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「シン・エヴァンゲリオン」 〜檻を後にした日〜

シン・エヴァンゲリオン。
鑑賞し終わりました!

これが「万感」……。
と言った具合で綾波ばりにぽかぽかしております。

この文章は鑑賞後すぐに書いておりますので、エモーション優先で取り留めのない物になるかと思いますが、どうぞご勘弁ください。

※ネタバレが含まれますのでご注意ください。

今作は観客、その中の1人である私、そしてこれは私の想像に過ぎませんがエヴァンゲリオンに向き合い続けた庵野秀明という人が、長年囚われ続けてきた『檻』から解放された作品だったと感じました。

TVシリーズ、旧劇場版、新劇場版と長く描かれてきた碇シンジという少年の物語は、今作を迎えるまでただひたすらに「成長の境界線」へと向かう物語でした。

つまり碇シンジは、エヴァンゲリオンという物語の中で常に停滞していたのです。
世界の存亡だとか、カリカチュアされた葛藤を背負わされれば、正直10台の男の子が全てから目を背けたくなるのも仕方のないこととも思いますが。

ここからは限りなく私個人の話になります。

思えば、私が初めてエヴァンゲリオンに触れたのは中学1年生の頃でした。

初めはメカのかっこよさだとか、街のデザインのセンスに惹かれたのを覚えていますが、碇シンジの葛藤に関しては、正直良い感情を持っていませんでした。

何より周りから責め立てられるシンジくんを見ていて、なんだか自分も責められている様な感覚があった事を覚えています。

今となっては、その感じ方も間違ってはいなかったと思います。

なぜ新世紀エヴァンゲリオンという作品が、こうも広く愛され、また憎まれているのかはそこにあるのかと思っています。

我々の胸の中にあるジクジクとした、膿のような未熟さを、触れて欲しくないその核心を躊躇なく鷲掴みにされる。
中学生の私にはそれが堪らなく居心地が悪かったのです。

そうして私はまんまとシンジくんと同じ『檻』の中に閉じ込められたのです。

そうやって旧劇場版、新劇場版Qまでひたすらシンジやアスカ、ミサトさんやレイ、果てはゲンドウたち共々『檻』に閉じ込められた私でしたが。

それでも。

常に停滞の中にいた碇シンジという少年が、その足で境界線を超えていく日を。

永く、暗く、冷たいその『檻』を後にする日を、私はずっと。

ずっと待っていました。

「ミサトさん、行ってきます」

そう言ってシンジくんはマリのエヴァに乗り込み、父ゲンドウを追って裏宇宙へと進みました。

ああ、シンジくん。
行くんだね。

もうそこから涙が止まらなくて。

停滞していたシンジくんが、次こそ前に向かって歩いていく。

そうだよ、これが見たかったんだ!!!!!

誰かに認めてほしかった、好きだと言われたかったアスカの願い。

自分が誰なのか、何なのかを知りたかったレイ。

ずっと幼くて身勝手な自身を見ないようにしてきたゲンドウ。

多くを失ってなお責任と贖罪を見つめて、真っ直ぐに生きたミサトさん。

やっと踏み出すことのできた、シンジくん。

まるでこれまで落としてきた物を拾い上げるように、最後の最後に観客を想ってくれたであろう、庵野秀明監督。

カヲルくんが「シンジくん。君は大人になったんだね。少し寂しいけれど、それもいいね」と言ったように。

少し寂しいけれど。

ラストシーン。
マリの手を取ってシンジくんが放った一言とその自信と希望に満ちた表情で、永く永く続いた私とエヴァンゲリオンとのくんずほぐれつの大立ち回りも終劇を迎えました。

「行こう!!」

ありがとう、エヴァンゲリオン。

さよなら!!エヴァンゲリオン!!

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