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養生訓 巻第三 飲食上 鳳凰堂流解釈⑰

食する時、五思あり。
一には、この食の来たるところを思いやるべし。

幼(いとけな)くしては父の養をうけ、亦た長じては君恩によれり。

これを思うて忘るるべからず。或いは君父ならずして、兄弟、親族、他人の養を受くる事あり。これ又その食の來る所を思いて、その恵み忘るるべからず。農工商の我が力にはむ者も、その國恩を思うべし。

二には、この食もと農夫キンおるして作り出せし苦味を思いやるべし。忘るべからず。自ら耕さず、安樂にて居ながら、その養を受く。その樂を楽しむべし。

三には、我才徳行義なく、君を助け、民を治むる功なくして、この美味の養を受くる事幸甚だし。

四には、世に我より貧しき人多し。糟糠の食にも飽く事なし。或いは飢えて死する者あり。我は嘉穀を飽くまで食らい、飢餓の憂いなし。これ大なる幸にあらずや。

五には、上古の時を思うべし。上古には五穀なくして、草木の實と根葉を食して飢を免れる。その後五穀できてもいまだ火食を知らず。釜甑なくして煮食せず。生にて噛み喰わば、味無く腸胃を損なうべし。

今白飯を柔らかに煮て、ほしいままに食し、又羹あり、(さい)ありて、朝夕食に飽けり。且つ酒醴ありて心を樂しましめ、氣血を助く。

されば朝夕食するごとこの五思の内、一二なりとも、代わる代わる思い巡らして忘るべからず。然らば日々に樂も亦たその中にあるべし。これ愚が臆説なり。妄りにここに記す。僧家には食時の五觀あり。これに同じからず。

鳳凰堂流意訳
飲食する時には、五思がある。

一、この食がどこから来たのか思いを馳せる。

幼い時は両親に養われ、また成長してからは所属している団体のお陰である。

この事を考え忘れないようにする。人によっては団体や父ではなく兄弟、親族、他人から養われている事がある。その場合も食が来たところの恵みを考えて忘れないようにする。

農工商のように自身の力で食べている人であれば、その国の恩恵を考える。

二、食は元来農家が作り出したもので、その苦労を考え、忘る れないようにする。自ら耕さず、安樂な場所に居ながら、その養を受け、その樂を楽しんでいるのである。

三、自身に特段の才能や徳、行義がなく、団体を庇護したり、人を治めるような功なく、この美味の養いを受けていることは幸甚だしいことである。

四、世界には自分より貧しい人は多い。糟のような食でも嫌がることなく食べている。或いは飢えて死ぬ人もいる。自分は良い穀物を飽きるまで食い、飢餓の憂いがない。これは大いなる幸福ではないか。

五、上古の時代を考える。

上古には五穀がなく、草木の実と根葉を食べて飢えを免れていた。その後五穀ができてもまだ火を通した食を知らなかった。釜等がないので煮て食う事もなかった。生で噛んで食うと、味が無く胃腸に負担がかかる。

今は白飯を柔らかく煮て、ほしいままに食べ、又羹(あつもの)もあり、副菜もあって、朝夕の食飽きている。同時に酒があり心を樂しくさせることができ氣血を助けている。

このように考えると、朝夕食事するごとにこの五思の内、一つ二つであっても代わる代わる思い巡らして忘れないようにする。

そうすれば日々の中の樂もまたその中にある。

これは愚かな私の臆測としての説明である。今、あまり考えずにここに記載した。

仏教では食時の五觀と言うものがあるが、これとは異なる。

鳳凰堂流解釈
五思は貝原益軒独自の観点であり、

仏教には五観と言う考え方があります。

一、功の多少を計り彼の来処を量る。
        苦労してできた米に感謝する。

二、己が徳行の全缺と忖って供に應ず。
       この食を戴く程精進しているかどうかを       
       内省する。

三、心を防ぎ過(とが)を離るることは貧等を
      宗とす。
      好き嫌いせず、怒りを制御する為に
      食べる。

四、正に良薬を事とするは形枯を療ぜんが
       為なり。
       食事は薬と同じで痩せ細ったり、命が絶
       えたりしないように戴くもの。


五、成道の為の故に今此の食を受く。
      自分の本性を輝かせ、生きる為に食事を
       戴く。

内容は異なりますが、自分を輝かせること、他者への感謝が基本となります。

若い人や浅慮な人はここまでの思いを馳せる事ができない為、前を歩く人が優しく伝える必要があります。

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