遺言と愁嘆場

 生命は基本いずれ死ぬ、なんてことは当然だが、そもそも我々はいつ死ぬかなんてわからない。1分後に死んでいるかもしれないし、10年後かもしれない。少なくとも僕は、「いつ終わるか分からない」という恐怖の中でただただ漠然と生きている。個人的な話になるが、私が死というものの呆気なさに気付いたのは、5歳だったか8歳だったか、道端を歩いている蟻の頭を千切った時だったと思う。それまで地面を歩きまわっていた蟻が、頭と身体に分かれた瞬間に、動きを止める。何度やっても結果は変わらなかったし、頭と身体を再度くっつけようとも息を吹き返すことはなかった。いま思えば残酷な話である。子供特有の命の軽視、と言ってしまえば若干仕方ないと思えてしまう人もいるかもしれないが、そんな言葉で片づけていいものではないと思った。当事者がそれを言うのはなんともおかしな話ではあるが、そうした命のもろさを知れた、というのは大きいと感じている。あの頃は罪悪感など一切感じなかったそんな行いも、いまは「なぜあのようなことを」という疑問と後悔に変わる。けど、もしかしたら、一般には「そんなもの」なのかもしれない。誰だって言わないだけで、隠しているだけで、誰だって「命の価値を知る軽視」はしているのかもしれない。それで命の価値を知るのも一つの正当な形なのかも、と考えたが、これは結局罪から逃れるための言い訳で、これが正しいなんてことは決してない。
たぶん、これは相当にひどい文になっていると思う。ただ、私が思ったことを一切添削せず書いた結果生まれたこれは、着飾った価値観よりも価値あるものだと感じる。脳内の整理は大事である。

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