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養生訓 巻第三 飲食上 鳳凰堂流解釈㉖

原文を現代文に改変
煮過して飪(にゑばな)を失える物と、いまだ煮熟せざる物比ぶべからず。

魚を煮るに煮ゑざるは悪しし、煮過して飪を失えるは味なく、仕えやすし。

良き程の節あり。

魚を蒸したるは久しく蒸しても、飪を失わず。

魚を煮るに水多きは味無し。

このこと李笠翁が閑情寓寄に言えり。

鳳凰堂流意訳
煮過ぎて飪(にえばな)を失った物と、いまだ煮ても熟しきれていない物。

魚を煮る場合、煮え切っていないものは悪く、煮過ぎて飪を失えば味がなく、仕えやすい。

ちょうど良い程度がある。

魚を蒸す場合は長く蒸しても、飪を失わない。

魚を煮る場合、水が多いと味がなくなる。

これに関しては李笠翁の閑情寓寄に書かれている。

鳳凰堂流解釈

突然煮方、蒸し方の話になっています。

李笠翁は、李漁。明代から清代(万歴帝あら康熙帝)の小説家で、閑情寓寄(かんじょうぐうき)と言う書に記載されているとの事。

日本人であれば、池大雅と与謝蕪村が書いた十便十宜図(元は李漁の十便十二宜図)の方が知られているのではないかと思いますが、敢えて閑情寓寄を出すところに貝原益軒の見識の広さが垣間見られます。

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