誰知るや。書店員の凄み 『千年の読書』
本書は、梅田蔦屋書店で人文コンシェルジュを務める書店員・三砂慶明氏が200冊を超える古今東西の本を縦横無尽に紹介した本だ。「幸福」「生きづらさ」「働き方」「お金」「食」「死」といったテーマについて、まるで本棚の本を開陳するように自らの体験を交えながら血の通った論考を綴っている。
この本を読むと、自分が抱えている悩みは人類史上で必ず誰かが経験している、という事実に気づかされる。それは安心以外の何物でもない。生きることは各自固有の経験なので、本の中にその答えは書かれていない。しかし、数千年間で蓄積された本の中には、自分に似た思考の痕跡を見つけることができるのだ。
それを発見して悩みが軽くなり、自己肯定感が生まれる。自惚れや劣等感という極端な感情から解放され「いまここ」に自然な姿でスックと立てるようになる。そんな読書のチカラを私たちが知るキッカケは何だろう。当たり前過ぎて誰も指摘しないが、それは「本との出会い」という体験しかありえない。
あなたは、そんな「本との出会い」を経験したことはあるだろうか。本を読んでいたらいつか頭が良くなると信じている方は、もしかしたら「本との出会い」をいまだ経験したことがないのかもしれない。本書では保坂和志の『言葉の外へ』から引用して、読書とは「精神の駆動」である、と書かれている。
そして、この「駆動」という言葉に導かれて、幼き日に鈴鹿サーキットでゴーカートに乗った体験を思い出している。
このように本書は、「読書は情報の蓄積」という思い込みに基づいた凡庸なブックガイドとは一線を画す。各章のテーマについて論考を加えながら、著者の読書体験を綴る珍しいスタイルをとっているのだ。読者を思い込みから解放しようとするこの試みは、間違いなく成功している。本書を通じて、多くの「本との出会い」が生まれるに違いない。
さて、本書でどんな本を取り上げているのか、そろそろ知りたくなってきたのではないだろうか。冒頭にあげたように取り上げているのは普遍的かつ哲学的なテーマなので、多くの人に読み継がれてきた本が数多く登場する。例えば、『夜間飛行』『銀の匙』『わが闘争』『夜と霧』『正法眼蔵』といった塩梅である。
「なんだ。名作ガイドじゃないか」と落胆する方も多そうだ。しかし本書では、暮らしに密着したカジュアルな本が何冊も登場する。この辺りは、権威に流されない「頼りになる書店員さん」の面目躍如たるところだ。取り上げる本がスノーボードハーフパイプの演技のように縦横ばかりか高さもあって、語り口がとにかく見事なのだ。
例えば第3章の「新しい働き方を探す旅」では、ボードリヤールの『物の体系』から引用しつつ、近年の話題書である『プラスチックスープの海』や『ブルシット・ジョブ』などが登場する。懸命に働くという行為が地球に害をもたらす現実、低賃金の意義ある仕事と高賃金の意義薄い仕事の格差に迫っている。
ウーバーイーツのお兄ちゃんはエッセンシャルワーカーなのか、と私はボンヤリ考えた。それにしてもホットなテーマである。この章では、書店員の聖地として名高い鳥取県の定有堂書店に著者が足を運んだ際、『自分の仕事をつくる』の隣で『スモールハウス』という本が併売されて良く売れていると知った時の心の動きを綴っていて興味深かった。
私たちの暮らしが誰かの仕事でできていることを教える『自分の仕事をつくる』。それと併売されて売れている、高額なローンに縛られず消費社会から離れて生きる挑戦を綴った『スモールハウス』。著者は現地で買って読みながら、「いまの働き方を変えるために必要なのは、自らの仕事と生活に目を凝らすことだ」と店主から教えられたと心情を吐露する。
私は早速この2冊の本を読むことにした。もちろん直ちにマンションを売り払って、スモールハウスに住む(いや、すでに狭い!)ことはない。でも、いまの自分に必要な本だと感じたのである。さすが読書コンシェルジュ。どんな読書家の方でも、きっと本書から新たな読書体験が拡がっていくに違いない。
働き方の章でキング牧師の『真夜中に戸をたたく』という本から、「運命が道路清掃人であったにしても、どうかミケランジェロが画を描いたように道路を清掃してほしい」という言葉を引用。そのうえで、実際のプロの清掃人である新津春子の『世界一清潔な空港の清掃人』を紹介している。この時代を超越した展開、素晴らしくないか。
羽田が「世界一清潔な空港」に選ばれた功労者の一人である新津は、清掃人をまるで透明人間か召使であるかのように見る社会認識を変えたい、と思って仕事に取り組んでいたという。清掃人という仕事に誇りを持つ新津の姿を紹介しながら、働き方の章の最後は書店員という仕事への著者の思いがほとばしる。
私は、書店員という仕事が持っている可能性は実はモノ凄いものがある、と常々思っている。著者の三砂さんは、日々の「本との出会い」と「コンシェルジュという仕事」の連鎖によって、その凄みに着実に向かっていっているのだと感じた。忙しくて本を読んでいる時間がないと嘆く出版業界関係者が多いなか、稀有な存在である。
出版不況と言われる中で、小手先のマーケティングで問題を解決しようという発想が業界内では主流だった。しかしそれで大きな展開は図れなかった。ここ10年ほどで私は、濃密な読書体験を語れる三砂さんのような人が業界内に数多いることが何よりの価値になる、と思うようになった。
「働き方」の章を説明するだけで、あまりにも多くの字数を費やしてしまった。それだけ私は本書を読みながら思考を巡らしたのだ。この7倍はレビューを書ける。読書とは「精神の駆動」である、という言葉を借りれば、まさに私の精神は駆動し続けた。そして本を閉じたとき、世界に本があり続けることへの安心感が私の心に灯った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?