合否

黒いヒールで歩いているのは、手入れされていない雑草が心地よく揺れる砂利道だった。砂利と、白砂と、泥が、不規則に乱れて混じった道である。

私は黒のジャケットを羽織り、同じく黒色のスカートを履いて、やや靴擦れの血で汚れた薄い、私と同じ肌の色のストッキングを履いた格好でその不条理の道を進んでいく。

今は暗がりで、私は近視だから、道の両脇がただひらけていて行き止まりがなく、無限に続く空間のようにしか捉えることができない。

ただ、私の行く先には大きな道路が横切っていることが分かる。大型車両が走る時のざらざらした低い音をそのわずかな振動で感じ、黄色や赤色の点がそのスピードによって線を描いたり、描かなかったりしながら通っていくのが見える。
その道路はだいぶ先にある。私が目指している場所がどこなのかわからない。

途中、左の空間に、近代的な光が小さく存在していることに気がつく。
私は思い出して、事の全てを思い出して、急ぎ足でその光に向かった。

元来田畑として機能しているであろうその場所に、パイプ椅子が一つ、その先に一つのパソコンが置かれた移動式の白色の長机、そして顎の高さで綺麗に切り揃えられたブロンドの髪の女性が、座ってそれを操作している。

この若干ぬかるんだ土の上で、移動式の長机は移動式として機能しているのか。この地面以外に何もない場所において、パソコンはパソコンとして機能しているのか。

私は、自分が立っている道からその女性に向かって、「本日はお時間をいただきありがとうございます。よろしくお願いします。」と言った。
するとその女性は慌てて立ち上がり、「お待ちしてました。どうぞおかけください。」とパイプ椅子を手で指した。
私は「失礼します。」と言い、軽く一礼して椅子に座る。あまりに地面がぬかるんでいるので、若干脚を浮かした姿勢で、私はそれが相手に悟られないように笑顔を作っていた。

「今回はこんなことになってしまったので、本当は人材集めをしている場合ではないのですが、私たちはこんな状況の中、ここにきてくれる数少ない方にこそ熱意があると信じています。」とその女性は言った。

こんなこと、とはどんなことだろうと思いながら、ただこの場においては、どうやら私が熱意のある方の人間に分類されていることを理解し、それを演じようと瞬時に考えた。
私は「荒廃した土地が豊かな実を生むまでに要する時間は相当なものと考えますが、必要なのは浄化と養分だと考えます。」と言う。
その女性は、「それはすてきな考えですね!」とにっこり笑う。黒く太いアイラインは笑った時のその真意を全て隠してしまって本心なのかは全くわからなかった。

私たちの後ろで野良犬と野良猫が交尾を始めて、恍惚か辛苦か、どちらかの叫びをあげている。

「あなたのこれまでのことを教えてください。」とブロンドの女性は言った。

さっきまで肌寒かったはずが 湿気を含んだ生ぬるい風が後ろから吹いてきて、なんだか体の表面が熱く、気持ちが悪い。

私のこれまでのこと。これまでのこととは何だろう。息が詰まって言葉が出ない。「私は、」と言いかけたところで、「あなたは先ほど素晴らしいことをおっしゃってくださいました。どうぞ焦らず、ゆっくりと自分のこれまでのことを教えてください。」とブロンドの女性に遮られる。

ここがもし、就職活動の場だとすれば、私は本当のことを言ってはいけない。私の過去の本当のことは、ここに実在している私が限りなく弱くなってしまった人間であることの証明であるからだ。しかし、そうでないとしたら。誰でも言えるようなことなど求められていないとしたら。私自身の特異な経験がこの人にとって必要であるとしたら。手のひらが急速に熱くなったり冷たくなったりしている。野生動物の喘ぎ声がサイレンのように頭に響いて煩い。

「はい。私は、

人と、生きてきました。人は時に私を愛し、時に憎みました。私はそれを一身に享受し、故に孤独でした。しかし、私は常に自分が誰かにとって大切な存在であろうとしました。それが、私のこれまでであり、現在です。」

