見出し画像

理由はないのに

昔から理由を聞かれて困ることが多い、と思います。なんで学校に行かないの?なんで地元から離れた地方にいるの?なんで理系に進んだの?

すべてのことに理由があると考えるのが普通で、理由なんかない!と突っぱねたくなるわたしはおかしな人なんだろうかと思っていました。

人間はどこまでもわけが知りたい生き物で、ストーリー化して「わかる」状態にしたいのだそうです。

一番理由を聞かれて困る場面は、就職の面接のときです。なぜ弊社を受けたのですか?なぜこの職種を希望したのですか?志望動機というやつです。聞かれて困るのは、よく考えていない自分が悪いのですが、理由聞かれてもなあ…というのが正直なところです。まあ実際は無理やりにでももっともらしい理由を考えていくんですけどね。

面接官はその人がどういう人かをストーリー的に「わかり」たい、納得したいということでしょう。

本当に、わたしにはもう面接は無理です。わかりやすい動機があってこの仕事がしたいです、なんてそんな状況になったことがないです。考えてないだけでしょうか。仕事についてはまた別の機会に書きます。

おまじないをしたあとで、雨が降ったとき、
p:おまじないをした
q:雨が降った
とすると、pとqは前後関係でしかないのに、因果関係であると思ってしまうことがあります。pが原因でqが起こった、おまじないをしたから雨が降ったと解釈してしまうのです。これを前後即因果の誤謬といいます。

強い相関関係があればそれを因果関係と解釈してもいいかもしれませんが、ただの前後関係を因果関係と思ってしまうのは違うよな、と思います。でもそうしてしまいがち。

そしてわたしは、理由がないこともあるんじゃない?と思うんです。これは深く考えてないから理由がわからないのではなく、本当に理由がない、と思うのです。不確定性原理は観測する技術がないから不確定なのではなく、原理的に不確定であるというのと同じ雰囲気です。

科学は因果関係を説明するものだと思っていました。しかしよく考えると、運動方程式が成り立つことはわかっていても、なぜ重力があるのかはわかりません。キリスト教的に言うと、神が世界をそういうふうにつくったからとしか言えない、と聞いたことがあります(わたしの勉強不足でしょうか)。科学は因果を解明するものではなく、時間のずれを伴った対応関係を解明している(生物学者・池田清彦さん)のだそうです。

学校に行かなかった明確な理由はないし(行きたくなかったからだし)、地元を離れて地方で一人暮らしをしていた理由もはっきりとはありません。

無理に理由を探すのが苦しいとき、「理由は特にありません」と言ってもいいということを忘れないようにしたいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?