むらさき

紫色のチューリップなんて存在していただろうか。
身に覚えがあったかなかったか、定かでないことばかりが起こる。
自分はしばらくキッチンの隅に忘れられていた砂糖と同じで、一匙掬おうにも頑なに動かず、いかにも不変のような顔をしておきながら、一度水に入れば自分と水の境界を簡単に失っていく。世界は私の頭を、皮膚を、細胞を流れていくが、私は不良品の濾過紙だから、一緒に溶けてしまうというわけね。普通の人はね、好きなことを自分の中に留めて、嫌なことを世界に捨てていくのよ。

閑話休題、例え私が紫色のチューリップを見たことがあったとしても、街の花壇に植えられている花が全て紫色のチューリップだったことはない。こいつらは、さあ私は異端ですがね、ここにいれば仲間がいますからね、という調子で、春の生暖かい、田舎の風に吹かれている。どこからか電車の通る音がするから、そちらを振り返ってみると、二つの土手に挟まれて流れている川の上に赤い陸橋があって、電車は私がまだ知り得ない町から、同じく知り得ない街へ、軍隊のラッパのような音をたてながら、それが正しいと誰もが信じている様子で、進んでいった。全方位が山に囲まれるこの場所で、その電車だけが唯一、他の世界が存在することを証明していた。

花壇の淵を、そこから落ちたら死ぬかの如く歩いてみると、大きな道路を挟んだ向こう側に、突然海の気配がした。もう一度足元を覗くと、紫色のチューリップは全て枯れてしまっていた。しかし、色を失くしてもなお、それは紫色のチューリップであった。

大きな道路に出てみると、海の手前に、薄い桃色が剥げて更に薄くなった建物が見える。建物の上部は幼稚園生が見ている雲のような素直な曲線を描いて、真ん中だけが少し高い三つの半円を空に突き出していた。道路を渡ってもっと近づいてみると、生ぬるく湿度の高い風が私の体に巻きついた。建物だと思ったものは壁であった。そして背面を海に向けて、座面をこちらに向けた座椅子のような形をしている。座面も同じ、禿げた桃色である。三つの半円部分にはそれぞれ一つずつ六角形のボルトのような穴が空いていて、そこから、海とは別の、人工的な水が流れている。匂いを嗅いでない、味も確かめたわけでもないが、直感的に海と隔絶された液体だと思わせる異常性を秘めていた。それは座椅子の、真ん中が窪んだ座面部分に溜まっていっている。

向こう側からきた無邪気な女学生たちがローファーと少し濁った白地の靴下を脱いで、紺色の薄い制服のスカートを少しめくって、脚全体を露出させる。そして水が溜まっている部分を囲っている淵に腰かける。
私は首に汗をかいている。胸元を伝っていく汗が、彼女たちを止めようとするが体が硬直して動かない。いつの間にか、桃色の壁の向こう側から、黒や紺のスーツを身に纏った数人の男たちが出てきた。その間から、車椅子に乗った男の老人がその妻らしき女性に支えられながら出てきて女学生たちを見ている。2人とも喪服を着ている。
女学生たちはお互いの顔を見たり、きゃあっと叫んだりしながら、怖いもの触れる時の恐怖を隠し、面白がっているふりをしている。そのうち1人がついに溜まっているその液体に足先を突っ込む。すると喘息患者の呼吸のようなざらざらした雑音を出した瞬間に気絶した。周りの女学生は慌てる様子がない。私はついに走ってその場に向かった。何かしなくてはいけないという焦燥感に掻き立てられた。女学生は驚いた顔で私を見ている。私はなぜか真っ白なシルクのネグリジェで淵に立っている。1人の女学生が生きていたの?と私に言う。私は、そんなことはどうでもいいことなの、と答える。
気絶した女学生の脚は全体が黄色と青と、それが混ざって黒っぽい紫の痣に、点描のように侵食され始めていた。

私はその女学生の手をとって両手で包む。すると後ろ側からスーツの男たちが女学生たちを淵に立たせて並ばせて、お前も立て、と私にいった。
私は、自分の腕にも痣ができはじめているのを見ながら、同じように淵に立った。

視界が濁って眩暈がする。男は、ヨガの講師のように、「はい、目を閉じて息を吸って~」と指示する。私たちは指示に従った。その瞬間肋骨に強烈な痛みを覚え、気が付くと液体の中に落ちていた。水面から、男が、倒れていた女学生も足で蹴ってこちらに落としたのが透けて見える。

私は、嫌だ、と思った。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いやめてやめてやめてうるさいうるさいうるさい頭が混濁するのもう嫌なの本当に最悪なの自分のことがわからなくなる誰のこともわからなくなる本当に守りたいものが守れなかった私の業は人間である限り免れ得なかったでしょう。

水の中なのに意識がやたらとはっきりしている。他の全ての女学生の手を一つ一つ握った。私の口からは血が吹き出して水中を汚していく。変な快楽に溺れたような感覚になる。私はおかしくて笑った。そうしたら他の女学生も笑った。みんな紫色の痣だらけの顔で。

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