目の前には隙間があった。私は建物の2階の高さにある、建物同士を繋ぐ長さ30メートルほどの橋の真ん中にいる。両端に設けられている柵は私の身長と同じくらいの高さがあって、いくつもの縦に長い立方体の鉄は決して誰をもそこから落とすことのないように厳重に保たれている。

 ただ、私の目の前には隙間がある。柵の中央部分が一部欠損して、細身の人間であればすり抜けられるようになっている。すり抜けたところで、それは橋の端の柵なのだから、落下して怪我をするなり、打ちどころが悪ければ死ぬなりするだろうと思うだろうが、今回に関しては違っている。私が今立っているこの橋と垂直に、地面と空の間に、一本の綱が通っている。そしてそれは、もう一つ向こう側の建物と連続しているように見える。その綱は、偶然にも綱渡りをするのに丁度いい高さにあって、その上には同じ方向に向かっている2本の縄、そしてさらにその上に橋と平行の棒がかかっている。

 私はどうしてもその綱を渡りたいという衝動を抑えられない。向こうにある建物に到着したいわけでもなく、落下したいわけでもない。もしそうした欲求があるのであれば、いくらでも別の方法で叶えることができる。一度建物内に戻れば、綱の向こう側の建物には安全な通路を介して進むことができるし、落下したいのであれば、特段この隙間を使わなくとも、2階のベランダから飛び降りればいい。しかし私は、この隙間をすり抜けたうえで、この綱を渡らなければならないという切迫した観念に襲われている。

 自分の身に降りかかる可能性のある痛みや苦しみに対する幾ばくかの恐怖と、その予感によってすでに波打つ心臓の音で脳髄が満たされると、18歳の私が、これまでには感じたことのないような不純かつ不埒な興奮が湧き上がってくる。私は上履きを履いたままの足を、その隙間に差し入れた。その瞬間、耳元で、電車が軋む時に発するような高い音が聞こえた。身動きがとれなくなった。鉄の柵を掴んだまま、その場に座り込む。高い音の正体は友人Sの声だった。すでに私の腕を掴んでいるSは、何をしてるの?と尋ねている。その目は、私を心配するものではなく、私のしようとしていることに対する単純かつ素朴な興味を表していた。

 その質問への回答をするまでにどの程度の時間を要したかわからない。ただ、通常私がSと会話するよりも、時間がかかっていたのだろう。目の間の友人は、首を傾げている。この時間は私が今起こっている状況を整理するためではなく、この友人に、私の中に巻き起こっていた不純な欲望の渦を悟られやしないかと案じたために要したものであった。私は自律神経を失調したように手のひらに汗をかきながら、ほら、ここに隙間があるでしょう?と言った。Sは「あれ、ほんとだ。」と言う。「でもおかしいわね、私、10分くらい前にもここを通ったのよ。でもその時は、こんなものなかったわ。ここまで大袈裟だったら誰でも気がつくはずだものね。」と続けた。私は黙って考えている。ものの10分で私を奥底から突き上げるような渇望と興奮の対象をここに作り上げた人間がいる。そんなことが可能であろうか。私か、あるいは友人が、時空間における何らかの錯覚に陥ってしまっているだけではないか。私は開口し、今、何日の何時何分なの?と聞こうとした。するとSはそれを遮り、「私、これ渡ってみたい!」と言った。

 私は自分の頬の表面に渡っている全ての血管が動きを止めたのを感じた。Sのそのセリフは、私に巻き付いていた汚い、下劣でぬめぬめした欲求のようなものを少しも感じさせない、純朴で美しい爽やかな好奇心に覆われていた。きっとSがこの綱を渡りたい理由は私のそれとは全く異なるに違いない。そう思って、どうして?と聞きかえした。

 Sは「だって楽しそうだし、この下の中庭、見た?」と言う。中庭。私はこの橋の下が中庭であることを忘れていた。建物の構造的に考えれば、容易に想定できているべきことであるにもかかわらず、意識の範囲外にそれはあった。

 つまり、私にとって、綱を渡っている最中に何かが起きて、落下するようなことがあったとしても、その場所がどんな場所であるかなどどうだってよかったのだ。薔薇の棘に覆われた茂みでも、シベリアの海でも、家畜の肥溜めでも関係なかったのだ。私はただこれを渡っていたい。その状態でありたい。

 中庭。そして私は橋の下を見下ろした。そこには、10年以上放置されたとみえる草木が充満し、まもなく春を迎えるこの不安定な気候の中にあって、耐え忍びながらあわよくば開花したいと、じっとその時を待っている沈丁花や木蓮や桜の木と、その間を埋める蔦が、きっと切らずには解くことができないくらいに絡まりあっていた。

 「サーカスの綱渡りってなかなかできないじゃない?それに、落ちたとしても、あの蔦や花が受け止めてくれるわ」と言って、Sは無邪気かつ無抵抗にその隙間から足先を出した。そして上部にかかっている棒を両手で掴み、一歩ずつ綱を踏みしめていった。私は圧倒された。雨乞いの儀式とも、飲料水のない乾いた茶色一色の地域で物資を運ぶ人間ともとれるポーズ、それが美しいということを私は初めて知ることになったからだ。この時間が、どうかできるだけ長く続いてほしいと思った。

 Sの足がちょうど綱の3分の2程度まで進んだ頃、突然上部の棒を支えていた2本の縄のうちの1本が、風によって大きく外側に靡いた。その瞬間、2本の縄の間隔が棒の長さを超えたことにより、棒は支えをなくし、空中に飛び出した。そして、Sは、綱の揺らぎを精一杯に抑えようと抵抗しながら、ひどく不恰好に地面に落ちた。

 私は呼吸ができなかった。Sが落ちた先は、Sが落ちるその瞬間に、うんざりするくらいに草木の香りがする楽園から、冷たいコンクリートのタイルに豹変したのだ。

 目の前には頭から血を流した少女がいる。コンクリートのタイル張りの中庭に倒れている。ここがどこなのかわからない。この少女がSなのか私なのかわからない。


 ただ、未だ妖艶に揺れ続ける上空の綱を、私は見つめている。

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