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素晴らしいものを考察するということ。ミメーシスの媒介としての"考察"

音楽とか映画で素晴らしい作品に出会った時にどうしようもなく落ち着きがなくなる。この素晴らしさをどう表現すればいいのか、どこに発散すればいいのかわからなくなり、同時に、胸が幸せでいっぱいになる。

大体は何が素晴らしかったのかを考察することになる。それをすることで、誰かに素晴らしさを伝えたり、素晴らしさを忘れないようにしたり、高まった感情をある程度は発散せることができる。

作品を受け止めるのはある瞬間の個人の状態である。個人の状態は個体によって異なるし、時間が経つにつれて変化する。つまり、素晴らしさの基準は時点と個体によって異なる。考察はそういった異なる状態間でのミメーシスという機能を持つ。ミメーシスというのは、ある媒介を通して特定の感情が誰かに伝染することである。

ミメーシスは、異なる個人間でも起こるし、異なる時点の個人間でも起こりうる。以前に書いた日記を見直して、その瞬間の自分と同じ気持ちになったりする。だから、素晴らしいという感情のミメーシスが良い方向に働く考察を行わねばならないのだ。良い考察はより素晴らしいものを発見させてくれるのに対し、悪い考察は固定観点を押し付けてくる。

悪い考察をすると純粋に作品を観れなくなってくる。素晴らしさの理由は簡単に見つけ出すことができない。素晴らしさの理由を決めつけてしまい、可能性を制限するようになった瞬間に無条件的な素晴らしさが失われてしまう。何も考えなくても素晴らしいというのは、その人にとってはちゃんと素晴らしいのであり、素晴らしさの条件(固定観念)を満たしたものは素晴らしいとは限らない。

一方、良い考察は今の自分に勇気や希望や愛を与えてくれるものだ。それは素晴らしさを定義するものではなく、素晴らしさの可能性を広げてくれるものだ。新鮮な視点で捕らえられた素晴らしさは、個人の視界を広げ、生活を豊かにしてくれる。自分がある作品を純粋に素晴らしいものと思えなくても、誰かが書いてくれた考察を読んでなんとなくわかるということがある。それはとても素晴らしいことではないだろうか? 自分が今までなんとも思わなかった日常の出来事を、素晴らしいと思えるようになるかもしれないのだ。

私は、そういった良い考察をしていきたいし、誰かの良い考察を読んで生活を豊かにしていきたいと思うのである。

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