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忘れられない女

まだ大阪の町中に赤線地帯があった頃の話である。
シンガポールから命からがら帰還した兵輔は、焼け跡で衣料問屋を始めた。5
年も経ったであろうか。特需もあってその頃の兵輔は、多少の贅沢もできるだ
けの金を蓄えていた。その日の兵輔は、同じ街連の問屋仲間である社長たちと
赤や青のネオン街に繰り出していた。とは言っても、兵輔が、商の上のみの浅
いつき合いしかない若旦那たちと気のあうはずもない。もとより、裸一貫焼け
野原から這い上がった兵輔と戦前からの老舗の若旦那たちとは酒や女の好みも
違うと見えて、いつの間にやら、ひとりになっていた兵輔は、どこやらで聞い
たことのある店の前に居た。
「そうやそうや、おうみ屋って、ここにあったのか」
きれいどころが揃うていると噂に聞いていたのを、兵輔は思い出し、軒から店
の中を伺う風をしていた。その時、
「お兄ちゃん、入ったら」
と背から甘い女の声が聞こえた。振り返ると、年の頃なら、30ちょっとだが
幼さの残る女だった。
「そうしよか」
兵輔は女に後押しされるように暖簾をくぐった。
「男前が来たよ」
女は店中に響き渡るような声で言った。店のあちこちの小部屋から、
「いらっしゃい」
と、5人ほどの女が、兵輔にまとわりついてきた。その中に、見覚えのある女
がいた。兵輔は、ふと目を止めた。
「どうやら、国ちゃんがお気に入りのようね」
と口々に漏らしながら、女たちは、元居た小部屋に戻って行った。
国子とは、復員して間もない兵輔が、畳1枚ほどの店をやっていた頃に知り合
った。
すぐ隣で、野菜を売っていたオバチャンの一人娘が国子だった。まだまだ、兵
輔も余裕のなかった頃だから、面倒を見るほどではなかったが、母子二人女だ
けでは何かと不自由そうだったので、力仕事などがあると「お互い様や」と力
添えした思い出がある。
そのうち、兵輔は金回りが良くなり、今の問屋街に店を移して、昼も夜もなく
働いているうちに5年の歳月が流れ、国子とその母の事もすっかり忘れてしま
っていた。
「あの頃、15言うてたから、20になったんか?」
「それくらいかな。兵輔さんは、えらい出世しはったんやね。
うちは、こんなんやけど」
「オバチャンは?」
「病気してます。肺病やて…こんなん言うててもしかたないわ…」
と言うと、国子は帯をほどき始めた。
びっくりした兵輔は
「ちょっと、待ちいいな。おれは、そんなつもりや…」
「そんなつもりやない言うて、うちは、これで食べてるし」
「代金なら払う。そこで休み…」
「ほどこしは受けたくないわ…ほな、さいなら」
と小部屋から飛び出そうとする国子に兵輔は、
「待ってくれ」
「まだ、何か?」
「役に立ちたい」
「うそ…身請けして、お嫁さんにでもしてくれる?」
そこまでは考えてなかった兵輔は、次の言葉が見つからなかった。
「ふん」
と愛想尽かしたように言って、国子は次の客を探しに行った。
その夜、そのまま家に帰った兵助だが、国子のことが、どうしても頭から
離れなかった。あの女を嫁にするつもりか、女郎にまで落ちた女を、
このご時世ならいくらでも、良い嫁は見つかる。でも…
あの5年前の、15だった国子の笑顔が目に浮かんだ。可愛かった笑顔が目に
浮かんだ。目を閉じても、寝ても夢にまで出てきて、夢の中の国子は兵輔に微
笑んだ。一晩考えて、兵輔は国子を身請けに行くことにした。店が引けた頃、
意を決した兵輔は、おうみ屋の前に立った。
その時、店の中から、やくざ風の強面の男が3人飛び出してきた
「おい、まだ遠くに行ってないだろ」
「男と逃げた」
「シラミ潰しに探せ」
そんな男たちが走り去って行った後、兵輔はおうみ屋の暖簾をくぐった。
「国子に会いたいんやけど」
店の女は顔をしかめた。
「今日はいないんですよ」
他の女をと、その女は言ったが、兵輔がその気になるはずもなく、その日は
引き返した。その次の日、そのまた次の日…
1ヶ月過ぎても、とうとう国子は兵輔の前に姿を現さなかった…
それから、40年近く過ぎた。兵輔は会社を息子に譲って、月の半分を箱根の
別荘で
妻と二人悠々自適の生活を送っていた。そんな兵輔が大阪から小田原までの新
幹線の車中だった。たしか、米原か岐阜羽島だったろう。2人の目つきの鋭い
男女に連れられるように乗り込んで来た初老の女を見て、兵輔はハッとした。
その女は、あの国子にそっくりだったのだ。そして、もう一つショックだった
のは、その男女は、服装と様子からして、どうやら婦人警官と刑事らしく、時々
チラッと見える国子らしき女の両手は手錠につながれていた…

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