啓蒙

湿り気のない、驚くほどに平凡な、誰でも率直に思い浮かべることができる夕方の景色が目の前に広がり、空気でさえも、前に同じものを吸ったことがあるような気がしている。

私は、土地開発で創出された、町の様相からは完全に浮いている近代的な建物の、2階ロビーにある赤色のソファの前にいた。ガラス張りのその建物からは小さな街と、それよりも小さな人々が夜に向けて動き始めているのが見える。
私の左手には踏切、その先に商店街があり、最果てには、その先の世界との区切りのような、大きな建物がある。その住宅棟には小さな人々が押し込められている。私の真正面には、病院がある。本来白色だった壁は長い間、数多の種類の雨に降られて完全にグレーになっている。同じ灰色の屋上には対照的に真っ白なシーツが15枚、物干し竿にかかっている。その横には、小型の換気扇がいくつも連なって生死の匂いを外に排出している。

地面に目を移すと、一人の男性がその病院から手続きを終えて出てくるところであった。その男性は40歳くらい、紺色の素地に緑色の蔦模様があしらわれたカーディガンを羽織って濃いほうじ茶色のズボンを履いている。
私はその人にここで偶然会って、話をしなければならない。

急足で後ろのエスカレーターを降りて、病院のエントランスに向かった。私が病院の目の前に来た時、その男性はまだそこにいて、処方箋をじっと見ていた。しかし私は、ここでなんと話しかけるべきか分からない。自分の記憶にない、今この瞬間まで一本の絹糸のつながりさえなかった男に、私はなんの用があったのか。否、赤色のソファからエスカレーターに向かっている時すら、分かっていなかったのかもしれない。記憶を喪失したのであろうか。もしくは元々そんな用などなかったのが、なんらかの脳の錯覚によって呼び起こされた衝動によってこんな行動を引き起こしているのであろうか。もし後者であったとしたら。
事実としてこの男性と面識も約束もないのであれば、私はただの変質者であり、統合失調症患者であり、むしろこの男性の後ろの病院に用があることになる。もしかするとそれが真実ではないか。私は本当はこの初老の男性と話さなければいけなかったのではなく、病院に行かなくてはいけなかったのではないか。ふくらはぎに変な汗をかいて息を吐けなくなる。細かいビートで小さく息を吸い続けている。

気がつくと、私はその男性に話しかけられていた。本当は私が気がつくよりだいぶ前から声をかけられていたようである。世界が残像のように動いて私の思考は余白をなくし、大きな耳鳴りでなんの音も聞こえない。その男性は、2本の線になった目で、眼鏡をとおして私をみている。「どうされましたか。」と聞こえた。私はその、カウンセラーのような目と、私に対する悪意も嫌悪感も牽制も感じさせない声の響きで、私は狂い始めた自分の世界を一気に吐き出し、前のめりになって口元をおさえながら咳き込んだ。すると、「大丈夫ですか。」と言ってその男性は私を支えた。それで、何故か、偶然にも、「ここで偶然会って、話をしなければならない」を達成してしまう。

「よかったら、この後、作品を展示しているので、そこに行きませんか。」とその男は言った。私はそれが、自分の衝動が掻き立てられた「用」だったように思えて仕方がない。

男は私を、病院の後ろにある、病院と同じ色をした建物にエスコートした。そして「ここは元々病院だったんですよ」と言う。私は「さっき見ていたのが病院ではないのですか。」と聞き返す。男は「あれはこの病院を新しくしたものです。」と応える。そんなはずはない。私が見たのは、雨や乾風や小火で色付けされた、多くの人の命を巧みに操り、天か地かに送り出してきた、歴史のある建物である。

今は機能していない自動ドアをあけると、カビや埃がどこかに点々と身を潜めているのを感じて不快感を覚える。暗がりに、点灯していない非常口のサインと、誰も迎え入れることのない受付が見える。男は受付の左横にある通路の、さらに左側の壁に開けられた階段を登る。

見たことのない階段であった。階段を上がるごとにその全容が明らかになってく。私たちが通ってきた受付であろう場所は、階段からしてみればただの踊り場に過ぎない。そこから四角形の螺旋状に階段が、地上にも地下にも伸びている。その吹き抜けを上から覗き込むと、本来この階段の踊り場ではないはずの場所に空間がある。そこに到達するにはどのような手順が必要なのか分からない。しばらく眺めていると、「興味があるのですか。」と男に言われる。私は「はい。知らないことにはなんでも興味が、溢れてしまいます。」と応える。「それならちょうどいいかも知れない。」と男は出会った時と全く同じ表情で笑っている。
階段を上りきった時にはここが何階にあたる場所なのか全く分からなくなっていた。ただ、「新しくできた病院」と並行方向に廊下が伸びていて、その廊下は今までの暗さが一網打尽に破れて虹彩が引きちぎられるほどに明るかった。「ちょうど西陽が当たる頃だね。」と男は言って、それから右側にある病室の、スライド式の扉を開けた。

弦を爪弾く音が聞こえる。しかしピチカートのような、本来の楽器に求められていない音ではなく、長い余韻を確かに持った、この音を生み出すために作られた楽器から出る音だった。初めにハープのような音がして、その後、電子音がその音と倍音以外の音も含めた、複雑で奇妙な余韻を残している。目を開けた。確かに窓から陽が差し込んでいる。その向こうには、さっき反対側から見ていた物干し竿とシーツを見下ろせる。ただ思ったよりも、そのシーツは汚れていた。
この部屋の中央部には、天井から床まで、いくつもの糸が垂直に降ろされ、ピンと張られている。音の生み出しているものの正体はこれであろうと推測した。部屋の周りには10人くらいが少しずつペアになったりそうじゃなかったりしながら体育座りをして何か、時を待っている。

