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検察庁法改正案についての色んな意見を整理してみた|音喜多議員のブログが秀逸

検察庁法改正案で、世間が揺れていますね。

音喜多議員のブログが秀逸だったので、触発されて記事を書いてみました。

先日のパチンコ業界の三店方式に関する記事といい、異常なほどわかりやすいですね。内容についても、自分は納得感あります。いつ書く時間とってるんだろう…。


音喜多議員のブログ意見のすごいところ

音喜多議員のブログの刮目すべきところは、結論としては反対、ということを明示しつつも、
・制度設計としては実はあり得る
・立法過程(立法府での審議手続き)がきっちりしていれば、立法による追認というのも手続き的にはありだと思う。
という点をきちんと言っているところです。twitterなどで反対意見がバーッと流れているなか、非常に冷静な意見だと思います。なかなか出来ることではないです。

音喜多議員は、検察庁法改正案について、
・経緯論(黒川検事長の問題)
・手続き論(法案審議のプロセス)
・政策論(法案の内容)
の3つに分けて解説されており、これも非常にわかりやすいです。

本記事では、上記のうち、政策論(法案の内容論)の部分について、飛び交っている意見をグループ分けしてみたいと思います。


3説に分かれる

いろんな意見が飛び交っていますが、報道や情報発信メディアを見る限り、今回の検察庁法改正案の賛否に関しては、3説あるように思います。
(違うと感じられる方はすいません。具体的にはリンクの原典をあたってください)。

あと、定年延長と役職延長に分けて議論されてますが、後者の話としてです。

a説(否定説)

検察庁法改正案は、時の政府が検察に不正を追及させないよう人事介入するものである、として反対する説。

<堀田力氏>
信頼に傷、総長も黒川検事長も「辞職せよ」 堀田力さん:朝日新聞デジタル
検察幹部を政府の裁量で定年延長させる真の狙いは、与党の政治家の不正を追及させないため以外に考えられない。

<元検事総長ら検察OB>
【意見書全文】首相は「朕は国家」のルイ14世を彷彿:朝日新聞デジタル
今回の法改正は、検察の人事に政治権力が介入することを正当化し、政権の意に沿わない検察の動きを封じ込め、検察の力を殺(そ)ぐことを意図している。


b説(制度そのものはフラットとする説)

制度設計としてはどちらもありうるとしつつ、ただし、今の内閣が今回の案で改正することについては反対する説。

<音喜多駿氏>
「#検察庁法改正案に抗議します」何が最大の問題なのか?私の問題意識・ポイントはここだ
『本改正案の政策論点一つは、「内閣はどこまで検察の人事権に影響力を持つべきか」という点です。
政治家を追及できる唯一の機関である検察はその特殊な立ち位置から、一定の独立性が保たれるべきです。
一方、では民主主義国家において、選挙というプロセスを通じて選ばれた内閣以外に誰が(どこが)その人事権を振るうのか?
検察の独立性が高ければ高いで、また様々な不都合が生じてくることになります。「検察改革」を行うのには政治力が必要で、その政治力を担保するのは民主的なプロセスです。
これはバランスの問題であり、まさに正解のない政治的な問いと言えます。
結論から言うと、私は「民主的に選ばれた内閣が、人事権で検察に一定の影響力を発揮する」ことには肯定的です。』
『ところがここでも、私の心には「経緯論」と「手続き論」が立ちふさがります。
検察の人事に内閣が影響力を行使したり、定年延長をコントロールすることを容認するとしても、じゃあこんな杜撰な決め方をしてくる内閣にそれを任せたいかと言われると、その答えは「No」です。』


