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ゼミ生研究内容紹介① 「アクターネットワーク理論とケアの視点に基づく新たなデザイン方法論の提案」 M2 明石啓史

概要

「人新世」の時代と言われるなか、「人間」が「環境」を支配/管理するという二元論的な前提を解体し、他なる存在とともにいかに多様な関係性を生成していけるだろうか。
アクターネットワーク理論やケアの視点を取り入れることで、見過ごされている繋がりの可能性を捉え、自分含みの世界に応答する倫理的・実践的な取り組みとして、デザインの可能性を探求した。

本研究は、モノや動物などの非人間を含む多様な他者と「ともに」、関係性を内側から変容させていくためのデザイン方法論を関係論的デザイン(共-生成のデザイン)として提案する。関係論的なデザインは、「デザインし合うもの同士の関係性と実践」自体をデザインの対象とする。

背景と目的

人類が地球やその生態系に対して莫大で不可逆的な影響を与えているということを表す「人新世」という概念が近年注目を集めており、人類学や環境人文学でも議論の対象となっている。「人新世」をめぐる議論が共有しているのは、社会の近代化が進んだ現代において、環境と人間の関係性の捉え方が単調で画一的なものなっているという問題意識である。「人間」が「自然」を支配/管理するという枠組みから脱し、いかに多様な世界のあり方を捉えていくかを模索することが求められている。
 
人新世などの概念の誕生を背景に、人間と環境の関係性を扱う学問としての人類学に着目が集まりつつある。例えば、人類学における存在論的転回という潮流は、「自然」や「文化」に対する画一的な見方に再考を促している。また、マルチスピーシーズ人類学やマルチスピーシーズ民族誌と呼ばれる領域は、環境人文学などと呼応しながら、非人間や人間以上(モア・ザン・ヒューマン)の存在を扱うことで、異種間の倫理的な関係性のあり方について模索している。
 
現実を単一の存在論に押し込めるのではなく、より複雑で多元的な世界と向き合い、より良い在り方を探求しようとする動きは、デザインの方法論においても見られるようになっている。コロンビア出身の人類学者であるArturo Escobarは、ポストコロニアル的な文脈を背景に、西洋近代的な二元論(という単一の世界観)を乗り越え、多元的(pluriversal)な世界の可能性を開いていくようなデザインのあり方を提示している。

本研究は、上記のような潮流を踏まえたうえで、アクターネットワーク理論や「ケア」に関する議論から得た視座を近年のデザイン論に接続することで、関係性を内側から再編成していくような新たなデザイン方法論を提案することを目的としている。
関係論的な視座をデザイン実践に導入することで、倫理的・政治的観点、実践的観点、思索的・批評的観点から、近年のデザイン論を補完的に更新することを目指した。

アクターネットワーク理論とケア

アクターネットワーク理論
アクターネットワーク理論(以下、ANT)は、世界のあり方を「社会」や「自然」に還元することなく関係論的に記述することで、多様な物事の結びつきとしての世界を描き出そうとする立場であり、モノや動物などの「非人間」も人間同様にエージェンシー(行為主体性)を有する存在として扱うことが特徴である。

ANTでは、一足飛びに「システム」や「コンテクスト」に飛躍することなく、あくまで具体的な行為の連環に着目してテクストを記述していくということが重視される。

ANTは、そのようにして世界の潜在的な可能性に目を向けることで、より良い関係性のあり方を志向するという政治的・実践的な意義を持つ。規範的な価値観を解体しつつ、あり得る潜在世界へと目を向けることが、「ありたい世界」の議論に繋がるのである。

ケア
オランダの人類学者であるアネマリー・モルは、オランダの大学病院における糖尿病外来のフィールドワークに基づいて、「選択」や「コントロール」に対置される「ケアのロジック」というものを抽出した。
 
「選択のロジック」においては、何がよいのかという道徳的な決着があってから何をすべきかの判断が行われるのに対し、「ケアのロジック」においては「道徳的な判断が閉じられたのちに行為があるのではなく、行為そのものが道徳である」とされる。
 
