物語と生きるということ
毎日同じ時間同じお客さんから同じ内容で電話がかかってきたことに耐えられなくなったとき。残業で終電を逃したタクシーの中。同居人に同居解消を願い出て拒否されたとき。任せた仕事が真っ白で返ってきたとき。
わたしは彼女を思い出す。深海晶を思い出す。
深海晶は2018年秋に放送されたドラマ「獣になれないわたしたち」の主人公である。わたしが「けもなれ」を初めて視聴したのは2020年の5月。
社会人になって1か月が経って迎えたゴールデンウィークのことである。
家族のごたごたによる心の整理がつかないまま迎えた社会人生活は、自分が今までいかに人に甘えきって生きてきたかを突きつけられた。
自立をしたくない、したくないと叫ぶわたしの補助輪を「仕事」は容赦なくぶっ叩き、粉々にし、派手に転ばせた。
学生時代から決意していた職種には就かず、それに近い仕事に誘われるまま就職した。
母が病気だと分かったときに教師になる気力は削がれてしまった。
はじめての上司はスーパーコンピューター並みの処理能力を持ち、スーパー営業上手マンだった。次々と新規のお客さんを上司が入れていく中、わたしは赤ちゃんだった。
もともとわたしには社会性が薄いのではないか?と思うときが多々あり、再三言っているが倫理観に全く自信がない。友人が靭帯を切ったとき爆笑して口を聞いてもらえなくなった人間が、「仕事上の軽い人間関係」に馴染めるはずがなかった。
上司は頭の回転が恐ろしく速いので、次々と要望をマシンガンのように言い放つ。わたしは毎日穴あきになった。
この頃から眠れなくなり、母が死んだのは自分のせいだと強く思うようになった。
まともに自転車に乗れることなく迎えた連休は、当時付き合っていた恋人のところで過ごした。
緊急事態宣言中だったと思われ、恋人と部屋に籠ってドラマを見続けた。そのときわたしはすでに「けもなれ」を見始めており、わたしがおすすめして続きを一緒に見ることになった。
「けもなれ」は、非常にスローなドラマだった。
明るくて、人生を変えてしまうような劇的な恋愛を映すのではなく、「けもなれ」は深海晶という一人の人間の人生のドラマだった。
わたしたちは常にときめいて恋愛をしたり、好きなことを追いかけているわけではなくて、日常には仕事があって、家賃の更新とか、人付き合いとか、そういうものの割合のほうが大きい。しかもその隙間に輝かしい恋人との時間があるのではなくて、ときに面倒くさい問題として恋愛が影を潜めている。
「けもなれ」はそういう、わたしたちのほんとうの日常に寄り添ってくれるスローさがあるのだ。
晶を演じる新垣結衣は、日本国民の「ガッキー」だ。
「けもなれ」の考察を見るとよく書いてあることだが、わたしたちはガッキーに「ガッキー」を押し付ける。
社会の理不尽に振り回されながら、それでも笑顔で頑張るガッキーの話、として期待をし「けもなれ」を観るのは大間違いだ。
わたしたちは、「けもなれ」を通して、ガッキーに「明るくてかわいい女の子」を押し付けていたことに気がつかされる。
わたしたちは晶と出会うことで「ガッキー」に出会い直すのだ。
晶は松田龍平演じる恒星から「笑顔がキモイ」と言われる。逆境を、笑顔で乗り越える晶は、ほんとうは誰よりも矢面に立つ。嫌われる。遠巻きに見られ、味方はいない。晶の味方はいないのだ。「深海さんとわたしは違うから」
これもまた、自分と重ねてしまうのだが、わたしを半年間無視したクラスメイトは、その理由を「明るくて気持ち悪いから」と言った。
人の劣等感を刺激する何かを、わたしが持っているとは思えない。けれど、上手く立ち回れなくて、人から嫌われ、すがって関係を悪化させたことは、幾度もある。
晶の楽しみは5tapで飲むクラフトビールである。
このドラマを見てからビール飲みに憧れ、ビールを好んで飲むようになった。
1話で晶が、ふらりと電車に飛び込もうとしてしまう場面がある。
2020年、わたしも死んでしまったほうがいいかもと思ったことが何度かあった。
