まい すとーりー(2)仏像展に見る触文化

法友文庫点字図書館 館長 岩上義則
(『法友文庫だより』2013年冬号から)


仏像展の意義

 2012年秋のこと、コオロギの声が弱まり始めた10月27日、霊友会法友文庫点字図書館主催による「手で見る仏像展」が開催された。

 出展作品は、いずれも日展(日本美術展覧会)監事、日本彫刻会運営委員の桒山賀行氏の手によるもので、レリーフを含めて13点が展示された。『天上天下唯我独尊』で知られる誕生仏をはじめ、観音像5体、不動明王像3体、地蔵菩薩像4体である。

「手で見る仏像展」の趣旨は、参加者を視覚障がい者に特定せずに、むしろ晴眼者(目の健常な人)にも、手で見ることを通して見えてくる世界の広がりを知ってもらい、新たな感性の目覚めを期待することにあった。
 とは言いながらも、日頃仏像を手で見ることに恵まれない視覚障がい者に、この機会をとらえて存分に触れて堪能してもらいたいという熱い思いがあったのは言うまでもない。結果的にはその思いが十分に達成されたものと、主催者の一員として大満足である。


参加者の感激と喜び

 この日の参加数は200人を超え、盲人の参加が12人あった。最近は、視覚障がい者の美術鑑賞に理解を示す美術館や展示会の開催が増えてきているものの、まだ十分とは言えないし、ましてや仏像に直接触れるなど恐れ多いこととされていて、近づくのも無理な現状だ。なんとか良き理解者を得て、霊友会法友文庫点字図書館の事業として実現したかった。その希望が桒山賀行氏の絶大なご協力によってかなえられたことに深甚なる感謝の意を表したい。
 仏像展の時間が、 13時~16時までの3時間に限られたので、参加数がどうかと心配したが、大勢に見ていただけたことと、うれしい感想が聞かれたので、期待以上の成果があったと自負しているところである。
 
 喜びの象徴は、遠く滋賀県彦根市から参加した視覚障がい者ご夫妻から寄せられた感想であった。
「仏様はただありがたく拝むものであって、触れることなど到底許されないとあきらめていたので本当によかったです」
 他の視覚障がい者も異口同音に喜びを述べていたが、どの人も、仏像の顔から足元まで丁寧になでさすったり、真反対に向けて観察したり、手指の節々がリアルだと関心したりで、それぞれの満悦の様子が伝わってきた。

 晴眼者の触り方はさらに大胆で、なかでも子供は、仏様や観音様を抱きしめたり、ほおずりしたり、においをかぐなどしてはしゃいでいたと、その奔放さが報告された。


触文化の価値を見直したい

 ところで、目は、触覚の機能も代行するので、普通の場合、手の感覚は休眠状態にあると言える。だから、今回の展示会で、手で見ることにそれなりの発見があったとしても、基本的に、手で見る真の喜びを求めることは無理かもしれないが、触文化にも高い価値があることを知ってほしい。
 一方、視覚障がい者にとって、手で見る(触れる)意義は、目で見る、それに等しい。目は、感覚器の王者として最上位にあるのは否定しないが、手で見る・創る文化にこだわる晴眼者も大勢いる。陶芸家、彫刻家など造形にたずさわる人たちもそれにあたる。その人たちは、作品を目で見て制作しながらも、その過程ではしばしば目を閉じて、手で見た感触を究極の納得にすると聞いている。そうした話は、視覚障がい者にとってはなんとも心強いし、視覚障がい者こそが、触覚を磨いて休眠からの覚醒を図り、豊かな想像につなげねばならない。

 つらいのは、触覚はピンポイントの感覚であり、全体像の把握がはなはだ困難で立体感もつかみにくい点にある。しかし、掌中にあればぬくもりは格別で、触れて知る確かな質感・愛着・親しみには目を凌駕するものがあることを確信している。
 もう一つのつらさは、触覚を養うためには、過酷な訓練を覚悟しなければならないことと、想像を広げる学習が求められる点だ。
 過酷な訓練の代表は、点字の習得であろう。点字は単純な成り立ちながら見事な規則性を持った文字であるが、これを指先で読み取って読書にまで高めるのは至難であり、途中で放棄する者も多い。
 それでも、あえて言わねばならないのは、点字の読み書きは視覚障がい者の自立と社会参加の原点だということである。それに、視覚障がい者の主たる職業は、あん摩・鍼・灸なので、診断や治療には手の鋭敏な感覚が求められるし、指先が知識の窓であることを知らねばならない。
 幼児期の失明は、想像の翼を広げるにも、ハンディが重い。たとえば、1本の木を想像するのも大変なことだ。木は根と幹と枝葉からなると知ってはいても、一体の姿としてイメージできなければ木にはならない。しかも、木の太さ、高さ、枝ぶりや葉の重なり、花の世界までも見なければならないとしたら、どのように想像をめぐらせばいいのか。さわって物を知るとはどういうことかについての高い見識が必要になる。それについては、私の貧弱な私見を披瀝するよりも、これに関して崇高な哲学をもって実践している学識者を紹介して手引きにしよう。