つまり、「ケア」というのは、何がよいことか、何をすべきかが予測できないなかで、状況の改善を試みるような取り組みなのである。コントロールができない状況でも、放置せずに、「やってみる」ということが、「ケア」の道徳とされる。「ケアのロジック」において、善悪は行為の中にあるのであり、行為なしに何がよいか/悪いかの定義はできない。
 
予測不可能性を受け入れたうえで、何度も「手直し」するという「ケア」の実践的側面を強調することで、モルは「ケア」を一般的な理解から位置付け直そうとしている。

コントロールが不可能だからといって、放置していいわけではないし、冷笑が求められているわけでもない。コントロールできない状況でも、ケアすることは可能だ。能力のかぎりを尽くしてやってみる。結果を確かめる。調整する。そしてまた試してみる。

アネマリー・モル『ケアのロジック―選択は患者のためになるか』

また、人類学者のマリア・プイグ・デ・ラ・ベラカーサは「matters of care(ケアを呼ぶ事実)」という概念で、「ケア」が持つ批評的・思索的側面を強調している。
 
「ケア」とは壊れやすい集まりをどうにかする、つまり集合体の組み直しに関わる重要な実践でありながら、その働きは軽視されてきた。だからこそ「ケア」に着目することは、この「軽視」ないし「放置」の問題を前景化する。

彼女は、「ケア」というものを、見過ごされ、無視され、放置されてきた働きに対する倫理的・政治的コミットメントとして関係性を組み換えていくことを目指す批評的な実践に位置付け直している。ANTの議論に「ケア」の概念を導入することで、現状支配的となっている非対称的な関係性への批評へとその意義を拡張したのである。

モルやベラカーサの議論はいずれも、思いやりや献身といった道義的側面に留まらない「ケア」の意義を示している。「やってみる」ということからより良い状態を模索し続けるという「ケア」の姿勢は、デザインプロセスにおいても重要な観点ではないだろうか。

関係論的デザインの概念的整理

他/多なる存在が織りなす関係性の動態に目を向けるANTや、実践を通してより良い関係性を志向する「ケア」の視点に基づいて、関係論的なデザインプロセスを考案した。
プロセスを概念的に示したものが以下の図である。

まず、規範的で固い秩序からなる客観的実在の世界に対して、ANT的な「記述と制作」を通して異種混交的なアクターの連なりからなる生き生きとした潜在的な世界に目を向ける(遡行)。そこでは、原理的には制限のない結びつきが考えられるが、それはあくまで外から眺めた抽象的な姿でしかない。だからこそ、自分含みの関係性として、内在的に世界に応答する必要がある(応答)。それは、誰とどのような関係性を取り結ぶか/結ばないかという「切断」と、それに関する責任を伴うものである。他者との存在論を交感しあうなかで、「わかりあえなさ」を感覚しつつも、行為の応酬を通して繋がる部分を模索していく。そうしてひとつの実在に「共-生成」していく(実行)。

こうしたプロセスは、一般的な「バックキャスト」とは様相を異にするが、「潜在性」といういまだ現れていない世界としての「未来」を経由して、新たな「現実」を生成するという点では、未来を起点としたバックキャスティング的な動きを見せていることがわかる。

プロトタイピング

では、上記のような関係論的デザインなるものをどのように実践するか。本研究では、「ひまわりガーデン代官山坂」をフィールドとして、具体的なワークを試行した。

ひまわりガーデン代官山坂もともと都市計画道路として作られながらも放置され、不法投棄が問題となっていた中央分離帯であったが、それを憂慮した地域住民の活動によって、現在はひまわりが咲くコミュニティスペースとして開放されている。2022年5月に行われた「種まき」を中心に、特に「タネ」や「土」というアクターに着目して関係性のデザインを試行した。