<亀井源太郎教授>
「検察庁法改正」の論じ方(亀井 源太郎) @gendai_biz
記事の3ページ目
『…もっとも、検察官の職務の独立性が重要であることと、検察官に対して政治がいっさい関与すべきでないということとはイコールではない。…』
『…また、現行の検察庁法も、検察官の人事に内閣や法務大臣が関与することを認めている。たとえば、検事総長、次長検事、検事長については、「その任免は、内閣が行い、天皇が、これを認証する」とされ(15条1項)、検事長、検事、副検事の職は、「法務大臣が、これを補する」とされているのである(16条1項)。…』
『…このため、「三権分立なんだから検察官の人事に内閣や法務大臣が口出しできるしくみは問題である」という単純な論法には賛成できない…』
『…大切なのは、検察官の職務の独立性を担保しつつ、検察官の職務執行につき内閣や法務大臣(ひいては国会、さらには国民)がその適切さをチェックできるしくみをバランスよく構築することであり、今般の「検察庁法改正」をめぐっても、念頭に置かれるべきは、このようなバランスである。…』


※亀井源太郎先生は、刑法・刑事訴訟法の教授です。ロースクール時代、法学教室に寄稿されていた刑訴の連載をよく読んでいましたね…(遠い目)。


c説(肯定説)
<ホリエモン氏>
検察庁法改正案に抗議しますとか言ってる奴ら全員見ろ
(Youtube10:20頃から)
『…オールマイティですよね、行政官である検察官が準司法的作用を担っていて、しかも立法まで促してしまうという、非常に強大な権限を持っている、この状態が民主主義によって担保されていないところが、僕は最大の検察の問題点だと思っています。』
『(法律的には検事総長は内閣が指名する等の仕組みになっているが)…事実上はこれまでの検察の人事というのは、検察官、検察のなかで決めていたんですね。で、検察のなかで、この人が次の検事総長にいいですよね、っていうのを、内閣がまあ、追認していたような状況だったんですけれども、今回の件で、多少は内閣が検察の人事に対してある程度発言力が出てくる、というのはこれ、別に悪いことでも何でもないわけですよ。』


報道や情報発信メディアを見る限り、どう見てもa説を目にすることが多いですが、私は、b説の理解が正しく、かつ冷静な意見だと思います。


検察の独立性が害される、ってどういう意味?

報道でa説が主張しているように、内閣が検察の人事に介入できるようになると、時の権力におもねて不正が追及できなくなってしまう、という意味で捉えても間違いではないです。

が、実は正確ではない(一面しか取り上げていない)と私としては思うので、この点を少し深堀りしたいと思います。音喜多議員のブログが秀逸と感じる点も、ここにあります。

考えてみれば当然なのですが、法案が提出されていることからもわかるように、今回の改正案は、憲法的には選択しうる(=少なくとも明確に違憲というわけではない)わけです。内閣法制局も通しているんだろうし。まあ、これまでに違憲判断が出た法律もそういうプロセスをたどっているわけなので、絶対ではないですが。
(なお、本記事は改正案の擁護記事ではありません)

ここからは私の説明になるのですが、なぜ選択の余地のある話なのか?というと、それは、「独立性の保障」が唯一絶対の正義というわけではなくて、「独立」は「独善」を生むリスクがあるからです。

言い換えると、実は、「独立性の保障」は、常に「独善化の防止」とのジレンマを抱えているのです。お勉強的にもちゃんと整理がされていて、座学としては、憲法における「司法の独善化防止」という論点の話になります。


司法権の独立性保障ってどんなものなのか?

独立性の保障というのは、司法権(裁判所&裁判官)については、憲法の明文レベルで仕組みが決まっています。

司法って、実は、民主的なコントロールから一番遠いところに置かれているのです。以下の図のとおりです。

メモ 2020-05-11 民主的コントロールの図

細かい話は省きますが、国民が国会議員を選んで、それが内閣のトップを選んで、それが最高裁のトップを選んで…、で、司法が国民から一番遠いところに置かれています。

これは、たまたまそうなっているのではなく、意図的にそうしているのです。この仕組みは憲法レベルで決まっているので、動かせません。

これは、司法判断に民主的コントロールを及ぼすのは良くない、という、歴史を踏まえた判断なのです。中世ヨーロッパの公開処刑みたいな裁判を思い浮かべると、イメージ的にわかりやすいかもしれません(イメージですよ)。ちょっと極論ですが、たとえば罰すべきかどうかを数の力(世論)で決めるような感じです。