だから、晶が地下鉄でふらふらしているのを見て、心がかゆくて仕方なかった。
他の人から見たら、死にたがりの構われたがりなのかも。ふらっと死にたくなることなんて人生いつでも何度もあって、そのたびはっと、ぞっとするのだった。誰かに気がついてほしくて死ぬ、というのは、全くあり得る話なのだ。
自称ホワイト企業の御社は2年目にしてわたしを独り立ちさせた。片道1時間半かかる職場、ワンオペ、度重なるトラブルに発狂はしたが、前年が嘘のように精神が回復していたので、めちゃくちゃ仕事をした。
晶にとっての獣は、パワハラの激しい社長九十九である。流れるような関西弁で晶を追い詰めていく九十九社長は、自分の思ったことやってほしいことを休日の部下に鬼のような量のメッセージで伝える。顔を合わせれば罵声怒声のパレードで、晶が獣である九十九に搾取され疲弊していく様子も胸が痛くなる。
ワンオペのため、職場でなにかあると後輩や上司から電話・メッセージが届き、社会人2年目、仕事をしなかった日は実質なかったんじゃないだろうかと思うほどだ。
あるお客さんから「○○(わたし)に電話にでてほしい」と執拗に電話があり、上司が対応してもおさまらず家の近くの公衆電話から電話をかけたのは記憶に新しい。
友人とこれから映画を見ようというとき、親の借金のために弁護士事務所に相談にいくとき、職場からの着信を確認してやるせない気持ちに何度もなった。
それでも前より落ち込んだり悲しんだりしなかったのは、ひとえに、辛くても死にたくても時間は止まらず、日常を生きていくしかないと、わたしがやっと自覚したからだった。
晶の「日常を壊す爆弾」は、「退職届」であり、それはわたしも同じだった。
精神が嘘のように安定していく中、わたしが着手したのは「転職」という爆弾づくりだった。
友人たちの協力もあり、転職活動をはじめてすぐに内定をもらえたことは大変ありがたく、これから先再度試験を受けなければならないものの、ずっと自分がなりたかったものになれる喜びは言い表すことが難しい。
しかし、現職で働くのが楽しくなかったわけではない。
スーパーコンピューター上司はわたしのせいで柔軟な姿勢をとることを強いられ、かなり協力的で優しいひとになってしまった。これが良いのか悪いのかわからないけど、わたしは彼のことがかなり好きである。
今はWワークをしながら、現職と「なりたかった職業」を行ったり来たりしている。
晶が最後、退職届は出しても部屋の更新はしなかったように、わたしも、獣にならない道を選んだ。半獣である。
晶や恒星はずっと、「馬鹿になれたら楽なのにね」の、獣になりたい欲求を見え隠しさせる。
晶にとっての獣は九十九だし、元カノを家に住まわせる恋人京谷だし、その京谷と寝ちゃう呉羽だし、恒星にも、「自分も馬鹿だったらこういう風に振る舞えるのに…」と思う相手がたくさん、たくさんいる。
わたしにとっての獣は、新卒で入った会社の働き方、と、同居人である。
仕事については先に述べたが、同居人に対しては、爆弾を作ることが出来ていない。
わたしは、唯一の肉親である同居人とは、小さい頃から気が合わなかった覚えがある。
お互い気性が激しかったこともある。母づたいでわたしを悪く言っているのを何度も勘づいたし、わたしへの態度で理解していた。
一緒にいることは当たり前になってしまって、抵抗感ももうない。今はどちらかというと仲は良い。
わたしの部署移動が決まったとき、1時間半する通勤時間が嫌で、同居人に同居を解消しないかと相談したところ、「あんたは自分のことしか考えていない!」と言われた。
まあ、それはそうだろう。
しかし同居人がどこに住むにしても、わたしはお金は出すつもりだったし、彼女の生活費負担が少なくなるようお互いの自立を促したのだが、聞き入れてもらえなかった。
その後も、転職や今後のことを話す際には離れて暮らそうと言ってはみるが、「ショックだ」と言って聞き入れてはくれない。
お互いの進路をお互いが邪魔する関係は、非常に不健康ではないか?