ワークは大きく「記述と制作」、「共-生成」の二つの過程に分けられる。以下、特徴的なワークをいくつか紹介する。

「make someone act」
フィールドにおける特徴的なシーンを取り上げ、「make someone act(誰かに何かするようにさせる)」の形式で主客をスイッチしながら「行為」の循環とそれに関わるアクターを描き出した。多様なアクターが行為を循環させながらある状況を生み出している様子を記述することで、その場においてアクター間に共有されている「場の志向性」のようなものを探っていく。

下図の通り、「タネを保護するカプセルが被せられる」という「行為」の周りには、カラス、タネ、カプセル、土、人などの異種混交的なアクターの循環する行為の連関があることがわかる。

物語の制作
「物語」の制作とは、世界の潜在性を生き生きと編み上げる実践であり、そのなかでアクターは規範に捉われない振る舞いを見せる。
 
今回は「タネ」に着目し、それを巡る物語を3つのパターンで記述している。
関係性に着目して眺めると、「タネ」は様々なアクターを巻き込み、また巻き込まれながら、行為を生み出していることがわかる。「タネ」は黙って存在しているわけではなく、周囲の「情動」を呼び寄せながら「世話」を誘発する存在として浮かび上がる。こうした「物語」の制作を通して、アクターが見せる集合体の維持に関わる「ケア」の働きを前景化する。

共-生成
マルチスピーシーズ人類学に大きな影響を与えた思想家ダナ・ハラウェイの「共-生成(becoming with)」という概念に着目し、タネと「ともに」新たな関係性を生成する試みを行なった。

まず、タネとの相互模倣(自分がタネになる/タネが自分になる)を通じて両者の動きを追った。次に対比的に互いの存在論を交換することで、「守り/安心」というケアの立脚点(デザイン機会)を見出した。

タネは土の中にいるとき、「世話」を誘発して様々なアクター(土、カプセル、フェンスなど)に守られているが(A)移動時の守りは薄く、ちゃんと咲けるかどうかが不安な状態にある(B)。一方、人が空間的に固定され力を蓄えている(=眠っている)とき、タネほど守られているだろうか。膝を抱えて丸まってみれば、その無防備さが感覚される(A’)。このように模倣的に互いの動きを追跡することで、感覚を共有しつつ、互いに「ない」ものを捉えることができる。人間との対比から「守られていないと安心できない」存在としての「タネ」を見て取るとともに、 「守り」や「不安」を介入の切り口に見出した。

そして、三つの「お守り」という新たなアクターを追加することで、わたしとタネが「守りあうもの同士の関係性」に「ともに成っていく」という関係性のデザインを試行した。

①は、タネが配布先でちゃんと育ててもらうためのガイドブック。タネが花を咲かせるためには、「強い守り」が必要であり、それを誘発して世話を呼び込むための新たなアクターである。 ②は人が安心して眠るためのタネ型寝袋。土の中にあるときの「タネ」の強く守られる力を人間に取り込むための装置である。 ③は、「タネを入れられるお守り」という「お守り」である。今までは紙やセロファンに包まれて配布されていたタネをさらに手厚く守るとともに、それ自体が「お守り」として成長祈願の祈りを象っている。これは、「タネ」と「わたし」が互いに守られあうという関係性を象り、具現化させたものであるといえる。

これが「共-生成」の過程であり、関係性のデザインである。制作物それ自体がデザインの目的というわけではなく、それによって「タネ」との関係性が組み直されていくということが重要である。
 
「タネ」との間で新たな関係性を取り結ぶことは、ひいては「ひまわりガーデン」という異種混交的なアクターの連なりを内側から変容させていくことに繋がっていく。「呼び込まれる世話」の関係性の集合体としての「ひまわりガーデン」に対して、さらに「守り」の関係性を織り込むことで、その繋がりを「ケア」するような実践であるといえる。

関係論的デザインの前提とマインドセット

上述のようなワークやプロセスに加えて、実践に先立つ前提やマインドセットを設定した。

前提
関係論的デザインは前提としてオープンエンドな実践であり、すべてのワークは暫定的なものでしかなく、それぞれのワークは連なるワークの作業仮説になりながら、プロセスは反復的に行われるべきものである。