男は、「待たせてしまいましたね、みなさん、きてくれてありがとう。」と言った。「今日は、新しい子を連れてきました。でも、いつも通り楽しんでくださいね。」と続ける。その後、その男は私に「ここでは、私のことを先生と呼んでね。」と言う。何が起こるのだろう。一見、よくあるインスタレーションのように見える。私はまだこの作品について、考えきれていない。すると、私と反対側にいる一人の男が、床に散らばっている、積み木を模した小さな木製の固形物を手に持って、舐め始める。その瞬間、体を震わせて、同時にさっきのよく分からない電子音が響く。すると「先生」は、「先週よりも良い響きがしていますね、厚みがあってステキな音です。さあ、皆さんも!」と言う。私は混乱する。この積み木を舐めると中央にある糸から音が響くようになっているらしい。ただその行為になんの意味があるのか全く分からない。あったとして、それが私に必要なことなのか分からない。また、なかったとして、私はこの行為を容認できるだろうか。

突然、「ふゆさん」と呼ばれた。私は血の気が引いて振り向く。「あささんの娘、ふゆさんでしょう。」先生は続けた。私は「人違いではありませんか。」と震える手を押さえながらを応える。「先生はあささんと恋仲だったんです。だから、ふゆさんのことも、たくさん知っているんですよ。」と先生は言う。また、微笑んだ顔で私を見ている。「私も、あささんがあんな風に亡くなるなんて思っていなかったんですよ。病棟から抜け出して、屋上から飛び降りてしまうなんて。」「私の母は死んでいません。」「亡くなったんですよ、まだ見えていないのかなあ、かわいそうに。」「私の母は、死んでいません。」「ほら、あそこのシーツを見て。」「嫌だ、私の母は死んでいません!」「シーツをみろ!!」先生は大きな声を出してその場の全員を驚かせた。少し狼狽えて、「気が動転しました。申し訳ありません。どうぞ続けてください。」はあ、はあ、と色んな人間の吐く息の音が聞こえる。それが電子音にリズムを刻んで音楽が動き始めている。私はもう一度シーツを見る。突然雲が空を覆い、風が強くなって、シーツはたなびいている。
ただ15枚のうちの1枚は、じっと静かに動かないまま、白濁の体液が時間をおいてやや黄色くなったような液体と、黒みを帯びた真っ赤な血がまだ、新しいようで、周りにそれらを撒き散らしていた。

「ふゆさん、やっと見えたんだね。よかった。安心しましたよ。」と先生は言う。私は頭に血液が集中して眉間に力が入り、涙が出そうになる。「みんなとおんなじことをやりませんか。」と先生は私に言った。「どうして?」と私は聞く。「あなたを楽にするためです。」と先生は言う。「どうして私を楽にしたいの?」と再び質問すると、「それが私にとって一番の幸せなのです。」私は黙った。黙って周りの人間を見ていた。各々恍惚か苦しみの表情を浮かべ、時に体を震わせながら、目を中央の糸に向けてその響きを確認している。私は今まで楽じゃなかったのだろうか。私はふゆなんだろうか。母は死んだのだろうか。痛みに耐えているうちに全てを忘れたのだろうか。先生は私をどうしたいのだろうか。先生は私をどうしたいのだろうか。

「質問をしてもよいですか?」と私は先生に訊いた。「なんでも答えてあげますよ。」と先生は言う。私は「あさを殺したのは先生?」と訊く。先生は少し黙って、「どうしてそんな発想になるのかなあ。」と言う。
その後、先生は私を四つん這いにして、積み木を一つ口の前に持ってきた。私は、抵抗できずに従った。「僕は君がすごくいい音を出せることを知っているんだよね。」目の前の積み木は、部屋の至る所の匂いを集めていた。一瞬吐きそうになる。先生は手を、私の腰に当てて押さえつけている。
私はもうここから逃げられないことを知って、その積み木に舌を当てた。埃っぽくて、変に甘くて、涎を出した。その瞬間、身体中が痙攣して頭がチカチカと音をたてて震える。私が出した音は、多くの波形が部屋の壁に何度も反響してしばらく余韻がひかない。ただその部屋にいる人々の体に快楽を与えたようだった。

私は気持ちが悪い。涙も涎も止めることができないまま震えている。「ほら、これが君の才能だよ。よい遺伝子を受け継いだんだね。君はこうして、たくさんの人を救うことができる。それって君の幸せでしょう?」と先生は言っている。

私は消えてしまいたいと思う。私はいなくなりたいと思う。自殺してしまいたいと思う。この先生の言っていることが、分かるようで分からない。私はその場で咳き込んで、喉に入った感じがした全ての埃を吐き出した。そして、走ってこの部屋の窓を開ける。すると、元々病院だった場所と今病院である場所の屋上に、必要ないはずなのに、鉄製の四角柱が通してあるから、私はその上を飛び跳ねながら渡ってシーツの屋上にきた。先生は怖くてその四角柱を渡れない。

私はあさのシーツを探して、物干し竿から引っ張って、コンクリート製の地面に伏せた。そして私の止まらない唾液と涙で目一杯に汚した。膝が擦れて、新しい血でシーツを汚している。

その後、私は衣服を全て脱ぎ捨てて、シーツで体を覆い、換気扇の上に乗って、血の匂いに包まれながら呼吸をした。

商店街の先、住宅棟の向こうには、知らない街と海が広がっている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?