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『意味論的転回』 第3章

研究室で輪読を行なっている『意味論的転回―デザインの新しい基礎理論』の第3章「人工物が使用される際に持つ意味」について、全体のサマリ、ゼミでの議論内容、読んだ感想をまとめていきたいと思います。(文責 M1 倉林)

サマリ

第3章の大枠

人間中心のデザインを説明するために、ここまでにデザインの歴史と、人間中心デザインの概念が紹介されました。製品意味論というコンテキストを用いて工業社会におけるデザインからの変化、人間中心デザインはデザインが人間であることの一部をなす、などが論じられました。
第3章では、人間が人工物を使用する際にその意味がどのように立ち現れ、デザインやデザイナーはそこにどう関与できるのか、を「認識」「探究」「信頼」という3つの概念を用いながら説明していきます。

人間と人工物とのインターフェース

クリッペンドルフは「インターフェースは新種の人工物である」と言っています。人工物が使用されその効果を発揮するに際には、人工物が単に機能を持っているだけではなく、ましてやカッコよく見せるためだけのデザインではありません。人工物は人間が使う際に実際に感覚と運動が強調しており、人工物からの反応を受け取ることができ、そしてそれが人間にとって心地よいと感じるようなものである必要があります。それを実現するのがインターフェースという新しい人工物であると論じています。
またこのインターフェースは、人間と人工物とが相互作用によって意味を作り出すという点において、人間も人工物と同様にインターフェースを構成する一部だと言っています。

使用にむけた3つの状態

人工物を使用している時に、うまく動かなかったり、予期しない動作をしたり、という経験があると思います。クリッペンドルフはこれを「機能停止」と呼んでいます。機能停止が起きた時、ユーザーの振る舞いは2つに分かれます。ひとつは「自分の使い方が間違っていたのかもしれない」と自分自身に責任を求める振る舞い。もうひとつは「この人工物のデザインが悪い」と人工物の側に責任を求める振る舞いです。後者の振る舞いは「デザインの不備」と呼ばれ、デザイナーが関与できる興味深いポイントです。
クリッペンドルフは、このような機能停止に関する3つの要点とデザインされるべき方針を論じています。

「機能停止」に関する3つの要点

  1. 人間がわざと機能停止を引き起こすようなことはありえない。ミスは決して意図的なものではない。これはアリストテレスの矛盾律に従うものであり、人間は自己矛盾を冒すことはできないということを主張している。

  2. 機能停止による混乱の原因は、あらかじめ観察されるものではなく、事後になって説明され、解釈されるものである。人間中心的に説明すると、見過ごされた選択肢・誤った解釈・不適切な行為によって引き起こされたものである。

  3. 混乱がしばしば起こるならば、ユーザーにとっては過去の原因を探究し、それが学習の機会になる。

デザインされるべき方針

  1. 機能停止が起きる頻度を最小にするべき。

  2. 適切な支援によって、機能停止を回復もしくは修復できるようにするべき。機能停止による混乱が深刻な問題を引き起こす前にエラーが生じた警告を発するのが一つの解決策であり、機能停止による混乱が明白になる前に通常の状態に回復させるのがもう一つの解決策である。

  3. 機能停止による混乱はユーザーにとって学習と技能習得の絶好の機会である。逆に混乱が生じたときにユーザーの無能力さを証明するものであってはならない。

このように「機能停止」が起こるとユーザーは眼の前の人工物がどのように作られたのか、どのように使うのか、どのようなことをもたらすのか、という注意を人工物に向けます。一方で人工物を使用し問題なく動作しているときは眼の前の人工物自体に注意を払っているのではなく、人工物がもたらす効果に注意を向けています。

これらを整理して、人間が人工物に対して注意を向ける仕方として「認識」「探究」「信頼」という3つのモードがあるとクリッペンドルフは論じています。

図3.4 注意を向ける仕方三つの間の推移

以降、この「認識」「探究」「信頼」という3つのモードについて解説していきます。

人工物を眼の前にしてまず「認識」する

まずクリッペンドルフは「認識」を「全く何も知らない状態からの変化」ではなく「あらかじめ何らかの知識があることを前提にした再認識」としています。再認識というのは、認識する時にまずカテゴリーとして認識し、もっとも慣れ親しんでいる人工物のメタファーとして捉えるということです。クリッペンドルフはこのカテゴリーやメタファーについて人間中心性という文脈で説明しています。
カテゴリーとは、リンネ式階層分類体系で表現されるように客観的な諸性質の分類方法ではなく、人工物がひとつのカテゴリーの理念型にどれだけ似ているか、つまり人工物があるカテゴリーに属するか属さないかという二者択一ではなく、カテゴリーの理念型に対する類製の程度によって等級づけられ。典型的であるかどうかによって決まる関数であると論じています。
メタファーとは、デザイナーが意図して人工物に埋め込んだデザインであってもユーザーが認識できないのであればそれはメタファーではなく、ユーザーが慣れ親しんでいるものの観点から理解し人工物を認識できて初めてメタファーであると論じています。