マインドセット
関係論的デザインを実践する上で求められるマインドセットを3つ定義した。
まずは、「関係論」の徹底である。一足飛びに抽象的な説明を行うことを避け、具体的なアクターの動態を追い、それに倣うことが求められる。抽象的な構造に飛躍することなく、具体的な地平でフラットにアクターの動きを追跡していくことに、関係論的なデザインの独自性がある。
 
また、「管理からケアへ」という態度が求められる。外在的な立場からのコントロールを目指すのではなく、「能力の限りを尽くしてやってみる」というケアの実践を心掛けるべきである。

最後に、「責任・応答可能性(responsibility/response-ability)」を持つことである。ハラウェイが他者(多種)との具体的な関わり合いの中で、どのように「応答」していけるかという責任を問うたように、デザインプロセスにもそうした倫理的姿勢が求められる。
 

媒介者としてのデザイナー
ここまで論じてきた関係論的デザインは他のデザイン方法論と比してどのように位置付けられるだろうか。下図の通り、デザインするものの対象や介入のスタンスと起点、得意領域などを便宜的に対比した。

関係論的なデザインは、他の方法論と異なり、「デザインし合うもの同士の関係性と実践」をデザインの対象とする。「デザイン」というもの自体、コントロールできるものではなく、関係性のなかで即応的に変容していくことを受け入れなくてはならないのである。自分含みの関係性への関与として、「ケア」的な試行錯誤の実践が求められる。既に確認した通り、そうした実践を通して、他なる存在への倫理的応答や、潜在的・多元的な存在論を実践的に生成することが可能になるのである。

では、デザイン行為自体が関係性の効果として行われるのであれば、果たして「デザイナー」とはどういう存在なのだろうか。
「関係性の内側で/から」デザイン行為を行うような、関係論的なデザイナーとはある種の「媒介者(mediator)」であるという解釈を提案したい。
「媒介者」としてのデザイナー像は3つのことを含意する。まず、デザイナーは常に何かと何かの間にいるということ。次に、デザイナー自身がデザインプロセスをデザイン仕切れないということ。そして、だからこそ、他のアクターを巻き込んでデザインプロセス自体を変容させていくことが求められるということである。

新たなデザイン論に向けて

関係性をデザインするというのは、非常に曖昧で掴み所がないように受け取られるかもしれない。そもそも、「デザイン」という用語自体、その定義を揺るがせながら、多くの意味を含みこむ概念として雲のように膨らみつつある。「〜をデザインする」というとき、それは一体何を意味するのだろうか。
 
「デザイン」という語が多様な使用に晒されながらも、常に共通して持ち続けている意味のひとつは、「何かをより良くするという志向性を持つ」ということではないだろうか。そして、この「より良く」というのが常に争点となる。それを問うことは非常に難しい。実践に先立って「良さ」が定義できないからである。だからこそ倫理的態度が必要であるし、「能力のかぎりを尽くしてやってみる」しかない。
本稿において注力したことの一つは、「デザイン」や「ケア」を論じる際に過少評価されているように思われるそのような「試行錯誤」の側面を前景化することであった。

モノを含む非人間が、人間と同じように行為主体性を持って蠢いているという潜在的な世界は、「常識的」な見地からすると、ナンセンスに映るかもしれない。ANTは強力なフレームワークを提供することなく、アリ(ant)のようにアクターを辿ることしか示さないし、「ケア」の議論はやってみなければわからないという至極当たり前なことしか言っていないようにも受け取れる。
 
しかし、現状の常識をいくら突き進めても、その延長線上での議論しかできないのも事実である。だからこそ、本稿で提示する関係論的なデザインは、ナンセンスな世界に潜っていくことを提案する。それは、常識を外から全て棄却して虚無を目指す冷笑的な態度としてではなく、自分入りの常識を罠に掛けて自分自身の変容を試みる倫理的な態度として行われるべきものである。ナンセンスを経由してこそ、未だ来ていない(=未来の)多声的なコモンセンスを志向することができるのではないだろうか。

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