幻聴

 台所の水道から硬い質感の水が流れていて自分の手に触れている。母は隣にいて、何か料理を拵えようとしている。母が持っている薄茶色に穏やかな蔦模様が描かれた鍋は、5、6人前のそれが作れそうな大きさをしていて、すでにもやしや水菜が赤色の水の中に沈んでいる。豆腐がその周りに浮いている。母は硬い質感の水を鍋の中に流し込んだ。適量がわからず、鍋は溢れてしまって具材が排水溝に流れていきそうになるのを母は手で戻した。もう一度、水を流し込む。そしてこぼれ落ちそうになるのをまた手で戻す。何をしようとしているの?と聞くと、洗いたいだけだけど?と母は言った。絡まった野菜がもはや原型を止めず髪の毛のように絡まり合っていて、豆腐がぐちゃぐちゃになってまだらに落ちた皮膚のようである。私は背筋に感じる寒気と手の震えを抑えるのに必死になっている。

 シャワー浴びる?と言われた。お父さんがいる。お父さんは後ろから私の左肩に手を置いている。一瞬体が巨大な蛇に締め上げられるような感覚になって、振り返るとお父さんはもういなかった。台所の後ろにある風呂場からシャワーの音がして、洗面所に入ると、妹が使っているシャンプーの匂いがして少し安心する。洗面所の左横には巨大な棚があり、数回使われてもう使われなくなったこの世の全ての色を集めたようなシャンプーやボディーソープの銘柄が並んでいる。母の浪費癖が治っていない。

 もっといい場所があるよ。とまた父の声がする。振り返ると、本当に父がいた。私は頬の産毛が逆立つ感覚を覚えながら、どこにあるの?と訊く。階段の上にあるよ、連れて行こうか。と父は言った。

 ここは大きな家の一階で、2階に上がるのには螺旋階段を上がる必要がある。上がりきった部分は横に、木で細工された、仏閣の一部のように美しい欄干があるのみで、その欄干を越えれば一階部分に落ちるようになっている。欄干に挟まれた廊下は、橋のように不安定に、家の四隅にあたる部分にある各部屋を繋いでいる。その廊下をたどり、一番奥の部屋まで、父は私を連れてきた。

 ここだよ。と父は言う。この部屋?と私は尋ねる。違う、この廊下だ。と父は言う。この廊下。ここはこの家で唯一、欄干同士に挟まれた廊下である。一方は先ほどの階段方面の一階部分に落ちるもの、もう一方は、玄関の上の大きな窓に晒された、玄関先の一階部分に落ちるものであった。どこかで見たような気がする。拭えない既視感と戦いながら、部屋の入り口付近をみると、確かに、取って付けたようなシャワーがあった。足元にはバスマット、その奥に公営プールのような、水色と青色が交互に並んだタイル張りの、人間一人が立てるスペースがあって、その上に、西洋式の、不可動で大きなシャワーが付いている。

 ここでシャワーを浴びるの?と私は父に聞く。開放的でいいだろうと父は言う。でも、この目の前を人が通ったりはしないの?と私は再び尋ねる。父は黙った。大きな窓のガラスは、夏の午後6時の曖昧な日差しに照らされて、橙色と緑色と青色が混じった、できかけの痣のような色をしている。その外は、うまく見通せないし、本当は朝方かもしれないし、でも、確実に外にいる誰かが、私を見ているような感覚がする。父はもういなかった。シャワーを出すと、私が気づいていなかったような雑音も打ち消されて、というよりは、そういった雑音を巻き込んで自分のもの存在していくその音のあり様は、滝が神聖なものとして崇拝される所以を想起させた。

 当然だけれど、ここは板一枚の廊下だし、排水溝もないから両端から水が一階に落ちていく。私はそれをしばらく眺めている。玄関の白いタイルの上には、誰かが運んできた常緑樹のまだ鮮やかな葉や蔦の花が散らばっていて、それが私が起こした滝によって流されていく。

 それを合図に外からざわめく人の声がして、やっぱり人がいたんだと思う。逆に考えれば、外にいる人たちにとってはこれが、何かの合図だったのではないか。心臓の奥の方が、前世の記憶に引っ張られるような強い力で締め付けられる。

