防衛機制

木製の机や椅子が、元の姿を思い出すように自発的に汗をかき、その表面はじっとりと濡れている。高湿度の小さな島国にある唯一の小学校は、島中の子どもたちを集めて総数600人を保有していた。発展途上のこの国は、10年前に領海の水底で発見された大量のレアメタルによって突然の特需を迎え、移住者が増え、その移住者が子供を産み、高齢者が保有していた土地を大企業が高価格で買取り、国の政策が追いつかないまま土地が高層ビルに覆われ、治安は悪化し、原住民は職をなくし、女は繁華街で体を売るか、男はよくて低収入のドライバー職に就いて一生を往来に費やすことになった。人が知るか知らぬかの間で人が死んでいく。

この小学校の児童はもともと総数30名だった。押し寄せた移住者によって児童数が増えた学校ではもはや言語体系すら大きな変革を迎えようとしていた。手に追えない指導要領に教師は頭を悩ませ、いじめが多発し、怒りに燃えた親の矛先はいつも学校だった。教育基本法の改正はツッコミどころが多すぎてもはや全く新しい法令の制定である。その混沌の中、今日、晴れて入学する新しい児童102名のために大きな式典が開かれる。

雨は上がったが、未だに琴線に触れれば大雨となりそうな空気が皆の半袖の服を体に纏わり付かせた。上空の雲が流れていくのが早い。改装された巨大な体育館の中、一生懸命に着飾られた原住民の子どもは、移住民の親族の香水の匂いで鼻を折られて挫けそうになりながらも、その親の申し訳なさそうな顔に居た堪れず、精一杯の笑顔を作っている。

そっと紛れ込んだ。私は102名のうちの一人の少女の姉として。限りなく白色に近いピンクのワンピースにパールのネックレスをし、長い黒髪は湿気で柔らかさを帯びている。午前9時丁度、父兄が一通り席に座り終えると、勇ましく、且つ優美な音楽が流れ始める。ここはイギリスか?本来ここにあった音楽とは違う。本来ここにあったものは消えていない。誰かが息を潜めているような直感が私を襲う。

すると、後方の扉が大きな音を立てて開き、自分の感覚が遮られた。教師の先導のもとその半分以下の背丈の子どもたちが並んで入場してくる。それをみな拍手で迎えた。既知であり未知である、ワックスで照っている木製の床を、一歩ずつ踏んでいく児童は、その事の重大さなど全く理解していないだろうが、壮大な雰囲気にのまれて自分の境界が分からなくなっている。児童は流されるままに、一人ずつ用意されたパイプ椅子に座っていった。その中で、私の妹は埋もれることがなかった。102名の中でただ一人、真っ赤なワンピースに身を包み、黒い女児向けのパンプスを履いている。6歳に満たないその体は、幼少期を幼少期として過ごせなかった哀れみを周囲に振りまいているがその眼つきは鋭い。世界が知らないことで溢れているということを、それを知るのは恐ろしいことだということを彼女は既に知っていた。
私は体を売っていた。

開会式で述べられる校長先生の話は、原住民にも移住民にも最大限に気を使った温かく優しい言葉で構成されていた。しかしながら、それは常に虚ろであった。現状を埋められる言葉などはこの世には存在せず、常に自分と並走して飛行機が飛んでいくようだ。「・・・この校舎は5年前新規受け入れ児童の増加により改築された新しく清潔な校舎です。私はこの校舎で、どのような境遇の児童も、垣根なく仲間として、共に学習し、共に遊び、励ましあって学校生活を送ってくれることを願い、ご挨拶とさせていただきます。」

パアン!

墜落した。何かが崩落する予感が私を襲う。あまりに大きく鳴り響いた音に、児童や保護者は雑音を放出しながら周りを見回しているが、徐々に気が付く。音の先には、体育館の2階部分に、純白のワンピースを身にまとった長髪の男が、ライフル銃を上に掲げているのが見える。天井には穴が開き、細かな瓦礫や木屑が彼に降り注いでいる。女がキャーと叫ぶ。子どもたちは泣き始めている。彼はベルトに下げていたメガホンをとり、静粛にしてください。という。校長先生が使用していたマイクとハウリングを起こしてキーと張りつめた音が鳴っている。男は少しずつ移動をしながら、この体育館は包囲されている。身の安全を確保したければ、我々の指示に従って、外に出てください。と続けた。

すると、入場口から同じ純白のワンピースの人間が、無数に入ってくる。
後ろの席の保護者から、順に並ばせられて退場させられていく。私は手が震えている。恐怖からではない、興奮しているのだ。他の保護者同様、私も白いワンピース男に誘導される。ワンピース男は私に話しかけた。「この後船が来る。」私は黙っている。

