海抜マイナス50メートル

宿、小さな宿。雪山の上に立っている。近くには巨大な温泉施設があり、巨大な湯気が立ち上っては空と同化して消えていく。雪の中、人々は冷え切って固まった細胞を溶かし、元あった形を取り戻すために、その温泉施設へ向かっていきます。都心から離れ、いかなる喧騒をも感じさせないとある県の中でもさらに山奥にあるその日帰り温泉施設は、雪の中に混然と佇まい、田舎たる田舎の、観光客も足を向けることに逡巡するような村はずれにあって、現地の後継のない旅館経営者や一度も山を越えてこの土地を出ることがなかった高齢者が足繁く通う。

それらはただ他の娯楽を知らないというわけではない。彼らはひたすらに、生きていた。遠くの山の雷鳴を聞く時は外に干している洗濯物を取り込み、突然のスコールをドライブ中の車窓いっぱいにうけ、昼間でありながら不気味な夜の遺物を混入させた道、その向こうに天国のような日差しを見つける。そしてその光が自分を照らすときを待つ。迎えにいくことはない。ひたすらに待つ。自分が探し出した山道は宝島。植えられた知識と本を持ってその道を行けば、艶めくきのこや山菜の群れ、食糧となるものと毒となるものを見分け、前者を集め、(うち)に戻っていく。

2011年、前年には、交通系ICカードなるものが全国的に提携をして使用できるようになった、最新の利便性に人々が順応していくこの時代に、この村にはそれを使用するための電車も通っていない。しかしながら同年起こった大災害により社会は停滞し、この土地の人々の生活は、それでも至って変わらないという点で異端であった。

宿は避難民を受け入れた。国は大災害によって住む場所がなくなった47万人もの避難所を模索し、特に、大災害に付随して爆発した原子力発電所によって少なくとも30年は家に戻れなくなった人々については、支援金、補助金によって、元々寂れながらも懇々と湧き出る活力のあるこの土地の宿に受け入れを要請した。

私は露天風呂の淵に立っている。夜、雑多に施行された風情のある露天風呂の下は崖、いつくかの宿の明かりが灯されているのが異様なまでに遠くに見える。雪山の夜、体についた水滴が、今にも凍りそうになっているが私の体は凍えていない。頭上には観光客用のロープウェイ、1991年の過度な資産の高騰期に作られてところどころが錆びて赤くなっている。

凍りかかった水滴を落とし、宿の浴衣を着て上に厚手の黒いコートを羽織った。裸足のままで、ロープウェイの始点である展望台へ向かう。暗がりの展望台には誰もいない。チケットを販売しているはずのカウンターもシャッターが閉まり、埃がついている。さっき私が見た稼働している個体はなんだったのだろう。今は動いていない一台に足を踏み入れると勢いよく稼働し始めた。ドアが閉まり、大きく揺れを伴いながら外へ出ていく。

ロープウェイは雪山と雪山を繋いでいた。しかし今私が向かっている雪山は、光ひとつなく、ただ月の明かりで見える範囲では切り立った白と青の頂上が神聖な空気の中に浮いている。

時間を旅するようだった。敷かれた平坦なレールの下、見える景色が変わらないまま、着実に終着点へと向かう。どうにも変えがたいサイコロの目。未来から見れば全てがレールの上で起きたことに気が付く。

半分程度進んだ頃、ガコンッと大きな音をたてた。いきなりスピードが上がっていく。おかしい。偶発的に私がこれまで遭遇したあらゆる災害が、その感覚だけを私の体に宿していく。手が震え、心拍数が上がる。これから対峙する何かに向けて私は備えている。ロープウェイの速度は上がる。故障しているのだろうか。ジェット機のような轟音を立てて時速100㎞で下っていく。というか、もう終着地点であるはずの雪山が見えない。私はどこに向かうのだろうか。息を止める。意識を失う。

気がつけば水の上、雲に覆われた太陽が自我を失って生ぬるい温度をもたらしていた。私は下着姿のまま、川を泳いでいる。川は茶色く濁っていて、水底は知れず足を持て余す。晴れた日の濁流。何人かの遭難者が一緒にいる。

