イグナシオ

 

 もつれあった髪と錆釘がある。それらは患者の腹からメスも使わずに摘出されたものだった。ほとんど血も出ない。釘は曲がっていたものの錆さえ落とせばヒヨドリの巣箱くらいなら作れそうだ。治療を終えた患者は治療台代わりのテーブルから乱暴に退けられる。病人が押しかけるため、この不衛生なあばら家はいつだってすし詰めなのだ。快癒した患者たちのなかには物質化した自分の病を土産に持ち帰る者もある。巣箱を作るのだろう。
 イグナシオは、熱心なカトリック信徒で、柔術の師範でもあり、園芸家であり、また神秘の治療家だった。加えて手品師でもあるとわたしは思っている。いわゆる心霊治療というやつはオカルト界隈では下火だったが、いまだフィリピンやブラジルでは細々と行われている。体内から患部を掴み出すという直接的な施術には生々しいインパクトがあって、インチキには違いないとしても、それにハマる愚か者は後を絶たない。イグナシオと同列に語られるのは心外ではあるが、わたしもまたマジシャンのはしくれであり、詐欺師のトリックを見破るために海を渡ってきたのだった。百年前の医師の霊の導きによって、病苦からの救済を謳うこの治療院はなるほど心付け程度の治療代しか取っていない――イグナシオも彼の霊もビジネスには明るくないようだ――が人は虚栄心のためにも身を粉にして働くことができる。
 訛りの強いポルトガル語と汗の匂いのなか、わたしはわたしの順番を待った。末期がんや脳腫瘍の奇跡的治癒の噂なら耳にしているが、そんなものはあてにならない。詐病を癒すのに手間はかからないからだ。わたしは人の壁を掻き分けて最前列から同業者のお手並みを拝見した。簡単なトリックだった。袖口に隠した髪の毛や釘や鶏血をよきタイミングで取り出してみせればいい。感謝のあまり地に伏す先客を踏み越えて次の患者が波のように押し寄せてくる。
 農民風の女は治療台に陣取り胸を差して症状を訴えるが、何本も歯を欠いたイグナシオはもごもごと頷きつつ女の服をはだけるとブラジャーをそのままに両手を肋骨にめり込ませた。いや、そう見えただけだ。手元を見えにくく演出するのは田舎者を騙すに充分なテクニックだったが、わたしには通用しない。次に取り出すのはブリキの玩具だろうか、それとも缶バッジだろうか。
 胸の谷間から出てきたのは、軍用ヘルメットだった。これにはさすがのわたしも度肝を抜かれた。が、すぐに平静を取り戻し、分析を働かせてみる。あの毛布で覆われた治療台が怪しい。台の下には息を殺して隠れている助手がいるはずで、患者が身をよじったタイミングで天板の開口部から小道具を巧妙に手渡してみせたのだ。であれば患者の女もグルである。あれだけの大きさのものをスムーズに取り出すには、患者の協力も必要だからである。ヨレヨレの風体に油断していたが、なかなかの手練れらしい。わたしは気を引き締めた。続いて現れたのは、ロバート・ジョンソンの『Kind Hearted Women Blues』だった。ブルーズマニアであるわたしは頭を殴られた思いだった。このアナログ盤シングルは、本物なら七千ドルの値がつく代物で藪医者の血まみれの手で触れていいものではない。唖然と立ち尽くすわたしにヘルメットを被せると女は軍人風に敬礼し意気揚々と歩み去っていった。
「次はおまえだ、ハポンか」イグナシオがわたしを差し招いた。
「どいてろ」といかつい男がわたしを押しのけて進み出た。「うちのじいさんが毒蛇に噛まれた。ドクター先に診てくれ」泥だらけの靴がレコードを踏んだ。老人の四肢は枯枝のように弱々しいうえ黒ずんだ斑に覆われているし瞳孔だって開き切っている。わたしは順番を譲り、横たわった老人のかぼそい呼吸とかすか上下する腹部を注視した。イグナシオは聖水で指を濡らすと、またもや患者の体内に手を埋める。すっぽりと肘までが見えなくなった。
「こいつは大物だ」とイグナシオはわたしにウィンクしてみせた。「みんな手伝ってくれ」
 老人の小さな体から浮上したのは、業務用の冷蔵庫だった。それを筋骨隆々の孫と他の患者たちとでぐいぐい引き揚げていく。
「インバーター制御の6ドアだ!」「だだっ広いチルド室め!」などと客は口々に言った。
 患者より遥かに大きく重たい金属塊が腹腔部から抜き出されると、しなびた体躯を覆っていた黒斑が消えた。飛び跳ねんばかりに壮健になった老人は彼自身の中にあった冷蔵庫のそのまた中にあったシャンパンを取り出して皆に振る舞った。勢いよく抜けたコルクがわたしのこめかみ目がけて飛んできたが、軍用ヘルメットのおかげで事なきを得た。
 さて、ついにわたしの番である。肝炎だと嘘をついた。水平になったわたしは無防備な腹をさらす。イグナシオの聖なる手は脂肪の層を掻きわけて内臓をまさぐるとやがて固いものを探り当てた。痛みはないかわりに奇妙な恍惚がある。ずるずるとわたしの内部を通路にして何かがせり上がってくる。それは女の頭部だった。ついで美しい裸体が引き出され、さらには鱗に覆われた下半身がお目見えする。人魚である。
「こいつは船首像に過ぎない。ガレオン船がもうじき出てくるぞ。クレーンがいる」
 イグナシオが天を仰いだ。
腹部から生えた人魚とわたしの眼が合う。
 ――船酔いと暗礁と嵐とがおまえの中にある。彼女の濡れた唇がそう囁けば甘い痺れにわたしの意識は引きさらわれてしまう。暗い喫水線が揺れる。大がかりな奇術なのは認めよう。イグナシオ自身もタネを忘れた、壮大なトリックがここにある。ひとまずは完敗だ、と航路となったわたしは快哉を叫んだ。


 


リロード下さった弾丸は明日へ向かって撃ちます。ぱすぱすっ