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【4】『残酷な神が支配する』――グレッグは、「過去に受けた精神的・肉体的ダメージの集合体」だった

約9年にわたって連載された長編『残酷な神が支配する』。美しい母親と寄り添い暮らす少年・ジェルミが、母の再婚をきっかけに、義父グレッグから「愛」と称した性暴力を受け、深い絶望の淵に追い込まれます。そこから、義理の兄・イアンとの関係を紡ぎながら、どうやってジェルミが再生していくのかを描いた、壮絶な美しさのある衝撃作。本作に秘められた“「立派な家族」を切り捨てる”というテーマについて溝口さんが紐解きます。

異次元へのジャンプ

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溝口 『残酷な神が支配する』は、1992年から2001年と長期にわたって連載された作品です。リアルタイムで読んでいたときも、惹きつけられて夢中になっていました。ですが一方で、率直に言えば、ジェルミがかわいそうすぎて、「どうしてこんなにひどい目に遭うんだ!」と冷静でいられない思いもありました。

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『残酷な神が支配する』文庫版1巻
(小学館、2004年)

あとから読み直して気がついたのですが、『残酷な神』で描かれている、暴力的で残酷な性行為自体は、商業BLで描かれているセックスシーンのほとんどよりも、ずっと激しいものなんですよね。でも、『残酷な神』は、ポルノとしてはまったく受け止められていないし、受け止められない。これはどういうことなのか。

ということで、私はこの作品がきっかけで、“描かれている内容”――英語で言えば“what”の部分――を見るだけではなくて、“どのように描かれているか”――“how”の部分――にも着目しなければいけないと気づかされました。

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『残酷な神が支配する』2巻、1993年 
©萩尾望都/小学館

溝口 こちらはコミックス版2巻より、見開きのシーンです。ジェルミがグレッグに数えきれないくらいアナルセックスを強要され、ときにはベルトで打たれたり、首を締められたり吊るされたりしていることは、読者は理解してはいます。でもそれらの行為において、ふたりが全身像で描かれることはなく、右側ページのように、部分の連続で描かれます。また、ジェルミの涙が描かれることはありますが、体液、いわゆる“汁”と呼ぶものが描かれないことも重要です。

左ページでは、両足を大きく広げたジェルミが逆さになり、その足のあいだに、美しい植物が生い茂っている。そして、仮面をかぶった人物が足を広げている。このページでは、「今ここでなにが起きているのか」とは全く異なる次元にジャンプしています。

これは、すでに見た『ポーの一族』の『グレンスミスの日記』で、メリーベルの姿と「極上の美」からはじまる詩で、「いま・ここ」とは異次元でバンパネラの説明をしているシーンや、『メッシュ』がレイプされたあとの、羽根がむしられている描写にも通じます。この「異次元化」とも言うべき手法は、『残酷な神』ではさらに大胆かつ頻繁に使っていらっしゃるように思います。

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『残酷な神が支配する』3巻、1994年 
©萩尾望都/小学館

溝口 もうひとつは、3巻の見開きシーン。右ページでは、上段の2コマで、グレッグがうつぶせのジェルミにぴったり覆いかぶさっている姿が描かれています。だから、ほぼ上半身のみといっても、読者はジェルミが後ろから犯されているのだと想像できます。

そして、3コマめのグレッグの顔がお面のように描かれていることによって、寓話的な次元がそこに出現しています。残り2コマのジェルミの泣き顔は、もちろん物語のなかの「いま・ここ」の次元でも機能し、苦痛と屈辱に涙している現実を描写していますが、同時により高次元の寓話の次元へのジャンプでもあると思います。

そして、「逃げてやる 答えが見つかったら」というモノローグで左ページにつながっていきます。左ページは、全体がテキストつきのイラストとなっていて、ここでのジェルミのモノローグは、寝室で陵辱される彼の思いを伝えてはいるけれど、吹き出しの「なんという苦痛 なんという絶望 きみの絶望の深さを わたしは愛するんだ」は、グレッグのセリフでありつつ、同時に、より普遍的な次元で、人類が抱える矛盾の悲劇を連想させる言葉になっています。

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分節化するのは「まともなセックスシーンって、意外と面白くない」から

溝口 ここで思い出すのは、美術史において、すぐれた画家たちがどのような作品を描いてきたかということです。ここでは一点だけ、萩尾さんの作品ではなく、ゴヤの作品をあげます。

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フランシス・デ・ゴヤ『理性の眠りは怪物を生む』
(『ロス・カプリチョス』1799年)

溝口 スペインの画家フランシス・デ・ゴヤによる作品で、1799年の銅版画集におさめられた『理性の眠りは怪物を生む』という銅版画です。サブタイトルに「理性に見放された想像力は手に負えない怪物を生む。理性と結合すれば、想像力は諸芸術の母となりその驚異の源泉となる」といった意味の文章がついています。

銅版画なので、実際は21.5×15センチほどのとても小さな作品ですが、すみずみまでじっくり眺めたくなるような力を持っています。ここで先程の『残酷な神』2巻の絵に戻ると、この作品の随所に登場するぶち抜きの一枚絵は、前後の物語の文脈から離れて、一枚の絵画をじっくり眺めさせるような効果があるように思います。

その間、読者はマンガの読者というよりもむしろ美術作品の鑑賞者のようになって、うっとりと楽しむことができる。だからこそ、苛烈極まりない性暴力の物語を楽しむことができているのではないかと思いました。長くなりましたが、そのあたりの狙いについてお聞かせいただければと思います。

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萩尾 『残酷な神』は、割と言葉が先に出てきて、その言葉や意味を表すためにはどんなビジュアルが浮かんでくるか、という書き方で描いた作品です。たとえば、さっきの鳥の爪で羽根をむしられるシーンは、「このセリフだと、絵はこんなふうにこうなるだろう」と思いながら、冷静な感じで描いていました。その下にある絵は、ジェルミも非常に辛い目に遭っているので、「ブランコの木の下で首を吊っているのは自分かもしれない」と、グレッグの前の奥さんが自殺した話とシンクロしているんですね。

その前の、ジェルミが足を広げている絵は、「どうすれば絶望というものを表すことができるか」と考えて、磔(はりつけ)の刑でかつ逆さにした。だから、構図が先に決まっていて、あとは全部デザインするだけというか。(ジェルミの股に)植物を詰めたら面白いんじゃない?という、ほんとにそのくらいの発想なんです。でも描いてみたら、結構きれいに描けましたね。

溝口 はい、美しいです。つまり、描いているときは、読者をうっとりさせるような美しい絵を描くことを意識しているわけではないのですか?

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