 私はここで衣服を脱ぎ、シャワーを浴びることが求められている。お父さん、戻ってきて、私をここから逃して、と願うが、父はもう戻らない。もし、私がそれをしなかったら何が起きるであろうか。そう考えた時、直感的に、一階でシャワーを浴びていた妹が同じ目に遭うかもしれないと思った。万が一そんなことがあったら私は絶対に赦さない。私は自分が負ってきたいかなる傷も、妹には負わせない。私は痛みに慣れている。私の傷は、妹を守るためについたものだ。

 私は両肩に太く黒いリボンのついた、白地にレースを重ねたワンピース型の服をきていた。そのリボンを解けば、限りなく裸体に近い状態になる。私はシャワーの音に集中した。人のざわめき、動揺、興奮、一切の雑音を包み殺してくれ。右側のリボンに手をかける。左足が何故か不規則な地団駄を踏む。母は何を洗っていたんだろうか。服の右側がするりと落ちてアンバランスになる。同じように左のリボンに手をかける。遠くから自分を自分が見ている。観衆の視線が大きな窓ガラスに張り付いて一つの大きな目になって私を見ている。お母さん、それは洗っても綺麗にならないよ。

 大きな目は瞬きをした。私は倒れそうになって欄干につかまる。そのまま右手を支えとしながら、下着のホックを外し、同じ色の下履きを足先に引っかけながら脱いだ。そして胸の前で手を強く組み、祈るような気持ちで冷たいタイルに足を入れた。出ているのは水だけれど生ぬるい感触がする。私の頭から、肩、乳房、腹、足の構造に合わせて、水がはじけて不規則に飛び散っていく。私は目を閉じている。

 唐突にぎゃーと叫ぶ声がする。母が狂った。私はここから動けない。母の声は、シャワーの音に混じらずに、私の脳髄、全身を満たしている体液を震わせて響く。私は反射的に蹲った。目を開けると玄関が赤色の液体で染まっている。さっきの鍋に入っていた液体か、それとも血であろうか。まだ叫ぶ声がする。建物が揺れて見える。守りたいものが守れない気がする。その声は、ここにいる母の声ではない。私の中の、母の声、幼少期に聞いた、母の声だ。私が止めなければいけないこの声は、心の中でやめてと叫んでも止まることがない。そして、窓ガラスはもうれっきとした紫色の痣になって、振動でひびが入っていた。

 ガタガタと震えながら私は、シャワーを止めた。そして、全身を濡らした裸で、みっともなく転びそうになりながら走って一階に降りた。母を探した。まだ声はやまない。どこから声が聞こえているのか、わからない。どうしてか重心がずれてちゃんと歩くことができない。這いつくばりながら台所の扉を開けると、赤色の水が溢れて波のように飛び出してきた。私はそれに押し返されながら少し飲んでしまった。薄くなった胃液のような味がして吐きそうになる。赤色の水は玄関まで押し出されて流れていく。その残骸として、途中まで飲んだ缶酎ハイとカップ焼きそば、ポテトチップスと割れた灰皿が床に転がっていた。

 しばらくして私の後ろの浴室から、シャワーを浴び終えた妹が出てきた。どうしたの?と驚いている。私こんなことになっているなんて知らなくて、呑気にシャワーを浴びていてごめんね。と妹は言った。妹はちゃんと母の声を打ち消すことができていた。私はそれだけで安心した。私は、お母さんに謝りに行かなきゃいけないから。後片付けもするから、普通に過ごしていてね。と妹に告げた。私はどんな醜い姿に映っていたかわからない。妹は、わかったと言って、2階の部屋に上がっていった。

 私は歩けるようになった。水浸しになった廊下を歩いていく。自分が泣いているようにも思えるし、笑っているような気もする。どれだけ彷徨い歩いたかわからないけれど、赤い水が流れた玄関の方に向かっていた。その死角に母は立っていた。

 私は、息を整えることに必死だった。だけど、必要なことはわかっていた。
ごめんなさい、もうしないから、許してください。と、母に懇願した。
母はにっこりと笑って、何も気にしてないけど?と言った。


私は後ろから父に抱きしめられている。自分がどんな表情をしているのかわからない。母はそれが見えているのか見えていないのか、同じ笑った顔をして固まっている。

いつの間にか、大きな窓は割れて、外が見えている。そこには、誰一人として存在していなかった。

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