『意味論的転回』 第2章
研究室で輪読を行なっている『意味論的転回―デザインの新しい基礎理論』の第2章「人間中心のデザインの基本概念」について、全体のサマリ、ゼミでの議論内容、読んだ感想をまとめていきたいと思います。(文責 M1 久永)
サマリ
第2章の大枠
著者のクリッペンドルフは、意味論的転回について第2章の初めに、「パラダイムのシフト、デザインのための根底からの変化となる」(p.44)と宣言します。技術中心から人間中心への変化は、デザインの常識を180度転換させます。
しかし、その転回の全体像をとらえるためにはまず、人間中心のデザインがどのような基本理念を持つのか知る必要があります。第2章では、その基本理念を知るために、意味をつかさどる知覚の歴史や意味の性質、感覚やコンテクストとの関連を説明し、その後ステークホルダーを巻き込む必要性や「二次的理解」の重要性について述べています。
意味をつかさどる知覚の歴史
総勢10名以上の思想家の主張を提示しながら、クリッペンドルフは、人間がどのように世界を知覚し、理解し、意味付けを行うか、意味論の系譜を俯瞰します。主観と客観を区別し、客観の存在を自明と考えたデカルトを、技術中心のデザインと一致する見方として対置し、様々な思想家の意見を引用しながらデカルトを乗り越えようと試みます。プロタゴラスやゲーテの意見を用いて、人間の経験という考えや、人間中心性を提示。そして、マトゥラーナやヴァレーラ、ユクスキュルなどの意見を用いて、人間の認知が閉ざされていることや、行動し感覚する円環の中でのみ意味を知ることができる、という主張を確認します。その後、ウォーフやバーリン、ヴィトゲンシュタインなどによって、言語の重要性、特に使用されることによって意味が生み出される、という内容が示されます。最後にミードによって、人間の行動やプロセスが意味を生成するのであり、我々がデザインしようとしている人工物でも同様に、プロセスが意味を生成する、と強調しています。
意味の性質
クリッペンドルフは、技術中心の工業時代のデザインは意匠や性能が重視されていたが、現代はそれと異なり、意味が重視されると主張します。具体例としてランボルギーニが挙げられ、ユーザーが自分をどう見るか、他者からどう見られるかという意味の視点は、技術中心のデザインによっては説明できず、人間中心のデザインによってのみ主張されうるとしています。
また、ユーザーによって意味が解釈されるとき、意味の裏にある真実を観察できるか、という問いに対しては、異なった人には、異なった感覚があるため、真実は人の数だけ存在すると応答します。そして、だからこそ、人によって異なる真実を作り出すという、意味の力強い性質をデザインに取り入れていくべきだ、と主張します。
感覚は、世界を感じる基盤
クリッペンドルフは、感覚とはどのようなものか、と問います。そして感覚とは、「自省、解釈、あるいは説明なしで世界と関わっている感じ」(p55)であるという考えを示します。感覚は、個々人に固有のものであり、他の人や測定装置では置き換えられないものです。そして、多くの場合パターン化されており、その詳細は通常、私たちの意識には登ってきません。
クリッペンドルフが議論の俎上に載せるのは、以上のような個人の感覚の記述だけではありません。自分と他者の感覚の違いについても記述します。何かを感じている他者の様子を記述することと、その感じている人の感覚は異なると述べ、他者の感覚を理解したつもりにならないよう、注意を促します。
人の活動の中に意味が生じる
出来事が私に伝える情報と、私が感じ考えることには、差があります。その差こそが、意味であるといいます。椅子ではない何かを「椅子として」意味づけることができるということは、その何かは、椅子ではない他の意味の可能性に開かれているということです。意味は、外部に客観的に存在しているのではなく、感覚によって引き起こされた時にのみ、意味は構築され存在します。つまり、意味は人それぞれで異なります。
毛皮に覆われたカップの具体例からわかることは、意味が複数存在するものは、私たちにさまざまな行動の選択肢をもたらすということです。コップと認識してお茶を飲もうと思っても、毛を見ることで不快感が予想されます。行動には、将来何を感じるか、に対する期待も伴っています。行動することによって私たちの期待は裏付けられたり、裏切られたりする。「人は、自分が直面するものの意味に従って、行動する」という洞察から、デザイナーはさまざまなことを学べるといいます。
文脈が人工物の意味を生成する。
意味は、文脈によって制限されます。路上という文脈での道路標識は、ドライバーの行動に影響を与えますが、部屋に飾ってある標識は、人の行動に影響を与えないでしょう。意味を考えるうえで、文脈は重要です。
しかし、文脈が意味のすべてを規定するわけではありません。現在の文脈には、現在の意味しか現れない。つまり、現在の文脈と異なるその他さまざまな文脈については、表面化することがなく、観察することはできない、ということです。
ステークホルダーを巻き込むべき理由
工業中心の時代には、架空のユーザー像について語ることがありましたが、その手法は、さまざまな人々を無視し、犠牲にしており、危ういとクリッペンドルフは主張します。その考え方では、デザイナーは、自分をユーザーの代弁者だと考え、ユーザーから発言権を奪い、自分たちを定義し興味で行動する余地を与えないなど、さまざまな弊害があります。そして、この問題を克服するために、ステークホルダーを巻き込むべきだと主張します。そして、ステークホルダーと一緒に活動する方法を見つけることは、彼らにふさわしい権利を与えることになり、ポスト工業時代において成功することを意味するといいます。
二次的理解
意味は、客観的に存在するのではなく、人々が互いに影響しあいながら、各個人が統合し理解するものである、と認識する必要があります。デザインの現場においては、デザイナーとステークホルダーの理解は異なる、ということです。そして、彼らが互いに理解しあうには、質問を通して、デザイナーとステークホルダーの世界観を交差させる必要があります。
一次的理解とは、自然科学や行動科学が提供するような、理解することができない何か理解するために獲得した、再現するための知識といえます。
一方で、二次的理解は、相手が物事をどのように理解しているかを理解する、他者の理解についての理解です。これは、人間の行為に含まれる意識・意図をくみ取るのに優れていて、人々に、自分たち自身の世界を構築する能力を認め、異なった理解を人それぞれの理解の中にとどめるという性質を持ちます。
だからこそ、ステークホルダーとの対話や質問を通じて、二次的理解を形成していくことが、これからのデザインの必要条件になる、とクリッペンドルフは言います。
ゼミでの議論
概念的なゲシュタルトの転換とは?