わたしは、同居人が嫌いとか、もうそういう次元で語れる関係ではない。
「ただそういう人なのだ。本当に他意なく嫌みっぽいとこちらが感じる言い方をしてしまうひとなのだ」と気がつくまでかなり時間がかかったが、そういう性格なのだ。
優しいところももちろんある。わたしの仕事が忙しいから家事をほとんどやってくれている。
話をしていて面白い楽しいと思う。が、わたしにとって同居人は、愛すべき獣なのだ。
わたしも、「移動が多い職業なのにその度に一緒に移動するのか!人を悪者にしないでせめて話し合いをしてくれないか!いつまでお互いに合わせて生活をしなければいけないのか!これから一緒に暮らしていくにしろ話し合わないといけないことはたくさんある!」と相手の気持ちを考えずにぶちまけてしまいたいが、同居人が先に感情的になってしまうのだから、わたしは飲み込むしかない。
支えたい、と、一緒に暮らす、は、わたしの中で同義ではない。
わたしは、「家族」という枠組みをやめたい。
家族だから一緒にいなければいけない、仲がいい、とか、もう全部要らない。
晶は、母子家庭で、その母がマルチ商法をやっており、絶縁状態にある。
母子家庭で、母が死に、わたしの父親もインターネットビジネスでお金を稼いでいる。姉とは上手くいっているんだかいっていないんだか、搾取されているんだかわたしが姉を搾取しているんだか、もうわからない。わたしは家族を自分で選びたい。
晶は、京谷の家族が、京谷の母である千春のことが、すごくすごく、欲しかったと思う。
わたしも、前述した彼氏のお母さんがすごく良い方で、元彼よりも離れるのが辛かった。すごくすごく好きだったし、このひとの家族になりたい、と、思えた女性だった。
晶は、退職届を出して、賃貸の更新をして、自分のこれからを考える。というところで物語は終わる。
恒星とは、鐘が鳴ったのか?どうなのか。鳴っても鳴らなくても、ふたりで、苦いビールを美味しく飲んでいてほしい。
わたしは、「けもなれ」を視聴後、ずっと晶と生きている。晶はわたしであって、わたしではない。晶の人生を見ていると、自分にも、他人にもなれる。
物語と生きていく、とは、つまりそういうことだと思う。他者の目線を得ること。自分のことを言葉で整理できるようになること。認識のレンズを得ること。
晶はわたしに、晶のレンズをくれた。
思考する言葉も、物事を見る目線も。日常を必死で生きていると、ふと、やっぱりそこに晶がいるのだ。
晶は、獣にはなれなかった。ならなかった。
他人を搾取し、他人と自分を比べる勝ち負けの土俵にいる獣たちに、爆弾を投げ、恒星と手を繋ぐことを選んだ。
わたしも、獣ではなくて、そばにいる、わたしが選ぶ家族と手を繋いで生きていきたい。
だから、わたしは同居人に爆弾を投げない。お互いが納得して一緒に生きる術を探していきたい。
「もっと大変なひとがいるじゃないか!」「不幸自慢じゃないか!」「お前とガッキーを一緒に語るな!」というような、野党・獣の声には聞く耳を持たず、わたしは絶対この先も、晶と一緒に生きていく。
フィクションと生きていく。
タクラマカン!tap1、湘南ピルスナーで!
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