ポートフォリオはあなた次第『じぶん時間を生きる』
書店で本を選ぶとき、まずオビに目がいくという人も多いだろう。本書を手にしたとき、私の目に最初に飛び込んできたのは「資本主義から自由になる生き方考」というフレーズだった。同じような内容の本を、これまで山ほど読んできた。棚に戻そうとした次の刹那、ひっかかる言葉が目に飛び込んできた。
「効率化するほど時間に追われるのはなぜ?」
その時私は、これと同じ問題意識を抱えて転職した直後だった。SNSやSlack、zoomなど便利なツールを導入して効率化してきたはずなのに、時間的な余裕が失われていくのは何故だろうか。公私の境が曖昧になり、休む間もないモグラたたきのような消耗戦を強いられている気がしていた。
脱出を試みながらも、私はまだ具体的な課題設定ができていなかったのだと思う。本書を読み始めたら、ページを繰る手が止まらなくなった。まるで砂漠に水が沁み込んでいくように、活字が浮かび上がり頭に飛び込んできた。おかげで頭がクリアになり、何をすれば良いかが明確になった。「はじめに」から引用する。
著者は東京大学法学部卒業後、イリノイ工科大学デザイン研究科(Master of Design Methods)修了。P&Gマーケティング部で「ファブリーズ」「レノア」などのヒット商品を担当後、ソニーで新規事業創出プログラム立ち上げなどに携わる。その後「BIOTOPE」を起業し、様々な企業の戦略デザインを手掛けてきた人物だ。
この略歴を見ると、資本主義的な指標(生産性、KPI、自己投資、スマホ活用…)で勝利をおさめ続けてきた人物に思えるだろう。その著者が本書をまとめているのが私には興味深い。本書はその真逆ともいえる「じぶん時間を生きる」価値観への変化が鍵になる。この「変化」について英語では2種類の言葉があると、著者は指摘する。
コロナ禍でオフィスから離れて、人々は直接会う頻度を減らした。その期間中に「じぶん時間」を取り戻すトランジションが起きていった、と著者は分析する。人々は自分にとって理想の暮らし方とは何かについて考え始め、結果として多くの人が仕事を変えたり、住む場所を変えていった。
たしかに当時は踏み続けてきたアクセルを緩め、内省を深めた時期だった。その詳細は、グレートリセット(価値観のコペルニクス的転換)という章に詳しい。「豊かさを稼ぐ毎日」「都市か?地方か?」「何をしているときに「豊かだ」と感じるか」「資本主義からはみ出すために」などなど。興味深い考察だった。
そしてその時期、著者はトランジション理論に出合う。人生の転機には3つの段階があるとする米国の人材系コンサルタント・ブリッジズによる理論である。「終わらせる時期」「ニュートラルな段階」「次のステージを始める段階(再生期)」の3段階だ。本書の説明を読むと参考になる点が多く、ご一読をお薦めしたい。自分に置き換えても面白いのだ。
実は私にもこの3段階が起きた。コロナ禍が始まった時期に私は25年間勤めた前々職を自分の意志で辞めた。慣れ親しんだ生活を1終わらせて、コロナ初年度は家族と巣ごもり生活をし、その後動きまくる2ニュートラル期間を経て、いま3再生期を迎えている。
続く章は「仕事」「住まい」「食」「コミュニティ」「教育」といった新生活のポートフォリオである。著者自身の経験や移住者インタビューを交えているので、解像度が高い。以前私も移住候補先に足を運んだことがあったが、我が家ならではの判断で東京に住み続けることに決めたことを思い出した。
本書がもし、ありがちな「脱資本主義礼賛本」「移住礼賛本」なら、そもそも『じぶん時間を生きる』という書名自体が自己矛盾になる。なぜなら読者は著者の考えにあわせて「他人時間」を生きることになってしまうからだ。多くのヒットを飛ばしてきた戦略デザイナーである著者が、そんな失態を演じるはずがないではないか。
また本書は凡百の自己啓発本とは違い、唯一無二の個性を持った本だ。頭脳明晰な著者が思考の枠組みを提示しながら、トランジションの過程を読者と一緒に辿る形になっている。そこで読者は自分と向き合うことを余儀なくされ、読書時間そのもの、つまり「いま、ここ」の価値を高めることになる。そして読者の人生を変える莫大なパワーを生みだすのだ。
とどのつまり、答えは著者(他人)が与えるものではなく、読者(自分)に委ねられている。私自身、新型コロナ感染拡大以降の自分の変化を著者の変化と重ね合わせながら、自分なりの答えに辿り着いていたことに気づかされた。著者にとっては地方移住が是だったが、私にとっては東京在住が是だったのだ。新世界のポートフォリオはあなた次第だ。
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