人工物を使用する前に「探究」する

2つ目の注意の仕方である「探究」とは、人工物を信頼して使用する前に試行錯誤しながら人工物を理解することです。探究には図3.4にある通り、認識した人工物がどのように動作するのかという「獲得」のルートと、人工物を信頼して使用しているときに機能停止が発生した時に引き起こされる「混乱」のルートという、2つの入口があると論じています。
ユーザーは探究において全く的はずれな試行錯誤をすることはなく、ユーザー自身が持っている「こういう感じで動くだろう、こういう効果があるだろう」という概念モデルに従います。そしてその概念モデルと同様に、アフォーダンスによって人工物を知覚しユーザーが持つ概念モデルを発展させることがあると論じています。
この節では、他にもユーザーが人工物を信頼して使用するための試行錯誤としての要素が多数紹介されています。

人工物を使用することで「信頼」する

3つ目の注意の仕方は「信頼」であり、図3.4からも分かるように人工物を繰り返し使用することで「信頼」と言う状態にとどまります。その状態ではユーザーは「どのようにして使うか」という疑問は持たず、人工物がもたらす効果に集中しています。人工物という物自体を意識することはなく、自動的に使っているという状態が「信頼」であると論じています。
この「信頼」と言う状態を理解するための要素として「シナリオ」と「内発的動機づけ」を説明しています。
シナリオは、人工物とユーザーの間のインターフェースにおいて時系列に何が起きているのかを記述したものです。シナリオを理解するためには、あるユーザーの1回の使用方法を記述するだけではなく、そこに生じる繰り返しのシナリオや、複数のユーザーによるシナリオを重ね合わせることが必要です。そういった活動から導き出された最も自然で有効なシナリオは、人工物とユーザーとの相互作用の繰り返しで成り立っており、手順を概念化するメタファーによって悩まずに実行でき、さらにユーザーは使い方をたやすく学習できるものであると論じています。
もうひとつの要素である内発的動機づけは、ユーザーが人工物を使用するという行為を正当化します。ただしその人工物を使用することで得られる便益による合理的な動機づけすなわち外発的な動機づけとは区別し、使用という過程に関わること自体に純粋な快楽が存在することが内発的動機づけであると論じています。この「使用という過程に関わることによる純粋な快楽」は、チクセントミハイのフローという概念で説明しています。
この節では、内発的動機づけがどのように引き起こされ、その前提となる条件や持続する条件などが説明されています。

第3章では、他にも「ユーザビリティーデザインのための原則」として、これまで論じてきた意味論的転回の概念を用いて、デザインに関する法則を提言しています。

ゼミでの議論


ゼミでは今回の内容を踏まえて様々なディスカッションがされましたが、特に盛り上がった3つのトピックを取り上げて紹介します。

言語による違いを意識する

第3章の中で「図3.4 注意を向ける仕方三つの間の推移」という図が出てきましたが、ここでの日本語訳に違和感があるということで、原著である英語版を参照しました。

「図3.4 注意を向ける仕方三つの間の推移」に英語を併記(倉林作成)英語の図のタイトル「Figure 3.4 Transitions between three modes of attention.」

訳語として間違ってはいないのですが、この本における意味を考えるとしっくりこないものがあります。ディスカッションした中からここでは「探究」をピックアップしたいと思います。

知識を論証すること、疑念を解消すること、ないしは問題解決をすることという目的のある思考過程のこと

「Wikipedia「探究」より」

「知識を検証」「問題解決」とありますので、すでに頭の中にある正解が正しいかどうかを確かめるというイメージを受けます。しかし本書において探究とは「人工物の明確な使い方や効能が分かっていてそれを検証する」のではなく、「人工物との相互作用を通じて、それがどのようなものであるか、どのような効果をもたらすのかを探っていく」という行為なので、ややニュアンスが異なります。

岩嵜先生からは「日本語や英語といった言語には、それぞれの言語空間がある。使う言葉が認知や思考に影響している、と考えれば、こういった書籍は原著の言語で読む方が理解しやすい。」というアドバイスがありました。そこでExplorationの英英訳、および語源について調べてみました。

the action of traveling in or through an unfamiliar area in order to learn about it: voyages of exploration | an exploration of the African interior.
thorough analysis of a subject or theme: an exploration of the religious dimensions of our lives.