“情熱にさわる” は、 “知的冒険”

 一人は、大阪・吹田市の国立民族学博物館の准教授である広瀬浩二郎氏(全盲)。氏の著書には、『さわる文化への招待-触角で見る手学問への進め-』がある。氏は、その著書で“希望にさわる”“情熱にさわる”などという持論を展開しながら、さわる意義を生き方の道しるべにまで高めている。
 “情熱にさわる”とはどういうことか。氏は、“知的冒険”だと言い切っている。あくなき知識欲を追い求めるには、恐れずひるまず丹念に手で見ることが重要なことを示唆している。そして、豊富な経験を積み重ねることで、豊かな想像力が高められることをも教えている。
 “希望にさわる”とは何か。そこでは、「障がい者の苦労や努力で解決するのでなく、無謀と希望に満ちたおもろい体験だ」とやはり体験を重視している。
 もう一人は、“百聞は一見にしかず”を逆手にとって、“百聞は一触にしかず”を看板に掲げて、盛岡市に手で見る博物館を開設した桜井政太郎氏である。氏は、「小さなものは大きく」「大きなものは小さく」を手法として膨大な模型、剥製、レプリカ、実物を揃えて、視覚障がい者の知識欲に応えている。すなわち、スカイツリーなど大きすぎて触察不可能なものはレプリカや模型を使って小さくし、アリのように、小さすぎて触察が困難なものは大きな模型を使って見せるというやり方だ。

 このように、さまざまな試みや取り組みを通して、触文化の向上・発展が図られているが、今後さらなる広がりが見られることを期待したい。

神仏との身近な関係を築きたい

  私は、今回の仏像展を終えて、人と神仏の距離について特別の感慨を持つようになった。集約すれば、「もっと人と神仏は身近な関係になるのが望ましいのではないか」ということである。
 仏像展で一度触れただけでもあれだけの感動を多くの人に与えたのだから、常に仏像がそばにあれば人と神仏との距離感が縮まって、より暮らしに密着した親密な関係が築けるのではないかと、期待をいだくのである。

 神仏は崇拝の対象で、つい遠い存在にしてしまいがちだが、もっと身近な存在になるためには、たとえば人が大勢集まる集会所などで、窓辺やテーブルに花瓶やオブジェなどを置いて癒しを与えているように、ごく自然に仏像が常設されることがかなえばいいとの思いに駆られる。しかし、宗教色があるものや催しを嫌う日本の現在の風潮では、およそ無理な話ということになるのだろうか。美術感覚で、いつでもさりげなく仏像を手で見られる環境が整えば、晴・盲が触覚の世界を共有できることになり、その意義はきわめて大きなものになる。

 この世と仏の世界は、10万億土も離れていると言われる。そうだとすれば、これはイメージの及ばない距離だということになる。10万億土も向こうの仏を日常的に見るためには、どうしても形にしたものがほしくなるのが人情で、それが仏像として現されているのだろう。存在を形として確認したいのは視覚障がい者も同じで、その意味では、手で見る自由がさらに広がるよう願わずにはいられない。飛躍かもしれないが、仏像が身近に見られることによって信心が深まり、先祖供養も根付いていくのではないかと、そんな空想に走ってしまうのである。

 ふれるも良し、見るも良し。そのような状況と常識を共有できればすばらしい。

 最近では、仏壇や神棚がある家が極端に少ない上に、神社仏閣へ出かけても、神仏が宝物として扱われてしまって近づきがたいのが実状である。神仏の気持ちを察するに、決して人との遠い関係を望んでいないはず。むしろ身近にあって人の煩悩を受け止め、五濁と悪行に救いの手を差しのべたいと願っているのではないだろうか。

 さらには、身近な関係を築くことこそが、日本人の心から遠のきつつある親孝行や思いやりを育み、信心のめざめにつながっていくのではないかと思い、そうした観点からも、「今回の手で見る仏像展は、実によかった」と、つい我田引水を口にしてしまうのである。


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