「透明な水が欲しければ!」

どこかから声が聞こえる。私は汚水に顔をつけたりつけなかったりしながらその声の源泉を辿る。

「その丸太に乗りなさい。そして」

右の頭上を見上げると、頭から血を流したスーツ姿の男が一人、左足を不自由そうにしながらなんとか立っている。

「濁流の中にある、蓋を見つけなさい。」

聞こえる。その指示は聞こえるが、周囲の遭難者は混乱している。

「お前は何者なんだ、早く俺たちを元の場所に返せ!」

「蓋を見つけないと、死に晒すことになるぞ」

私は周囲の人を見渡す。見覚えのある顔。だけど覚えていない顔。

私はこの汚水に浸っているとなんらかの感染症にかかるような恐怖に怯えている。

私はこの汚水に自分が汚されていくのに耐えられなくなる。そして、皮膚から浸透していくこの水はなぜか私の体液と似た香りがする。

ふざけるな。こんな理不尽な目に遭って、ようやく自分を汚しているのが自分だったことに気がつくなんて。自分の選択が間違っていたことをこんな大袈裟に証明するなんて。体液に私の涙が混じる。息が吸えない。このまま溺れて死んでしまいたい。このまま溺れて自分の中に入り込んで自分を殺してやる。

すると濁流に大きな波が起こる。一人の男、もう名前も覚えていない男が、蓋を見つけてこじ開けた。濁流は蓋の方向に流れていき、私も押し出されそうになる。

しかし私の腹に、何かが引っかかって、流れていけない。

私の体は水底から紐で括られていた。みんなと一緒に流れたいのに、流れることができない。

どくどくと流れていく水の中、徐々に水底に足がついていく。その寸前、いきなり何かで脚の皮膚がざっくりと切られ、出血するのがわかる。地に足をつけると、角張った石ころや砂、何かの破片のガラスが一度に足の裏に刺さり激しく痛んだ。避けようにも足場が見当たらない。抜くこともできず、抜かないことも苦しいこの状態で、私を助ける者は誰もいない。誰も見ていない。このまま倒れて私の全身に破片が刺されば、私は死ぬことができるだろうか。

私は待ってみることにした。今この苦痛に耐え続けることが、私の未来に何をもたらすのか全く想像がつかない。周囲を見渡す。この川はとても低い場所にあるようだ。さっき私たちに向けて大声で叫んだあの男は、陸地から私たちを見下ろしていた。海より低いかもしれない。

意識が朦朧としている。空を見るといつの間にか晴天、川縁から滲み出る水が光を反射してキラキラと光っている。どこかから人の声が聞こえるが私には大声を上げる気力が残っていない。声を上げたところで、危険を顧みず私を助けようとする人はいるだろうか。私と同じ窮地に立とうとする人がいるだろうか。

蓋ってなんですか。丸太に乗ったら見つけられないのではないですか。

「ネズミと害虫をセメントで流して固めて安全な清潔な道路を作れ」

また男の声が聞こえる。

「ここからは何も見えないです。みなさんが何をしているのか私にはわかりません。」

本当に何も見えないのか、と男の声が返ってきた。何も見えないです。何も見えないです。本当に何も見えないのか問え、自分自身に問え。嫌ですここにある全てが私には明瞭に見えてしまっています。だけれど何も見えないのです。何も見えないのです。

私は倒れ込んだ。倒れ込んだら死ぬことがわかっていた。もうこの苦痛から一刻も早く逃れたいと思っていた。

その瞬間、何かが見えた。私の目の前は暗闇になったがしかし、ぼんやりと輪郭を持たない黄色の光が見えた。それも束の間、落ちる、私の背中が悲鳴をあげて傷だらけになるのがわかる。眠る、さすれば私は安寧の桃源郷。

私の左手が何者かの手によって包まれている。その時点での私には視力があった。倒れたまま左側を振り向くと、一人の老婆がいる。白髪混じりの長い黒髪を下ろして後ろに流して、紫色のチェック柄のワンピースをきている。手の温度が私に伝わるが私の体は冷え切っているようで全く暖まらない。しかし、私は泣いた。

この川縁の崖を、登ろうとしなかったの?と老婆は私に訊く。痛くて、声が出せなくて、誰もいなかった。と私は応える。老婆は決して這い上がろうとしてはいけないのよ、この低い場所から。と言う。この場所が好きだと開き直ることも、嫌いになることもできない。と私はつぶやく。

それはそうねえ。ここはあなたの生まれた場所だもの。



心臓を突く音がする。怖い、目覚めたくない。もう一度ドクンという音が私の全身に響く。

ああ、血の匂いがする。私は生きている。


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