、と報告するくらいの友人はいるので悪いことばかりでもなかった。でもまぁ大型行事はもう二度とやりたくないし思い出したくもない。

被服関係を主に学んだのは、卒業したら調理に行きたかったので、それでもやりたかった被服は高校までと決めていた。やりたいことは高校までで終わりと決めていた。

それなりに成績の良い高校と専門学校に進むも、どちらもなぜ私が入学して卒業できたのかわからない。これがまぁ、たぶん、自己肯定感が低いところ。

自分の実力というのを信じられないのだ。

これがまったくもって厄介だった。多分鬱の原因のひとつ。

周りができる人ばかりだったらついていけば良いので楽なのだが、できない部類でまとまってしまうと「あ、自分がやんなきゃやばいやつ」と渋々前に立つ。そうして、珍しくあれやこれやと指示を出すが、それがどうにも嫌。周りにどう思われているんだ、というストレス。

根本、嫌われたくない、という思いが強いんだと思う。

そこから社会に出て初めての就職先は、就職と言おうにもアルバイトで、結論失敗した。ダメなことをダメと言われているが、方言のなまりとかかとを擦るなと休み時間に嫌味を言われ、パートさんのご好意で行き帰り徒歩の私を車についでだからとのせてもらうと、通勤経路が変わって事故ると問題だからと怒られたり。

そこで働く意味ある?と言われ、その時知り合ったばかりの人のところに転がり込むように東京に引っ越した。それが良いこととは思わないけれど、その時の行動としては正解だったと思う。

家に帰ると3人前の夕食を食べ、休みの日は死んだように一ヶ所に座って動かず、ロフトの手すりから首を吊れないかと考える始末。

そんな時、インターネット込みの家賃だったのでYouTubeを見まくった。その時初めて見たエウレカ セブンのセリフのあれこれには毎日救われていた。

何か目標に向かって生きているのがかっこいいと思ってみていた。

とにかくなんでも良いからアニメを見ていた気がする。喋るような友達はいなかったし、助けを求めれる人もいなかったので、ただただアニメに救われていた。

そうしてまぁ、一時期はマルチ商法に足を突っ込み、それ経由でシェアハウスもした。多分よくしてもらった。いろんな人にあった。多分人生で一番人間という人間にあったと思う。成人前から3年ほど。

シェアハウスが終わってから、私は胸にポッカリ穴が空いてることに気づいた。それがまぁ、多分、自己肯定感の低さを加速させて、その3年間意味が分からなくなったのだけれど。

ここでも結論を先に言うが、人間関係に金を挟むと本当にロクでもないので辞めたほうがいい。

そこのところがしっかり区別がつく人ならいいと思うけれど、私は結局、いいカモネギだっただろうなって思ってる。だから「あんなにお金払ったのに」と思うんだと思う。使わないわけじゃない。ただ、なくてもいいものが家に溢れている。「最悪」と時折脳裏によぎる。いつ使うんだこの大鍋、と毎度思う。家に呼ぶような友人さえいないのに、と思ったところで気づく。

友達ってなによ??友達いなくね???

思ったことをそのままその時の職場の同僚に言うと、「こんだけ話したら友達でしょ?」え?そうなん??そんな簡単なん???と思った。へぇそうなんだ、と思ったんだけど、その子とは職場が変わっても月一で遊ぶ仲である。ダンガン旅行だっていけちゃう友達である。

その後後輩だけれど素敵なお姉さんと言う感じの先輩みたいな人と職場が被ったが、この人も職場が一緒の時は散々お世話になった。近くに住んでいたもう一人のお姉さんみたいな後輩という、面倒なので友達とまとめるけれど、この二人には本当にお世話になった。

肯定感低い私を常に褒めてくれたし、落ち込めばご飯だって言った。人とのご飯に怯えていた私だったけれど、人とのご飯ってこんなに楽しいんだなと思った。

同じ焼肉でも、ケーキでも、何も気にせず食べられると言うのは幸せである。

太るよ、と言う視線を前ではなく「太らないって思って食べたら0キロカロリーよ」と訳わからんこと言いながらも笑って食べる食事というのは体重増えても幸せなのだ。

手料理のクリスマスより、職場終わりにスーパーで買い込んで、惣菜ばっかりだったりケンタッキーを食べる、ある意味当たり前なクリスマスを初めてやった。

自分で作ったケーキじゃなくて、買ってきてくれたホールケーキを、みんなで突いて食べたのもいい思い出。

死にそうになって、本当に帰ったら死にそうで、子供の面倒を見ながら、帰ったら風呂場で死んでやろうって思った日。

上がったはずのその人が上まで上がってきて「今日ウチにおいで」と言ってくれたことも、上がりが一緒になったもう一人の友達が「ごはんいこっか」と言ってくれたことも嬉しかった。

そんな人いるんだな、と。本当に死にそうな顔してた、と後日言われたので、本当にひどい顔だったんだと思う。

「あのねぇ、助けてくれなかったんでしょ??そんなの友達じゃないからね。」と言い切った友達。友達じゃなかったのか、と不思議と悲しくはなかった。ただなんとなくほっとした。

私が、人間関係を面倒だとバサバサ切ってきたこともお見通しだったし、心開けないところがあることもお見通しだった。知らなかったことと、知りたかったことが知れてスッキリした年だった。