一度外にでた。校庭を横目で見ると、まだ芝生の整備が整っていない湿った土の上に、晴れの日の服らが重ねられていた。保護者達は体育座りをして整列させられている。どういうこと?子どもたちは安全なんでしょうね!?とすごい剣幕で教師と対面している保護者は肩を銃弾でかすめられて崩れ落ちた。私は植木の後ろからそれを見ている。他の保護者は怯えて何もできない。徐々に児童も、荷物のように台車に乗せられて運ばれてきた。ぎゅうぎゅうに押し込まれながらでも私の妹はすぐ目についた。真っ赤なワンピース。

学校は校庭ごと封鎖されているが、生ぬるい潮風が学校を包み、空襲警報に似たサイレンの音が揺られている。頭を揺らしている。生命の危機に瀕したときの冷たい心臓を突き刺していく。

私は持っていたナイフで隣にいる男の首の動脈を切った。若い男の中で生きていた血が、透明な髄液と一緒に勢いよく飛び出して私の顔と体に飛び散る。男は慌てて、信じられないという目つきで私の両腕を押さえながら、何をする気だ?!と訊いた。私は黙っている。そして相手の力が尽きるのを待っている。

そのうちに校舎にいた全員が運ばれてきた。私のスマートフォンが鳴った。それは合図だった。目の前の男が果てると、私はそのままの姿で校庭を横切り、壇上に立った。

「私たちは皆さんの幸福を願っています。上滑りしない言葉であなたたちを幸福にします。差別、障害、大歓迎!貧困、病気、寄ってこい!腐敗もごみも一緒に飲み込むのです!飲み込む快楽にあなたたちを引きずり込みます。それって悪いことだと思いますか?さあ、今日からパーティーです!」

校庭中に埋め込まれたスピーカーから玉音放送が流れ、島中のホームレスが入ってくる。重なりあう足音がビートを刻む戦争の終わり。人間が持つ最大の不快な匂いをまき散らしながら、次に流れてくる締まったサウンドの、たまに拍子抜けする拍子の音楽に合わせて、各々踊る、踊り狂う。

多くの者は嘔吐き、我慢ならない様子で悶えている。ある者が、これが俺たちの音楽だ!と叫ぶと、一部の父兄は同情し、そうだ、そうだ!と興奮気味でジャケットを脱ぎ捨てる。移民の父親は、こんなことがあってたまるか、と鉄パイプを拾い、そこらじゅうの原住民とホームレスを殴りつける。ある母親は、頭に血がのぼっている父親の脚にすがって必死に止めている。「こんなことをしても意味がないってずっとわかっていたでしょう。どうして今更になってずっと耐えてきたことを、掘り返すような真似をするのよ。忘れて過ごせばよかったでしょう!ずっと、それでよかったでしょう!」
何人かの母親は子を抱いて、逃げまどい、長い長い正門までの距離を、走る。

私は壇上から降りて座り込み、さっき男を殺したナイフで、黒く細い髪をあごの下まで切った。そして、雑踏に紛れて赤いドレスの少女を見つけだし、走れる?と訊いた。少女は、虚ろな目をしたままで、どうしてこうなっちゃったの?と訊き返す。私は、今は答えられないけど、一緒に逃げて欲しいの。と言う。少女は、泣き出しそうなのをこらえているみたいだった。私は、耐え難いことを耐える経験をもうこの子にはして欲しくないと思った。こういう時に他の学童のように泣いて欲しかった。ごめんね。

私は少女の手を取った。幸い低い身長で、乱痴気騒ぎの合間を走り抜けていく。途中で腹の横を殴られながら、脹脛を切られながら、妹が傷つかないように慎重に走った。

校庭を抜けると走る女、子どもに紛れる。私たちはそれらと逆へ行く。
フェンスに作った穴から抜けて、小高い丘を登っていく。
途中で振り返ると、学校の先の海から大きな船がこちらへ向かっている。大きいどころではない。何千人と乗り込むことができそうな船が、大きな波に乗ってやってくる。決してスピードを落とす様子はなく、まっすぐ、進んでくる。

島のサイレンが鳴り響く。津波警報である。私はもう潮風の匂いも感じない。

私の心臓は高鳴っている。本当はしたくなかった、そしてしたくてたまらなかったすべての破壊のこの瞬間に、自分が嘔吐した日々を、それでも歩いた日々を重ねている。スマートフォンは鳴り続けている。私はそれを、地面にたたきつけて割って踏みつける。

海は、船をのせて街を飲み込んでいく。徐々に浸水していく街の道路を、溢れてたまらなくなった海水が建屋を破壊し川のように流れる。壊れたものが、もう二度とは戻らないことを悟って美しく散り、去っていく。それほどきれいなものを私は見たことがない。

私と少女は座り込んで手をつなぎ、それを眺めていた。少女は私を、一生許さないかもしれない。それでも今は、二人の心拍数が一致している。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?