作品は評価とコンテクストでメインカルチャーへ

3つの自立の条件を検証することで、
北斎が日本近代の最初のアーティストだと明かしました。
彼の作品が世界の美術史上に遺されたのは、
拡散的で継続的な評価がなされたからです。
メインカルチャーに格上げされていく過程を、
評価した人たちを通して見ていきたいと思います。

まず、浮世絵を町人らがサブカルチャーとして楽しみ、
彼らの中でも教養ある高井鴻山は
北斎をただの浮世絵師ではないと評価していました。

オランダのカピタンは工芸品など日本美術の一部として浮世絵を
祖国へ持ち帰りましたが、シーボルトは北斎に直接会い日本人の男女の誕生から晩年までの絵図を注文しています。
シーボルトが伝えた西洋医学は最先端の科学でした。
そもそも西洋医学は博物学を前提とし、
その博物学の根底にはコレクショニズムがあります。
シーボルトがコレクションを意識して日本文化に接したのは当然で、
しかも北斎に大きな関心を向けたのは注目すべきだと思います。

アーティストではフェリックス・ブラックモンという銅版画家が、
1856年に友人宅で陶磁器のクッション材に使われていた様々な人間の姿や筋肉の動きを描いた北斎漫画を発見してコレクションをはじめました。

一方浮世絵は1867年明治維新の最中にパリ万博の日本館に展示され、
ヨーロッパの人々や時のアーティストたちを魅了しました。
そのアーティストたちがゴッホたち印象派の画家たちであることは衆目の一致する所です。
しかしヨーロッパに持ち込まれた浮世絵は玉石混淆で、
人々の珍しい物を見る好奇心を刺激する程度であったと察せられます。
それらの品質を格付けするコンテクストを作ったのが、
1900年のパリ万博の日本館の事務官長から美術商へ転じた林忠正です。
彼のコンテクストが無ければ、北斎らの浮世絵が今日日本のメインカルチャーになることはなかったかもしれません。

世界の美術史に燦然と輝くモネやゴッホの作品に多大な影響を与えた北斎の評価は揺るぎないことになったのです。
アーティストの新しい表現は別のアーティストが誰よりも早く気付くものです。

次回で北斎を終わりにしたいと思っています。

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