New Oxford American Dictionary より

Unfamiliarな部分を、to learnするための行動、とありますので、日本語的には「探究」よりも「探索」のほうがしっくりくる、という意見もありました。いずれにしても英語の文章を読んでいて違和感を感じたら、日本語訳の正しさを追求するのではなく、原文に戻って確認したほうがそのニュアンスやコンテキストがよく理解できそうです。

身の回りのメタファー

認識の部分で出てきた「視覚的なメタファー」について、身の回りにあるものを挙げてディスカッションしました。「みんなが毎日見ているものでメタファーが活用されているもの」としてPCが挙がりました。PCの中で動くGUI(Graphical User Interface)はまさにメタファーのかたまりですね。

  • アプリケーションを囲む「ウィンドウ」

  • データを表す単位である「ファイル」

  • そのファイルを整理するための「フォルダ」

  • 位置を指定して指示するための「マウス・ポインタ」

これらはすべてコンピューター内部でそのように存在しているのではなく、人間がコンピューターという人工物を使う際に「自分で使える道具」と認識するためのメタファーになっています。仮にこのメタファーがなかったら、私達は半導体の集合体に対して電気信号を使って指示を出す、ということをしなければなりません。
また、コンピューターは最初からこのようなGUIというメタファーを持っていたわけではなく、コンピューターの進化に応じてメタファー自体も変化しています。その例としてディスカッションではUNIXや汎用機といった大型コンピューターを操作するときに使うCUI(Character User Interface)が挙がりました。CUIはコマンドと呼ばれる命令文によってコンピューターを操作します。MacではターミナルというアプリでCUIが使えます。CUIではアイコンやボタンといった表示はなく、全てコマンドで指示をします。全くメタファーが使用されていないのか、というとそんなことはなく、コンピューターの中のデータの格納方法としてディレクトリというものは、1つのところから枝分かれしていくという「ツリー構造」がメタファーになっているのだろうという意見が出ました。

結局良いデザインとは?

第3章の最後には「ユーザビリティーデザインのための原則」と題して、意味のある人工物をデザインするための法則、そのための提言が紹介されています。ディスカッションの中では「この原則をすべて守ったデザインは、いいデザインなのか?」という疑問が出ました。この本でも論じられているようにデザインの意味は人工物と人間との相互作用に寄って生まれるのであれば、ここで提示された客観的な原則を守ればいいデザインであると決定づけることはできないはずです。ディスカッションの中では「この本で提示された原則や理論と、実際にデザインしてみること、を行き来することが重要なのではないか?」という意見が出ました。

感想

第3章では、人間が人工物を使用するということをミクロな視点で分解し、その要素と状態遷移を丁寧に解説しています。人間中心的デザインにおいては人工物を客観的に捉えるのではなく、常に人間とのやり取りの中でどのようなものなのか認識され、何をもたらすのかが探究され、そしてその効果を信頼して使用され、主観的な存在として捉えられ意味が生成されます。
これを踏まえて自分の体験を振り返ると、子供のときに腕時計のリセットボタン(小さい穴の奥にあるボタン)を押すためにクリップを伸ばして使ったことや、マイクロソフトWordを文字数カウントのためだけに使ったことなど、本来の使用用途ではないが自分と人工物との関係性の中でうまく使えた事例と言えるかもしれません。
これらの使い方は本来想定された使い方ではないのでいわゆる「自己責任の範囲で」となりますが、「本来の使い方」を意識しすぎることは、思考の幅を狭め「おぉ意外にうまく行ったぞ」というワクワク感や驚きの機会を失っているのではないでしょうか。
私自身が普段「認定資格の運営」という「正解と不正解をハッキリさせる」仕事に携わっているので、その反動で「あらかじめ正解が決まっておらず、関わり合いの中で意味が生まれる」ことにより魅力を感じるのかもしれません。

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