全肯定してくれるので、本当に。否定された記憶が今のところ出てこない。

それがいいことだけじゃないという人もいるかもしれないが、愚痴がないわけではないww

そう、愚痴は大いに言っていた。主に上司の。

吐かなきゃやってらんねぇ、と言わんばかりだったと思う。でもそういうのって言っていいんだなって思ったし、大事だと思った。

あれはダメこれはダメ。SNSの発信さえも言葉選ぶように言われた。そりゃそうだ、メンヘラ丸出しだったもの。だから心配していると怒られ、叱られることもあったし、礼儀だなんだ、といろいろ教わったけれど、たくさん、刺さったという気持ちである。いまだ抜けないものがあるけれど、一番大きかったのは「どうしたいの??」と聞かれて「一人で旅してみたい」と特にやりたいこともなくて苦し紛れに言った言葉に対して「じゃあ行けば?一人で行ってこればいい。」と返されたのは今でもしっかり覚えてるし、私は泣いた。あれは必要だったと言われたけれど必要だったんだろうか。

私は今でもわからないことばかりだ。

でもまぁ、片手埋らずとも友達がいる、としっかり言える。

泣きたくなったら声を出せるくらいの友達がいるというのは、とても心に余裕ができる。

今の職場も恵まれた。

毎日辞めたいと、一度はクレーム対応で驚いて終わった後とは言え泣いたこともあったのに、「明日もこいよ」「大丈夫だって」と励まされなんだかんだ半年経ちまして。

人によく恵まれた環境で、それなりに成長できる場所を見つけれたんだと思う。

成長できる環境がどういう場所か、わかってきたのも大きい。

どれだけ鬱でも、自分を上げれる環境と人さえいれば25年もどうにか生きてこれたな、と思った。


でも本当に、金の絡む付き合いは客と従業員か上司と部下にしかならなかった。

今だってそう、友達になりたくても店員さんとは購入者と販売者の枠から私は離れられないから。どんなにいい人であっても、私はそこから外れて仲良くなる術を知らないし、やっぱお買い物しなきゃ、ということが頭から離れない。

買わなきゃ話せない、買わなきゃ笑ってもらえない。買わなきゃすいてもらえない。

それってとても窮屈で、とても苦しい。

今もやっぱり鬱になるし「帰りたい病」を発症するし「いやいや期」もいまだにある。「知恵熱」だってでるし「今日はもうポンコツです」は口癖である。

でも、それでも生きてりゃこっちのもんって思ってる。周りがどう思ってるかの前に「ポンコツだから今日は何やっても褒めて」と先に主張することで生きやすくなるわけで。そのくらいのわがままが言えるくらいが生きやすいな、と。

私を嫌いな人は近づかないし、なんか言われても一回落ち込んで美味しいもの食べてよく寝て忘れる術を学んだし、褒めてくれる人に褒めてとねだればいい。

褒めはねだっていい!!これは大事だ。25歳で初めて知った。

褒められたら「大いに褒めて!もっと褒めて!!元気でます!!」それって素敵だと思うんだわ。「あなたは私を褒めることで今日は1日神様になれます」くらいの勢いである。職場で落ち込んだ時に対応したお客様を神様女神様と私はいうけれど、本当に、私を元気にしてくれる人っていうのはそれだけで誇っていいと思うので、ポンコツが元気になったくらい、ではなく、人を元気にしたと誇って欲しいんだ。

電話対応しているわけだけれど、がちゃんと切られて落ち込むし、心折れるし、死にたくだってなる。

そんな時に「ありがとうございます」と当たり前のお礼が神のお言葉に聞こえて、そっとおかれた受話器に拝みたくなるわけで、その人の1日、この週末が誰よりも素敵なものになるように、と冗談抜きで祈れる。

結構平和になると思う。

好きな人が幸せと笑うと、自分も幸せなんだな、とふと思う。

25年とかまだまだかもしれないけれど、振り返って思うのは結構スカスカだったなってこと。求めるべきものは何もなくて、手元には何もない。

でもしっかり大事なものは手に入れてるなってこと。

貯金はない。これは大変なことだと思ってる。

でもまぁ、友達がいるということがもう少し頑張ろうという気にさせてくれることを知った。

存外、寂しがりやなので。


こんなにだらだら書いてて、やっぱり学生生活のあれこれは泣きたくなるんだなと知った。

成人式だってやり直したいくらい。


でも人生、生きてりゃなんでもできるなって。

友達だってできる。自分から行動はしなきゃだけれど。

生きてりゃ失敗だってする。

失敗は恐れなくていい。でも怖がっていい。

やりたいことはとことんやっていい。

生きてりゃ人を傷つけることもあるけど、傷つくこともあるわけで。

傷ついた後どうすればいいのかどうしたいのか、とゆっくりでいいから考えればいいんだと思う。

人それぞれに行動がある。やりたくないことだって一つの行動なわけで。

それでも何かやりたいなら何か探そうとググるところからでも始めればいい。

そう指摘になるものが見つかったら外に出かけるなりすればいい。


26歳になったら、もうちょっと痩せたい()

もうちょっと着物着たい。

貯金したい。おいしいもの食べたい。

コスプレして、創作もしたい。


後、資格試験合格したい。


ちょっとずつ確実に、一つずつかなえていきたい。



だらだらと書いててすいません。

書いた本人は割かとスッキリしてます。

誰かの何かになれば幸いです。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

幸せなご飯代の一部になります。