ゼミの議論ではまず、「概念的なゲシュタルトの転換」(p.78)の意味について話し合いました。ゲシュタルトとは、部分を一つ一つ理解してその集合として全体を理解するのではなく、部分に分けることのできない全体として理解していこうとする考え方です。つまり、一次的理解で得られる情報の集合として人工物を理解するのではなく、他者とのインタラクションのなかで、様々な人の意見を聞き、それらを部分の集合ではなく、全体として理解することで、概念的なゲシュタルトを転換することができる、という主張なのだと読み取れます。
他者との交流がゲシュタルトの転換を促す
ゲシュタルトの転換を理解するための具体例として、ゼミ室の卓上のコップが指さされました。これがゼミ室やカフェにあれば飲み物を飲むための道具ですが、植物愛好家の集まりに置いてあれば、鉢やジョウロとして理解されるかもしれません。自分個人の状況や文脈に依存した一次的理解だけではなく、さまざまな他者とのインタラクションを通して、異なった文脈での新たな意味を理解することが、概念的なゲシュタルトの転換なのだと考えられます。
この解釈を受けて、ゼミ生の一人が、ゲシュタルトに関する、子供のころのエピソードを共有してくれました。彼は幼少期、華道で使う剣山を理解できなかったそうです。華道の文脈を知らない彼にとって、剣山は「痛そうな櫛だな」と思わせるものであり、それ以外の意味がありませんでした。しかし、華道を知ったことで剣山に新たな意味を見出し、物の見え方が変わったといいます。
二次的理解の目的
別のゼミ生からは、「クリッペンドルフは機能主義を批判しているが、なぜデザインは、人々にとっての意味を操作しようとしているのか」(なぜ二次的理解が重要なのか)という根本的な問いが共有されました。人工物が人それぞれにバラバラに理解されたとして、何が問題なのか。なぜ二次的理解:多くの人の同意を得られる意味が重要なのか。
この問いに対しては、これまでのデザインと、クリッペンドルフが目指しているデザインの違いに注目することで理解することができる、との意見が出ました。これまでの工業社会は、問題を一義的に定義し、解決するための最適な方法を編み出すという、問題解決型のデザイン手法が主流でした。しかし、昨今ではVUCAの時代と叫ばれていますが、クリッペンドルフも、従来のデザイン手法で社会をより良くすることに、当時から限界を感じていたのではないでしょうか。二次的理解が必要とされている背景には、今こそ考え方を刷新し、新たなデザイン文化:ものを作るデザインから意味を作るデザインの文化へ転換するべき時なのだ、という主張があると理解することができます。
意味を作るデザインの事例紹介
上記に関連して、意味を作るデザインとは、どのようなものがあるかという問いが出されました。それに対しては、ベルガンティが提唱する「意味のイノベーション」の事例の一つであるアロマキャンドルの話が共有されました。かつては、手元を明るくするために使われていたロウソクは、白熱電球の登場によって、その地位がとってかわられました。しかしロウソクは、温もりや癒しを感じさせるという新たな意味が付加されたことによって、アロマキャンドルとして生まれ変わりました。
ただ、意味を作るデザイン事例において、ベルガンティが対象としているのは工業製品が中心であり、一方でクリッペンドルフは製品にとどまらず、「社会的な役割を果たすことができる人工物」ならなんでも対象にしています。デザインの対象について、技術的な人工物のみを対象にするのか、それ以外のさまざまな人工物を含めるのかという点で、ベルガンティは狭く、クリッペンドルフは広いと言えるかもしれません。
感想
一次的理解ですら星の数ほどありうるのに、二次的理解は、その可能性が膨大すぎて、とても難しいように感じました。しかし、本章では明言されていませんでしたが、文章の端々から「でも、デザインの可能性をあきらめないで」という応援の姿勢が感じられました。そして、これから(意味論的転回)は、「ステークホルダーと協力して、すり合わせて、成功の確率が高いものを作っていこう」という意気込みを感じました。しかし、第2章を読む限りでは、意気込んでいるのみで、具体的な話はなく、方針演説のように感じました。これに続く章で、具体的な内容や方法が解説されることを期待します。
本書の第1章でもあったように、デザインの価値を高めるためには、ディスコースが重要です。本書の第2章までの時点では、あまり効果的なディスコースは生まれていないように感じます。むしろ、第2章は、これまでのデザイン文化を反省し、懺悔しているようにも読み取れました。しかし、反省があってこそ、自らの存在意義を主張できるような意味のある言論が生まれるのも確かです。第2章以降、どのようなデザインディスコースが生まれるのか、続きが気になります。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?