そういう「世間からの圧力」とか「政権からの圧力」をなるだけ受けないように、司法権については、「独立性の保障」に最高レベルで重きを置いています。

そして、最終的に、最高裁裁判官に対する国民審査のときだけ(←衆院選挙のときにくっついてるやつですね)、国民が司法権に直接手を突っ込めるようにしているわけです。

じゃあ検察権の独立っていうのは?

で、検察権はどうかというと、検察権は「準司法的作用」を担っている、と言われ、司法権に準じた独立性が必要、と言われています。

「準司法的作用」というのは、行政権なんだけど、起訴権限を独占しており(起訴独占主義)、司法権に準じた作用を担っているという意味です。

ただし、司法権に準じた独立性が必要というのは、憲法の解釈上の話なので、検察権に対して具体的にどういった民主的コントロールを及ぼすべきなのかは、立法上、選択の余地があります。つまり、立法で動かせる余地はあるのです。

だから、いくつか意見が分かれていて、それぞれ一理あるのだと考えることができます。

例えば、ホリエモン氏(c説)は、検察の独善的な国策捜査で自分が逮捕されたと思っているので、そういうふうに思うのかもしれません。内閣が介入するのも、検察の独善化をある程度防止するのに一役買ってくれるでしょ、ということで。

それはそれで外れているわけでもなくて、村木事務次官のときの証拠偽造事件などもあるように、「独立」が「独善」につながる可能性というのは、一般的に否定できないわけです(例えば、精密司法の名のもとに、起訴すれば何としてでも有罪にしなければならないという独善)。つまり、内閣が「正しく」「良い方向に」一定程度手を入れてくれるならば、それはそれでよいのではないですか?と。

そういう選択も「実は制度選択としてはありうる(でも、今の内閣がしようとしていることはダメ)」ということを音喜多氏のブログはきちんと言っているのが、個人的には感動的だったわけです。


結び

音喜多議員のブログ記事、素晴らしいですね。腐れ野党(=批判さえすればいいと思っている人々)でない感じがいいです。

ちなみに、巷の人はあまりご存知ないかもしれませんが、亀井源太郎教授の記事もわかりやすく、説得力があるので是非見てみてほしいです。

昔、検察修習のときに、庁内の裁判員裁判シュミレーションで、「単に何でもかんでも被告人が悪いと言っていればいいと思ってたらだめだ、それ説得力あんのか。軽微な部分は軽微と言い、本件で真に危険なのはこれこれの部分なのです、と事案の核を点け。事案を正しく指摘しろ」と当時の検事正が言っていたのを思い出します。
そういうスタンスの意見は、なかなか言えることではないです。

音喜多氏の意見は、本来、制度的にはフラット(=どちらもあり得る)なんだけど、今の内閣がやろうとしていることは経緯や手続きからしてダメなので、結論としてはa説、というシブい論線。

私なりに言い換えると、検察権に何らかの民主的コントロールを及ぼそうとすること自体はあり得る選択だし、考えないといけないことなんだけど、いま及ぼそうとしている民主的コントロールは完全に恣意的な意図だからダメ、ということです。

結論一緒やったら、結局同じなんじゃないの?と感じられるかもしれませんが、b説がa説と違うのは、「本来、制度的にはフラット」という冷静な意見をきちんと持っているので、イデオロギックな感じがしないところです。

こういう議論のときって、とかくイデオロギックな人たちがa説(否定説)に集まりがちなので、個人的には好きでないのですが、音喜多議員のブログは「制度としては実はフラットなのだ」という点を冷静に指摘している点(そのうえで、結論としては今回の法案に反対、と妥当な着地をしている点)で、他とは一線を画しています。

というわけで、乗っかり気味ですが、私もb説です。


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