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祖父と痴呆とフライドチキン

 はじめまして。仙台で情シス(=社内システムエンジニア)を生業にしているふらふらと申します。たまたま Twitter で見かけたので「フライドチキン Advent Calendar 2019」に寄稿したいと思います。

 我が家は仏教徒だった。よって、幼少期に「クリスマスディナー」や「クリスマスプレゼント」と言ったものを経験したことはなかった。また、空気を読まずに正月近辺に爆誕したため「クリスマスとお年玉と誕生日」が一緒にされていた。

 長ずるに比例して、段々と祖父母も親も丸くなる。小学校も高学年になるとなんとなく、豪華な夕食とケーキを囲むという風習が生まれた。なんとなく、プレゼントらしいお菓子詰め合わせが枕元に出現したりした。

 ので、別に愛情を注がれずに育ったわけではない。十二分に甘えさせてもらったと思うし、親も祖父母も尊敬している。

 その、祖父。

 満州に行き、終戦をフィリピンで迎え、そこで培った技術でバイクの修理工場を開くも潰れ、台頭してきた自動車を自力で仕入れて販売する不屈の精神。それも潰れると、車好きを生かしてタクシードライバーとして活躍する。

 そんな、乗り物好きの祖父。

 その祖父が特別視してくれていたのが「フライドチキン」だった。

 私が子供の頃の祖父は、刺し身や塩辛といった海産物が好きだったし、祖母の作った出汁の聞いた煮物をもくもく食べているイメージで、揚げ物なんて食べないような祖父だった。

 お酒はそんなに嗜まずタバコを煙管で吸いながら、これまたもくもくと模型を作る。当時の私から見て「巨大」な戦艦大和の模型を緻密に作り、私の拙い、組み合わせただけのプラモデルをさり気なく直してくれる。

 そんな祖父が好きで良く会っていたのだが…高校、大学となるにつれ足が遠のく。


 そんな祖父が痴呆になったと伝えられたのは、確か就職1年目。


 車やバイクで外を流すのが好きだった祖父が、免許を返納。そこからはあっという間の出来事だったとのこと。徘徊をはじめい、記憶の混濁が起こり…決定的だったのが「フライドチキンを貪っていた現場を祖母が見たこと」だったようだ。

 厳格ではないものの「手づかみでご飯を食べるのはダメだぞ。箸やフォークがあるならそれをつかいなさい。道具がつかえるって凄いことなんだぞ。」とたしなめてくれていた祖父が、手づかみで、チキンとご飯を頬張っていた、と。

 戦争中、手で飯を食うしかなかった祖父が、お寿司やおにぎりも箸で食べていた祖父が、手づかみでフライドチキンを食べ、ご飯を頬張っていた、と。

 その光景をみて、祖母は諦めたそうな。痴呆を受け入れるしか無い、と。

 孫からしてもその話はショックだった。

 ただ、フライドチキン…?というところには引っかかった。祖父は、塩辛が好きだったはずだ。首をかしげる私に祖母は、目に涙をためながらこういった。

 「いつかあんたが食べたフライドチキンが美味しそうだったんだって」

 それを思い出して以来、誰かが来るとなればフライドチキンを用意しろって言いはじめてね…なんで今頃思い出しんだろうねって言って、祖母は泣いた。

 手づかみでものを食べるのに抵抗があった祖父は、私の要望でケンタッキーにつれていかされたのだ。そりゃあ渋面だっただろうな。口の周りを油だらけにして「じいちゃんうまいよこれ!!」と言われたのを頭のどこかにしまっていたらしい。

 私も、もちろん、覚えている。たしかあれは、そう、12 月末だった。友達みんなが食べたというローストチキンの話題を、私は出したのだろう。

 たべてみたいな。チキン…といえばけんたっきーのふらいどちきん!とか言ったのかもしれない。

 そのときにじいちゃんがフライドチキンを手づかみで食べたのかは覚えてない。その後も、少なくとも私達の前で手づかみで食べることはなかったと記憶している。

 ケンタッキーのフライドチキンは、この季節、よく見るし話題にのぼる。けれど、華やかで楽しげなそれとは全く逆の、なんとも言えない気持ちに襲われることもある。つい泣き出したくなるような、そんな気持ちになってしまう。

 箍が外れた時、つい食べてしまいたくなるモノ。

 そんな「最後の晩餐」のような食事の候補の一つとして、フライドチキンはあるのだ。

 私も明日死ぬとなれば、ケンタッキーのフライドチキンを白米で食べる。天国のじいちゃんに「あの組み合わせは最高だよね」なんて言って二人で笑いたい。

 (了)

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