この瞬間、ブロンドの女性は「まあ。」と言って驚きの表情をみせ、その後、また目をなくして微笑んだ。

その瞬間、パソコンのスピーカーから「もうよいぞ。」と若い男性の声が聞こえる。程なくして、空間の後ろに停まっていたらしい車から、先ほどの声の主らしい男性が現れた。

縒れた黒いスーツに身を纏って、革靴でぬかるんだ土の上を、ぬちゃぬちゃと音を立てながら私の目の前まで歩いてくる。何か大きな封筒らしきものを脇に抱えて拍手をしている。それは、何かに関する合格の書類なのかもしれないと、やや期待をした。私はその封筒を渡され、開けて中身を見た。

すると、そこには一枚の額縁に入った不合格通知があった。私は動揺を隠せず、その男の目を見つめた。「もう少し中身を見てくれ。」とその男は言う。

封筒の中身の残りは、直に入ったたくさんの手紙だった。内容は、これまで不合格だった人間が、その男に対して弱音と、怒りと、今後の展望などについて書いたものであった。そしてこの男が熱心に、一つ一つの手紙に対して、「君はよく頑張った」「自分を否定することではない」「君ならもっとできる」などの言葉を綴って返信していたものが一緒に入っていた。

「これはどういう意味ですか?」と訊くと、「君は不合格だ。しかし、落胆することはない。」と返される。私は咄嗟に出血の痕がある左手首を見せて、「これのせいですか?」と訊いた。彼は頷いた。

私は焦っていた。このような書類を家に持って帰れば、母に、合格したのではないかと誤解されてしまうと考えたからだ。

「これは受け取ることができません。」とその男に突き返すと、「大事にとっておいてほしいんだ。」と言われ、途方に暮れる。何だか頭が沸騰しそうで、首に虫が這っているようで、その表面を掻きむしりたくなる。

私は封筒を置いて逃げることにした。確か向こうに大きい通りがあったはずで、今思い出したけれど、その通りを左の方向に曲がって進めば私の家に着くはずなんだ。

ヒールの靴がめちゃくちゃに壊れてしまってもよい、ストッキングが血まみれになってもよい、スカートが翻ってみっともなくてもよい、とにかく私は走らなきゃいけない。

不条理の砂利道を、時々バランスを崩して転びそうになりながら、足の裏でその道を舗装するように、力一杯に踏みしめて走った。

そして、大通りに出た。もう車は走っていなかった。これ以上追ってくることはないだろうと思い、既に店主は寝ているであろう床屋のシャッターの前に、膝を抱えて座り込んだ。疲れ果てて、呼吸のたびに冷たい空気が肺に入ってくることだけが幸せだった。

少し汗がひいた頃、大通りの左側から街宣車がやってくるのが見えた。何かをマイクで喋っている。徐々に声が聞こえてくると、「先程面接を受けたものに捧ぐ!」と言っているのがわかる。私はまた逃げなければならないと感じたけれど、既にほとんど目の前に街宣車が来ている。不審者に連れ去られそうになった時にするのと同様に、私は、ちょうど目の前を過ぎるのを待って、街宣車と反対方向、家のある方向へ走った。

途中に大きな橋がかかっていた。下には川が流れている。ここで死ぬことができる、と思い、夢中になって柵を登った。反対側に降りて川を見ると、ヘドロだらけで、一本の割り箸が絡まっている。しかし、自分が思っていたよりも橋の高さがなく、これでは死ぬことができないということを悟る。
これではいけないと思い、もう一度橋の上に戻り、もう一本先にあるはずの橋へ向かう。すると街宣車が戻っており、「死ぬな!」と私に叫ぶ。私は、「私が死んでも死ななくても関係ない人間が喋るな!」と叫び返す。「僕は君に死んでほしくないんだ。」と彼は言う。私は「じゃあどうして落としたの!」と言って、そのまま、倒れて意識がなくなってしまった。

白い朝がきて、向こうの山で何かを焼いている香りがする。私は倒れたままだった。結局誰も、助ける意思はなかったようだった。

体の至る所にできた傷は、朝日によって露呈されて初めて痛む。

この痛みと、汚れたジャケットを抱いて、私はまた歩き始めた。

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