何者かになるって何!????!?(劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM [後編]僕は君を愛してるを見ました日記)

いろいろ予定が合わず日曜日の舞台挨拶が初回になる予定だったのですが、いろいろ調節して土曜の朝イチで見ました!
10周年!クラファン!劇場版!って発表されてから前編が公開されるまでは待ちきれなくて長い長いと思っていたのに、前編から後編までの期間が短すぎて心の準備が追いつかない……
作品全体の感想はいつかちゃんと書く(かもしれない)として「きっと何者にもなれない/何者かになれる」のことだけ。
※全て個人の感想です、ネタバレある


アニメの放送時、「きっと何者にもなれないお前たち」という言葉を、現代の若者の閉塞感と重ねて共感を呼び〜と解釈している評論家?を何人か見て、その度にしっくりこないな〜と思っていた。
多分あの人たちは私より一回り以上年上の人たちで、現代の若者真っ只中の私は上の世代の人間が若い頃どんな気持ちでいたかなんて知らないし、閉塞感があると言われてもそれがない頃と比べようがないので……
なのでその頃の私は「きっと何者にもなれない」を「誰からも選ばれない、社会から存在を肯定されない」とシンプルに受け取っていた(作中の陽毬の「選ばれないことは死ぬこと」とか高倉パパの言ったことそのまんまの解釈)

でも今になって思うのは、作中で社会から肯定されまくり他人から選ばれまくっているゆりさんも「どんなにちやほやされても貴方は誰もいなくなった悪夢で目を覚ますのよ」(言葉うろ覚えなので違うかも)って言われてるように、誰かから選ばれたら、愛されたら、認められたら、肯定されたら=何者かになれる!ってことではないんじゃないかなと。
(ゆりさんは桃果がいてくれたらって思っているけど、本当は桃果がいないこと・自分を愛してくれる人が桃果じゃないことはそんなに重要じゃない気がして)

今私が思う何者かになるということは、「自分の存在を自分で肯定できる状態、生き続けることに安心感がある状態」で
その自己肯定感や安心感はどこからくるのかというと、自らの意思で何かを選び、その選択を肯定することからくると私は思っている。
ただそういった行動をするのにはエネルギーがいるから、そのエネルギーを自家発電だけで担うのは難しいしそんなことしたら心がすり減ってしまうので、そこで誰かからの愛(選ばれる、認められる、許される、受け入れられる、大切にされるなど)が必要なんだなと。

「誰かから選ばれる、愛される=何者かになれる」じゃなくて
「誰かから選ばれる、愛される→自分の存在を肯定できる、安心して生きていける→何者かになれる」なんじゃないかな〜て感じ。
この真ん中の部分が大切なのかな〜と。

映画後編の新規カットでも、兄弟が自分たちのことを「僕は陽毬のお兄ちゃんだから!」って言って明るい方に進んでいったのが印象的でした。
呪いを背負わされて、社会からその存在を肯定されなくても、受け取った愛情があれば自分の存在を肯定できるよってことなのかなと。

(今回の映画を見て、何かをなしとげる人間になること=何者かになれる!と解釈している方がいて、う〜ん?そうか〜?って思っちゃった。確かに最終的に兄弟は運命の乗り換えをなしとげたけど、それは物語の結末であって、乗り換えに成功したから価値のある存在になったわけではなくない?って思っている)

好きなシーンががっつり削られていたりもしたけど、わかりやすくメッセージが伝わる形になっていて、良い映画化でした!大感謝です

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