記憶障害(未完)

8月16日、斜陽が照らす人の肌はもれなくクリスマスのターキーみたいに照ってぬめぬめしている。駅の線路に向かって開放された駐車場の境界ブロックに、女は自分の衣服が汚れることなどお構いなしに座り、脚を道路側に伸ばし、煙草の煙を吐き出した。赤色のサンダルを履いた自分の脚を無作為に左右に動かして、その中のホクロや痣を退屈げに見つめている。女の白い花柄のワンピースだけが、その光景でただ一つ異常だった。

その日女は、一人で暮らすにはあまりに大きな2階建ての家、1階のリビングにある青い革でできたソファで目を覚まし、台所に向かった。ダイニングスペースには4人掛けのテーブル、その上に一つの林檎とブラックニッカの2.7Lボトル、保温用のポットが並んでいる。女は既にその機能が途絶えたポットからただの水を出し、マグカップで一口飲んだ。

台所、まな板を置くスペースには完成されたサラダがある。冷蔵庫にはバターとジャム、牛乳とトマトが入っている。女は首を傾げた。

家のインターホンが鳴る。女は冷蔵庫の扉を閉め、リビングの、曇りガラスが濃い茶色の格子に囲まれた弱い扉を開けて玄関に向かい、靴も履かず、肌着のまま玄関の扉を開けた。

それとほぼ同時に男が流れ込んでくる。

大丈夫か!何があったんだ!

女の肩を掴んで言う。女はキョトンとしている。

何も覚えていないのか?

女は頷く。

昨晩俺にLINEしただろ。
男はポケットからスマートフォンを出し、画面をしばらくいじって女に見せた。
その画面には、このようなことが書いてあった。

ーひどい状態です。生き死にはもうどうでもよいのです。私はただこの苦痛から逃れたいと思います。ー

女は笑った。

何これ。

いや何これって自分で送ったんだろ。

あ…

時間が止まって空間が歪むような感覚が女を襲う。確かにその送信元は自分であった。無色透明だった脳髄に数多の可視光が風のように吹いて刺さってくる。

あ…私は…昨日、どうしていたのか…しら。
反射的に左手が頭を掻きむしる。

作曲者不明の幻想曲1番第3楽章をBGMにガラス玉が知らぬ人の目から出てきて地面に落ちて割れる映像の中、多すぎる言葉が頭を流れていく。
いつもそうだ。私はどこかおかしい。おかしいことを自覚させられる瞬間がある。誰の悪意とも関係なしに。気触れ爛れた皮膚。制裁。余計な朝。木目調の断食。貴婦人パトロンドメイン腑。一刀両断寂れた決意集合です金槌で割るエビ。

勢いよく息を吸う。それまで息を止めていたことに気が付かなかった。
女は朝目覚めた青色のソファに座っていた。男がそこまで運んだらしい。

俺のことは分かるよね?

この男は多分M。女は頷いた。

8月16日、駅に降り立つ。暗がりにあるバスターミナルを超えた先は大通りで、社会人の名を冠する有象無象が押し込められている高層ビルによって空が見えなかった。それらの間には、青色と白色のストライプ模様のサンシェードをもったパン屋、和製英語であふれるモダンな花屋、テラス席のあるフレンチレストランなどがその街の鮮度を表すかのように佇んでいる。

女は無機質で白い日傘を差してその大通りの、駅から見て左側を歩いている。
見える景色はいつものとおり。いつだって同じようにこの街は存在している。

横には先生がいる。もうすぐ右手には二車線を渡す歩道橋。その階段に右足をのせようとした瞬間、先生が女の左腕の手首を掴んで後ろに引っ張った。

女は体重の均衡を崩して後ろに倒れる。それを先生は抱きかかえた。
女は先生の顔を見ている。真顔で。

先生は、こっちからいこうよ。と歩道橋の下を指さした。

先生はちょっとおかしい。歩道橋があるのは、歩道橋がないと横断できないような道だからでしょう。

しかし先生が指さした先は、歩道橋の陰になっていて、夏の真っ白な日照りと対象的に一切の光を吸収せず、その闇が反対側の歩道まで一つの道筋を作っているように見えた。

私も渡れる気がします。と女は言った。
先生は女の右肩に自分の右腕を回し、支えるようにして、その、実際に存在しているんだかしていないんだかわからない道を歩き始めた。

ブレーキ音、クラクション、怒号、叫び声、すべてが聞こえているようで聞こえていない。一枚ガラスを隔てて二人の外に反響させているようである。中央分離帯に咲いている花はその陰に呑まれてむしろ生き生きとしている。悲しみや恐怖や苦痛のない闇。

歩道橋の陰から出ると外は夜、19時47分になっていた。目の前にある標識式の時計の針が確かにそれを指していた。

その横には立派な国際ホテルが建っていた。
先生はそのまま女をホテルの中に誘い込む。
女は拒絶するでもなく、賛同するわけでもない。ただ真顔。
だから先生と女は、ホテルの中に入った。

先生は、中華料理を食べましょう。と言った。

ホテルの中には高級そうな中華料理屋が一階にあった。一階のラウンジ、様々な旅行客が行き交うその場所が、ごま油を纏った豚肉の、消えない香りでベタついている。
私たちはガラス張りでラウンジがよく見える席出窓のようなカウンター席に案内された。眺めはよくない。どうしてそんな作りになっているのかしら。

豪華客船のコーヒーが入っているような銀のポットから紹興酒がグラスに注がれ、私たちはそれを飲んだ。
白い、この中華料理屋は。これほど真っ白なことがあろうか。神聖に守られたモンマルトルのように、彫刻然としている。奥で同じものを飲んでいる年配の男性がこちらを見ているように思える。

そのあと、私は家に帰ったらしい。しかしその間の記憶がない。たった一つ頭に残っているのは最後に見たおじさんの目。それ以降のことは知らない。

8月17日、Mは午後に仕事があるためにどこかに行ってしまった。
私は街に出る。先生がいる。先生と歩く。先生は、私が昨日見ていた大通りから外れた、繁華街に私を連れていく。夏の陽はまだ落ちることなく、むしろ永遠にそこに存在するかのように私たちの肌を焼く。

人間が知能を得たことは、自然の摂理に我々が絶対に抗えないことを端的に示している。本当に抗えるのだとしたら、こんなものは捨ててしまえるでしょう。

カラオケ屋、ゲームセンター、ラブホテル、遊技屋、キャバクラが並ぶ。ひっきりなしに光って、廃れて、窮屈そうにしている看板は汚れていく。

それでも代謝を続ける街の、目的は人間にはもはやわからない。

先生はどこへも私を連れて行かなかった。
熱を放出しない私の体は体温を上げたままだった。

私はいつからいつまで記憶を失くしているの?

(未完,2024年5月12日)







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