夫婦で『現代語訳 般若心経』を読んでみた 読書会#1
夫婦そろって読書が好きなので、夫婦で読書会をすることにした。
ただ読書会をするのも楽しいはずだが、目的があった方が続くのではなかろうかと思い「教養を得る」ことを目的に設定した。
「教養」は何かで測れるものはないので、基準が難しいのが、ガイドブックとして選んだのが『ぼくらの頭脳の鍛え方』だ。
この本では400冊の教養書が紹介されており、読書会ではこの400冊の読破を目指すことにした。
読書会のやり方
まずはどちらかが1つのテーマを決めて、そのテーマに関連する本を『ぼくらの頭脳の鍛え方』の中から五冊を選びだし、読む順番まで決める。
毎週読書会を開き、読書会までに課題図書の半冊分を読んできて、ディスカッションするというものだ。
読書会2回(2週間)で1冊が読み終わるペースで進めるが、毎週の課題範囲の半冊は目安なので、読みきらなくても大丈夫だ。
なぜ『『現代語訳 般若心経』』を読むのか?
妻が選んだ最初のテーマは「宗教」で、最初の一冊である『現代語訳 般若心経』も妻が選んだ。
妻がこの本を選んだ理由は、親族の葬式でお坊さんが「般若心経」を唱えており、どういうものなのか興味を持ったからだ。
また、人の疲れや感情が自分の中に入りこんでしまうことをどうかしたいという切実な思いもあった。
ぼくがこの本を読む理由は、単純に般若心経がどういったものか知りたかったというもの。
人生においても般若心経との接点(親族の葬式で唱えられていたのかもしれないがおぼていない)がないが、お寺などの観光地ではよく般若心経の写経などが開かれており、どんなものなのだろうかとは疑問に思っていた。
一番面白かったところ
妻:意味づけをすることの無意味
興味深かったのが、全ての現象は「自性」がなく、「縁起」のなかに発生する流動的事態だということで、意味づけをすることは意味がないということだ。
本ではp153の箇所にあたる。
難しい言葉が続くが、「自性」とは「単独で自立した主体」のことで、「縁起」とは無限の関係性のなかの絶えざる変化という、実相のあり方のことだ。
※実相=生滅変化する仮のすがたの奥にある真実のすがた
どんなことが起き、どう感じ、どう思おうとも、それは固定的なものではなく、すぐに変化してしまうものなので、思い悩んでも仕方がないということだ。
ぼく:経験や認識は濁りとなる
自分の中に「識」という部分があり、「識」は知識や認識の総体のことを指す。
衝撃を受けたのは、その「識」はさまざまな経験や認識の「残り香」が集まるところなので、だんだんと濁っていくということだ。
経験は認識というのは、本来学べば学ぶほど良いと思ってきたが、逆に濁ってしまうという視点があることに驚いた。
ページでいうとp84の箇所だ。
トリビア
トリビアとしてためになったのは、心経は「しんきょう」ではなく「しんぎょう」と読むことで、この本を読むまで間違えて発音していた。
あと、「般若心経」と「般若のお面」とは全く関係ないことを知った。般若のお面は「女性の嫉妬の究極」を表したお面で、般若坊という人がつくっていたから「般若のお面」と呼ばれているそうだ。
感想
食卓に座って読書会を行ったのだが、すぐに眠たくなってしまった。
解決策として、次回からは、外で散歩しながら話しあうことにした。
あと二人の学び方に違いがあり、妻は話しながら理解を深めるタイプだが、僕は視覚的に学習するタイプだ。
なので、事前にぼくが視覚的な資料を用意して発表し、妻が話しながら理解を深めていくという流れにした。
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