蛇は餓死した

蛇は餓死した。緑色のタイルの上をうごめいていたそれは、私の体にまとわりついて血を吸った。吸うほどに、飢えて飢えて仕方がなかった。シャワー口から水がこぼれて滴っていたタイルの上を、元気いっぱいに這っていた小さな蛇が大蛇となって舌を出した時、とうに私の身長を越えて私と対峙した。そして、腹いっぱいに吸った血を深緑色のどろどろの体液にして風呂場を満たしていったとき、満足そうに餓死した。

それで、どうしたいの?とリカは聞いた。探し出して、復讐したい。とサエが応える。
分かるけど、その人が誰で、どこで働いている人間なのか、知らないんでしょ。とリカはいう。体に密着する感じの黒いTシャツに同じ色のジーパンを履いて、サエを見下ろすように立っている。

でも、そのくらい殺し屋なら、今ある条件から探し出してくれるでしょう。サエは白いワンピースを着て、床に体育座りをしている。脚が濡れて震えている。2018年8月5日、池袋北口にあるラブホテルの一室はカーテンの向こうが壁であるせいで暗く、鬱屈としているうえに、鏡台にしか灯りが付いていないせいで、より不気味である。

あの、すごい言いづらいんだけど、私これが初めての仕事なのね。とリカは返す。
サエはただ睨んでいる。最初に言ってなかったのが悪いんだけどさ、そこまで睨まないでよ。私だって受けたくて受けてるわけじゃないのよ。

ないの、研修とか。とサエは言う。OJTはある。3回、先輩と一緒に殺した。錦糸町の居酒屋経営者と、錦糸町のデリヘル利用者と錦糸町のホスト。サエはまた睨む。池袋とか渋谷とかも、経験してからの方がいいと思う。
まあ、そうだよね。

沈黙。

でもまあ、こうしてても仕方ないし、とりあえずあたってはみようとおもう。殺したい奴は名前出してバンドのヘルプ出てるんでしょ。ライブ会場聞く限り、私が好きなバンドとも共演してそうだし、何かモチベあがるし。あんたもそこでそうしてないで、とりあえず着替えたら?

顔が戻らないの、とサエは言う。何、どうしたの。とリカはぎょっとして訊きかえす。サエは立ち上がって、鏡台に向かう。血の付いた剃刀と、同じ血の付いたバスタオルと、リップクリームやアイシャドウのラメが散らばった洗面台に、一緒になっていた煙草に火をつける。
ここって禁煙じゃないの?スプリンクラーとかやめてよ?とリカは慌てる。多分、ボロいしちゃんと機能してなさそうだから、とサエが応える。そのまま、鏡にたばこの煙を吐いて出す。磨かれた鏡に煙がぶつかって同心円状に広がっていく。吐くたびにサエの顔が見えなくなっては、再び現れる。化粧を落としたサエの顔は、右と左で目の傾きが違っていた。そのせいで、ずっと見ているとどこを見ているのか分からなくなる。少し怖いとリカは思った。顔がさあ、戻らないんだよね。とサエが少し大きな声を出したから、余計にリツカは驚く。
そのままサエはオエっといって洗面器に嘔吐した。ちょっと、大丈夫?とリカは背中をさすってくれるが、サエは鳥肌がたって仕方がない。眩暈がして、座り込んだ。

排泄みたいな食事をして、食べるみたいに性欲を満たされ続けた。夏の太陽で真っ白に照らされ、輪郭がやけにはっきりしている都会のビル群の中で、ウエディングに向けた撮影をしている花嫁の笑顔の、その隣の建物で体を売る。

私の人生に晴れの日とか穢の日とか、あるのだろうか。こんなに天気がよくて、こんなにむなしく思うことがあるんだ、と18歳の私は初めて知った。それでも学費を手に入れて、人並みに勉強して、かろうじて入社した会社では、私が過ごしていた毎日の様な生活が、まるで存在しないみたいに人は話した。

それが何よりも悲しかった。誰にも肯定されず、どこにも居場所が存在しない過去の私は、社会にとっての汚れそのものだった。だれかがいたずらに描いて、芸術とも評価されず、見たらすぐ忘れてしまうような、印象に残らない、ただ景観を乱すだけの、壁の落書きである


やっぱりやめておく。とサエは言った。え?何を?とリカは返す。殺すの、やめたい。

いや、だってすぐそこにいるんだよ、私の射程範囲だし、ここならだれにも見つからずに撃てるし、今逃したらもう殺せないよ。

渋谷のビルとビルの間にある非常階段の踊り場でその人間は煙草を吸っていた。私たちは、その隣のビルの屋上からしゃがみこんでその人間を見ている。

私、本当にレイプされたのか分からない。私が悪かったのかもしれない。お酒を飲んで、微笑みすぎたかもしれない。上手く抵抗できていなかったかもしれない。私は皆みたいに、社会に適応できる人間じゃない。皆みたいに地に足ついて立って歩ける人間じゃない。

あんたのこと何も知らなくて悪いけどさ、痛かったんじゃないの?それで、息苦しくて喘いでるのを気持ちいいんだって誤解されて余計に相手が興奮するのが気持ち悪かったんじゃないの?それで天井見つめて、早く終われって願ったんじゃないの?私殺し屋だけどまだ初心者だから、血とかも若干びっくりしちゃうけど、最初に会ったホテルであった血の量、ゲッと思ってさ、あんた死のうとしてたでしょ。

サエは無言、地面を見ている。

地面が揺れてたらさあ、地に足ついて歩く方が非効率だわ。そうやって這って生きててほしいと思ったよ。私より何倍も弱そうだし、不器用だけど、私より頭よさそうだし、まあそれだから小言はうるさいけど、それがあんたのいいところなんじゃないの?

私はさあ、個人的にあいつは嫌いだから、それで、殺すから。

ちょっと!とサエが言うと同時にパアン!と音がしてその人間の頭が吹き飛んだ。


わ、私うまあ!はじめてなんだよ!一人で撃つの!
大喜びするリカを見て、サエはなんだかおもしろかった。自分の下ではじけた頭と血しぶきを見て、笑いをこらえられなかった。
あんたも倫理観ないねえ、殺し屋向いているよ。とリカは言った。
それで、2人は手で顔を隠して声をひそめながら、笑った。

ねえ、私も撃ってよ。私、こんなに幸せだったことない。この瞬間に、全部を終わらせたい。あなたの射撃だったら、きっと苦しまずに死ねるわ。お金は同じ口座から、引き落としていいから。

リカは逡巡する。私は、言われた通りにしなきゃいけないのね。自分の気持ちで相手を殺すとか、殺さないとか、決めちゃダメなの。それが私の仕事だから。さっきのも、本当はダメ。殺人になっちゃうから。-本当に、殺してほしいのね。

うん、とサエは言って、体で十字を作り、屋上の際に立つ。

リカは集中した。確実に殺せる場所を狙って目を見張る。少し手が震えそうなのを懸命に堪える。額から汗が流れて顎を滴っていく。それが地面に落ちる瞬間、引き金を引いた。

ハッと息をつく。呼吸が荒く心臓の音が早い。自分は自分の仕事を全うしただけ。自分は自分の仕事を全うしただけ。どうしてこの子が死ななきゃいけないんだろう。どうして死ななきゃいけないんだろう。誰かが幸せになったか。誰かが・・・・

ふらふらとサエの遺体に近づいた。赤く染まった白いワンピースはサエが好きそうな色をしている。その隣で、同じように横たわって、自分の鼓動だけを聴いていた。

蛇は餓死した。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?